39.広がる闇
それから数日が経った。
ヴァスカとレイナの間のぎこちない空気は変わらず、より一層溝が深まるばかりだった。
あの日のレイナの「ごめんなさい」を、ヴァスカは自分の拒絶にとらえていた。自身の全てを否定されたのだと思い、そして同時に自分のレイナへの強い想いにも気付いたことで二重の苦しみとなっていた。しかしレイナは、「泣いてごめんなさい」という意味で謝罪したのであり、けっしてヴァスカを拒んだわけではなかった。あの涙は、確かに混乱から来るものだったが、ヴァスカ自身をレイナはとっくに受け入れている。
レイナは、自分があの雰囲気を壊したせいでヴァスカが怒っているのかと思いその謝罪をしたくて彼をつかまえようとするのだが、ヴァスカのほうは彼女にさらなる拒絶の意志をぶつけられるのを恐れ、彼女から逃げていた。それがまた、レイナにとっては彼に嫌われてしまい避けられている、としか思えず苦しいし、ヴァスカはレイナが追ってこないと、やはり自分になど関心がないと言われているようで辛かった。二人は言葉を交わさないまま、誤解が誤解を生む負の連鎖の中、お互いを避けるような日々を送った。
そんな二人の不穏な雰囲気にすぐに気付いたセルヴィは、それぞれに話を聞こうとするのだが、二人とも話しにくそうに曖昧に返事をするだけで、セルヴィはその真相が何も分からなかった。それも仕方のないことなのかもしれない。未遂とはいえ二人の間に「押し倒した」ことと「押し倒された」ことの事実がある限り、そういうことはやはり第三者には言いにくいものだ。
三人は一緒に食事をするが、それが終わるとすぐにそれぞれの空間に逃げ込んで、また食事の時間に顔を合わすがほとんど口をきかない、という殺伐とした日々を送った。
最近、レイナはハープシコードを弾かなくなった。セルヴィにはそれが寂しくてならない。
(もう、こんな息苦しい生活を何日続けてるんだろう……)
レイナとヴァスカの間の雰囲気がぎくしゃくし始めた、その理由が彼には全く分からない。ヴァスカに問えば「お前が首を突っ込むことではない」の一点張りだし、レイナに問えば「ちょっと今は、話せそうにないの、ごめんね……」と、こちらが謝りたくなるような悲しそうな顔で首をふるだけだった。二人は、お互いを嫌っているのはなくて、ちゃんと気にしているのに近寄れない、話せない、といったふうだ。ここのところずいぶんと穏やかで幸せな毎日だったため、その反動がとてもつらい。
(このままお互い離れていく、なんてことには絶対させないつもりだけど、でも……)
こればっかりはセルヴィ一人の意志ではどうにもできない。二人がこの先歩み寄ろうとしないのならば、そして今、もっと決定的に二人を引き裂くようなことが起こってしまえば、所詮第三者の立場であるセルヴィにはあがきようもなかった。
いまセルヴィに想像し得るその「二人を引き裂く決定的出来事」の一つは、何らかの方法でレイナの存在を突き止めた「ジェフリー」がレイナを迎えに来るなり接触なりすること。絶対にどう考えたってありえない、ということではない。二人の間に亀裂が走っている今、レイナがかつて愛し愛されていた相手が現れ再び愛を囁けば、正直彼女を傷つけることしか出来なかったヴァスカでは分が悪い。そしてあと一つは、想像もしたくないが、魔の長ゼデキアが手の届くところに現れヴァスカの復讐心を煽り、レイナも顧みず飛び出していってしまうことだ。それでもしもヴァスカが命を落とすようなことがあれば、レイナはひどく心を痛めるだろうし、セルヴィも一緒に消えてしまうから、彼女を支えてやることもできない。しかし今のヴァスカには、レイナへの認めきれない淡い想いよりも強烈に血を滾らせるゼデキアへの復讐心のほうがずっと強いものだろう。もし奴が現れれば全てを捨てて行ってしまう。
