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3.甘美な血

 月明かりに淡く照らされ、ぼんやりと浮かぶ廊下を歩きながら、ヴァスカは思い出していた。

 森に甘美な匂いが漂った、あの夜を……。


 早くから上った月はすぐに山あいに消え、光のない夜だった。ヴァスカはのどの渇きに耐えかね、屋敷を出て森をさまよっていた。その渇きは、ただ水をとるだけでは癒されない。人間の――特に、若い女の血を啜ることでしか、消えないのだ。できるなら村には行きたくないが、そうも言ってられない。暗い森は静かだった。

 そのとき、わずかな空気の振動がヴァスカの頬をなでた。それは嫌な〈気〉だった。

(……〈白い奴〉がいるな)

 そう思い、ヴァスカは気配を感じたのと逆の方向へ体を向けた。が、次に、強烈な芳香が鼻をくすぐった。そのあまりの甘美さに、ヴァスカはくらりとした。のどの渇きが一層強くなる。

 すばらしい、この世にまたとない、最高の血の匂いだった。

 そう分かったら、もう、足はそちらに向いていた。匂いがだんだん濃くなり、近づくにつれ、早足になった。

 そして、見つけたのだ。

 闇の中、深紅の海に美しい琥珀色の髪を広げ、倒れている娘を。そっと近づくと、娘は体を強張らせた。落ち葉の上に流れ出る血を指に絡めとり、口に運ぶ。ヴァスカは、その味に、酔った。この血は魔物を狂わせる……。

 見ると、娘は背に大きな傷を負っていた。あふれ出る血、血、血。

 思わず手を伸ばして傷に触れると、娘は短い悲鳴を上げて気を失った。ヴァスカは、ようやく、この娘が瀕死の状態であることを理解した。このまま殺すのはもったいない……そう思い、魔力で応急処置の止血だけし、ヴァスカは娘をかついで屋敷に戻ったのだった。

「セルヴィ」

 屋敷に戻るなり名を呼ぶと、少年魔族は駆け足でやってきた。主人の肩に担がれた娘を見て目を丸くする。

「こいつを寝かす部屋を、急ぎでたのむ」

「はい!」

 セルヴィは再び、駆け足で屋敷の奥に消えていった。部屋の準備を待つ間、ヴァスカは娘の背に目をやる。止血はしてあるが、こびりついた血の間から生々しい傷がのぞいている。赤い肉が玄関ホールの弱い灯りに光っていた。血に汚れてはいるが、娘の肌は抜けるように白い。青い血管が透けている。

 ヴァスカは、そのやわらかい肌に歯をたてたいという衝動を必死に抑えた。

 彼には娘の開いた傷が熟れた果実のように見えるのだ。みずみずしく、ヴァスカを誘うような……。

 生つばをごくりと飲み込んだとき、セルヴィが戻ってきた。すぐに用意された部屋に娘を寝かせる。傷があるので、うつぶせにさせた。そしてためらいもなく、娘のそのぼろ布のような服を引き剥がした。セルヴィが後ろで息を呑んだようだった。無理もない、この匂いはどんな魔族にも甘いはずだ。

「湯はできてるか」

「はい、ここに」

 周到なセルヴィは、沸かした湯に清潔なタオルを持ってそこにいた。それを受け取ると、ヴァスカは丁寧に娘の背を拭いてやる。あらかた汚れと血が落ちたところで、ふうと息をつく。

「傷に効く薬はあるか」

「いえ、作ってあるものはありません。今すぐに薬草を採ってきても、時間を置かなきゃいけませんから、明日の昼まで待たないと……」

「そう、か」

 とりあえずは、明日の昼まで、この娘の体力がもちさえすればいい。

「あの……そんなに大事な方でしたら、魔力で治さないんでしょうか?」

 セルヴィがおずおずと尋ねた。

「俺としても、それが手っ取り早くていいんだが……人間は、自然の治癒力にまかせるのが一番いいと、昔――」

 そこまで言って、ヴァスカははっとして口を閉じた。セルヴィは、そういうことでしたか、というように頷いた。

 翌日の昼前、薬ができたのでセルヴィが娘の部屋に入った。ヴァスカは少々遅れて部屋に向かった。そのとき、〈白い力〉の気配がした。ヴァスカもとっさに魔力を放った。〈力〉の気配はすぐに消えた。娘のほうも、体力が底をつきたのだろう。しかしセルヴィを傷つけようとしたことは許せない。あれは使い魔だ。使い魔が召喚されているときに死んだりしたら、それを召喚していた主人のほうの悪評となる。それに、セルヴィは、ヴァスカにとって特別なのだ……。

 部屋に入ると、娘がベッドの上に横たわっている。日の光の中、琥珀色の髪は黄金に透けていた。ミントグリーンの瞳には恐怖が表れていた。その色にぞくりとする。人の恐怖はヴァスカを魔族として駆り立てるのだ。美しい顔を、歪めてやりたくなる。

 ヴァスカは心の中でほくそ笑んだ。

 見目麗しく、狂おしいほど甘美な血を持った、最高の糧を得たのだ――。


 あれから五日が経った。

 セルヴィの作った薬はよく効いている。そのせいでもあるが、娘は熱を出して眠り続けていた。ただ容体は安定しており、おそらく命は助かるだろう。

 そろそろ、ヴァスカのほうが限界だ。のどの渇きは日増しに強くなる。娘の血の匂いは渇きを煽るのだ。

 今夜は、もう、その血をいただこう……そう思って、娘の部屋に続く廊下を曲がった時、長い髪を揺らしながら、娘が廊下を左右に見まわしていた。廊下の端にいるヴァスカには、暗くて気付かなかったらしい。娘の頭が引っ込んだので、ヴァスカは音もなく床を蹴り、ひとっ飛びで娘の部屋の前に立った。扉の隙間に足を入れた。扉が動かないのに気付いた娘が、隙間を覗き込み、そしてヴァスカに気付いた。

 ヴァスカはするりと部屋に入り、後ろ手に戸を閉める。娘は恐怖に震えていた。それでも自我を保っているあたり、気丈な女である。

(さあ、堕ちてこい……その味が、さらに甘美になるように……)

 ヴァスカの不敵な笑みは、闇に紛れた。



初のヴァスカサイド。

結構黒い人です。


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