全てが壊れてしまうその前に、どうにか手を打ちたい。そう思うのだが、やはり、セルヴィにはどうしようもできないのだった。
***
短い秋が終わる。世界が静寂に包まれ、死を思わせる季節――冬がやってきた。
***
しんと突き刺すような冷たさで空気が満たされる。まるで、レイナとヴァスカの間を押し広げるような寒々しい日々が続く。かろうじて雪は積もっていない。しかし一度天気がくずれるようなことがあれば、たちまち白に覆われることは間違いなかった。
レイナは部屋か図書室に閉じこもることが多く、いつもぼんやりと思い悩んでいた。ヴァスカも夜中に屋敷を出ていくことが増え、帰ってくると決まって気が昂ぶっていて近付くことすら出来なかった。セルヴィは黙々と家事をこなし、あたたかかった一時期の暮らしが戻ってくるのを願いながら、そっと二人をうかがう毎日だ。
ある日の夕暮れ、レイナが部屋からも図書室からも離れて、久々に庭園を散歩していた。雪は降らなくても、庭の芝は茶色く枯れ、そこに霜が降りて全体的に白っぽかった。レイナは編みあげブーツの下でザクザクと鳴る霜の感触を味わっていた。はじめは無心で歩を進めていたが、やがて、その行為がひどく気持ち悪く思えてきた。
踏みつけ、壊すことでしか知れない音。自分の足の下で鳴る崩壊の音。紛れもなく、自分が壊している、その音。
レイナは、突然、ぴたりと足を止めた。否、一歩も動けなくなってしまった。
自分が動くことで壊れていくものたちに、突如として恐怖を味わった。首だけをめぐらせて、振り返る。広い庭園に、一筋続く自分の足跡は、自分が壊して気にも留めなかったものたちの動かぬ証拠で。
――ああ、
がくりとその場に膝をついた。涙が滑り落ちる。身動ぎするたびに壊れる地面。どうしようもない吐き気がこみあげる。レイナはその場に吐いた。出てきたのは苦い胃液だけだった。激しくむせて、息も出来ない。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。父を愛し、弟を愛し、そして失った。その復讐に燃える。男として愛した王子を、今は少し違う種類の愛だとしても、愛しく思う。唯一の愛を誓った思いに、嘘はなかった。だけど今、本当に愛したいのは違う男。そして彼は復讐すべき人と同族。王子はレイナにとっての仇を尊敬する父王だと思い込まされている。故にレイナが復讐を果たした時、彼はレイナを憎む以外にあり得ない。それは本当に辛い。肉親を失い、愛した人からの愛を失い、今愛する人からもうとまれ、自分の手元に残るのは何か。復讐、憎悪、怨嗟、悲哀、絶望。――なんて不毛な。
ふふふ、とレイナは泣きながら笑った。
私はどうして彼を愛したの? 同じ傷を持つ者同士、仲良くしたかっただけ? 彼は今や、いや、はじめから私を糧として以上に見たことはないだろうに。私はそれを利用して、勝手に幸せになろうとしていた? 血を与えれば愛されると思った? 餌を与えれば懐くと思った? 愛を得られると思った? ――それこそ、彼を人として見てなかった動かぬ証拠だ。人として生きることを望みながらそれが許されぬ彼を嘲笑うかのように、私は血を与えて飼い主気分だったのか。
分からない分からない分からない。自分の気持ちすら判然としない。私はどうしたいの?
彼女の体の下で崩壊の音が鳴る。
***
ヴァスカは母の部屋に来ていた。
窓を暗幕で覆い、封印してきたつもりだった。その浅はかな鎖を彼女が取り払っていった。今、その部屋は美しくかつての姿を取り戻している。天井までの高い窓から冬の冷たい光が差し込む。部屋の真ん中にはハープシコード。今は優しい音を知った、小さな貴婦人。母はそれを“小さな友、小さな貴婦人”と呼んでいた。父が母に与えた多くの物の中で、唯一母のものになったのが、その貴婦人だった。母はヴァスカを愛せなかったけど、ハープシコードの音は等しく兄弟の頭の中に響いた。いや、母はヴァスカを愛していたのかもしれない。だけど母も魔に狂わされた人だった。消えない憎しみを悲しみを、何かにぶつけなくては己を保てなかった。その対象がヴァスカになってしまっただけだ。きっかけは彼が使った魔の力。それだけだ。もとは母の中にあった愛は、双子に等しく注がれるものであったに違いない。母は悲しい人だった。母は普通の、貴族の娘だったのだ。突然、魔の長によって平凡な人生を歪められた。それでどうして平常でいられよう? そうなのだ、そうだったのだ。ただ、それだけのこと。母は普通の人だった。それ故、彼を受け入れられなかった。
こんなことを考えられるようになったのは、ひとえに彼女のおかげだ。彼女も、多少複雑な事情を抱えてはいるがただの人間である。彼女と一緒にいて呼び起される様々な想いは、同じく人としてのものなのだろう。それを跳ね返そうとしていた自分のなんと幼稚なことか。復讐を理由にして魔に徹しようとしていた自分より、セルヴィの方がよっぽど大人だ。彼はヴァスカの仕打ちも受け入れ、今を大切に生きようとしていた。ヴァスカはそんな、彼の前向きな気持ちすらも踏みにじるように、自分を責めその苦しみを昇華させるためだけに復讐を唱えていた。なんて無意味な。セルヴィはヴァスカの懺悔をとっくに受け入れて、新しい二人で新しい命を生きようとしてくれていたのに。
ヴァスカは唐突に悟ったのだった。自分の成そうとしていたことの不毛さ。セルヴィの希望。そして、自分の、彼女への想い。認めてしまえば、こんなにも晴れやかな、強い想い。
――俺は、なんて馬鹿なことを。
もう一度、今からでも間に合うだろうか。広がってしまった溝を取り戻したい。そうして、彼女と自分とセルヴィと、三人静かに過ごしていきたい。復讐を成すことよりもこっちのほうがよっぽど難しい未来だけど、でもだからこそ、手に入れかけたものを逃したくはない。――そう思っても、彼女を望んでも、俺は良かったんだ。
そう気付いたヴァスカは、長年の重荷を下ろし晴れ晴れとした表情だった。どんなに難しくても大変でも、彼女を手に入れることが自分の最善だと、思えた。セルヴィもそれを伝えたかったに違いない。
母の部屋から踏み出した一歩は、ヴァスカにとって確かに大きな、大きな一歩だった。
――そのすぐ先に、暗闇が広がっているとも知らずに。
***
父よ、大いなる魔の長の父よ。貴方のことを尊敬し、貴方の様に成りたいと思っていた。魔の者達の憧れで畏怖であった貴方を、確かに誇りに思っていた。――それが、壊れてしまったのはいつだったか。俺の想い人を我が物顔で掻っ攫って行った時か。それともその人が貴方の子を産んだ時か。いや、貴方がその人に本当の愛を感じ始めた時か。俺には分からない。ただ、貴方を盲目に信じる事が出来なくなった、それだけが真実だった。
俺は今、貴方の愛した息子を憎んでいる。貴方を恐れるあまり貴方自身を憎めなかった代わりなのかもしれない。それでも構わない、俺は、貴方の愛した息子を憎んでいる。
貴方の愛した息子は、貴方と同じように、人間を愛した。なら俺は、貴方にされた様に貴方の息子が愛した人を奪おうと思う。それも、一番残酷な遣り方で。構わないでしょう? 貴方もそうして一人の男を不幸に突き落としたのだから。俺は憧れていた貴方と同じことをするだけです。
貴方の愛した息子は、人間を愛した。俺はその人間の女を、貴方のしたように、奪う。
それだけです。
先日、授業の関係であるメキシコ文学を読んだんですが、この書き方、それに多分に影響されています。。。
読みにくくてすみません。