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38.初めての感情

 ある日の夜。ヴァスカはそっと、屋敷を抜け出してその周りの森を歩いていた。

 秋も深まるこの時期、夜はまた一段と冷え込む。コートの襟元を掻き合わせ、揉みこする手に息を吹きかけるが、寒さは一向に和らぐことがない。雨が降ればみぞれくらいにはなるだろうという気温だ。

 ここ十数日、ヴァスカはこうして折を見て屋敷の外を見回りしていた。というのも、最近結界のまわりをうろつく魔の気配が少し多くなったからだった。これまでの数年間でそういう時期は何度があったが、今までは何か原因があるのだろうと思いながらもそれほど重要視してこなかった。

 しかし今はわけが違う。

 屋敷には、セルヴィの他に、レイナという守りたい者がいる。しかもずいぶんとワケありの存在だ。その血は魔の者を狂わせ、この国の王――その正体は魔族の有力者である――にまで追われている、美しく強気で事実強力な〈白き力〉を持っているが、どこか脆く儚げな人間の娘。

 その存在が、ヴァスカの意識から離れなくなったのはいつからだろう。こちらが驚くほど正直に泣き、笑い、怒り、自分たちを気にかけてくれる、そのたびに、ヴァスカは忘れていた――否、忘れようと努力してきた様々な感情を呼び戻されたのだ。もはや人間としては存在出来なくなった自分にあってはならない“人間の感情”を、容赦なく煽り呼び覚ませた。それをはじめは疎ましく思い、恨み憎み、怒りのままに傷つけようとした。しかし、今……ヴァスカは彼女のその真っ直ぐな瞳を、自分のものにしたいと思うようになっていた。自分が触れたら、至純の心は黒く染まると分かっていながら、でも、他の誰かにそうされるくらいなら、自分の手で壊したいと思うのだ。そして同時にそんな醜くも熱く強い自分の想いに戸惑い、怒りを覚える。

 そして、それが彼女や多くの人間たちが言う「好き」という感情だとは、どうしても、思えなかった。

 こんな邪悪な想いが相手を幸福にするなどとても考えられないし、自分のこの手で扱うものは、全て傷つける様しか想像できなかった。彼女が自分に向けてくれる好意はくすぐったくも心地よく、なんの見返りも求めないような明るさがあるのに。自分はと問えば、最近は彼女が与えてくれるそんな優しい想いや甘い血では飽き足らず、彼女の全てを味わいたいと思うようになった。今までどんな女にも抱いたことのない衝動に、戸惑うばかりだ。

 ヴァスカは結界のまわりをうろつく魔物を見つけるたび、そうしたもどかしい苦しい悩みの鬱憤を晴らすように音もなく奴らを始末するのだった。

 今日も魔物たちはヴァスカの黒い影に消えていく。今晩何体目か分からない魔の気配を感じ取ったとき、なにかひっかかるものを感じた。それは思い出したくない光景と一緒に、一気にヴァスカの頭の中に流れ込んでくる。それを理解した途端、ヴァスカの体は膨れ上がった怒りとともに爆発的な力を以ってその場へ一気に駆け出した。

「――貴様っ!」

 怒号が森の中に響く。それを聞いた影が、ヒィッと情けない声を上げて、慌てて逃げだした。しかし魔の力を存分に使うヴァスカから逃れられるはずもなく、太い喉を鷲掴みにされたその男はじたばたともがいた。

「ギルバード……! お前が魔物を放っていたのか?!」

 小柄なギルバードは、ヴァスカに少し持ち上げられただけで足が浮く。しかも首を怒りのままに締め上げられ、喉からはヒュウヒュウと息の漏れる音しかしなかった。ヴァスカはしばらくその様を鬼の形相で睨んでいたが、いよいよ彼の顔から血の気が引きかけたところで、その体を地面に放り投げた。

「く、そっ……! 俺は、お前が、昔から、気に喰わなかっ、た! ちくしょう!」

 ギルバードは苦しげに慌てて呼吸をしながら、どうやっても敵わないヴァスカにいらつき、怒鳴り散らした。

「へ、へっ……あれから、娘とよろしくやってんだろ? あの女の肌は、さぞや嬲り甲斐があるだろうなあ!」

 ヴァスカはカッと頭に血が上り、ギルバードの喉を踏みつけた。ギルはガハッと血を吐いた。

「貴様、それ以上あいつを穢してみろ……二度とこの世に存在出来なくしてやる!」

 喉を踏みつけられ、いつ殺されてもおかしくないギルバードだったが、彼は狂乱の瞳で笑い、ヴァスカを見上げた。

「女に狂う男はいいねえ、無様だねえ。あんまり脆くて、反吐が出る!」

 そう叫んだ瞬間、四方八方から無数の魔物がヴァスカめがけて飛び出してきた。その数、十数体。明らかに自然に集まった様子ではない。怒りのあまり我を忘れかけていたヴァスカに一瞬の隙ができ、魔物たちの急襲が功を奏した。すぐにヴァスカは魔力を爆発させ彼らを消滅させたが、彼らの鋭い爪や牙が何箇所か突き刺さり引っ掻き傷を作り、自分自身久々に見る己の血に、「まだ赤かったのか」と詮無いことを思った。

「俺はもう、お前が恐ろしくなんかない。死ぬことも、どうでもいい。お前が苦しんで、苦痛に歪む顔を見たい、それだけだ」

 気付くと少し離れたところに立ってクツクツと喉の奥で笑うギルバードは今までと打って変わって不気味で、狂気に満ちていた。ヴァスカは正体の分からない薄ら寒いものを感じ、それ以上の追撃を止めた。ここで奴を始末すべきか、放っておくべきか、すぐに判断できなかった。そうした一瞬の逡巡を分かってか、ギルバードは余裕の笑みを浮かべ、その場から姿を消した。

 まるで一瞬に感じた怒涛の出来事に、ヴァスカはしばしその場に突っ立っていた。しかし怒りが静まるとともに冷気が体の芯まで冷やしはじめ、ぶるりと震えた。このままここにいても、いいことはない。ヴァスカは慎重に気配を消し、結界の中に戻った。

 屋敷に入っても、あたりはしんと静まったままだ。先ほどまでの爆発した感情と比べると、ここは静かすぎて耳が痛い。ヴァスカは血で汚れた体を流すため風呂場に向かった。湯をかぶると傷に染みてピリリと痛みが走った。大したものではないが、こんな風に怪我をしたのは随分久しぶりだった。ズボンだけはいて、汚れたシャツとコートをそのまま抱えて食堂に向かった。セルヴィが作った薬草の傷薬がどこかにあったはずだと、手探りで棚をかきまわす。いくつか見たが見当たらず、別に必要ないか、と体を起こした時だった。

「……ヴァスカ?」

 小さな声にぱっと顔を向ける。

 食堂の入口に、白い夜着とガウンを着て、燭台を持ったレイナが立っていた。蝋燭の光に髪と肌が淡く光っている。白いガウンは闇に浮かびあがっているように見えた。

「何か探してるの?」

 そう言って近づいてきて、ヴァスカの姿を見てはっと息を飲んだ。かろうじて燭台を落とさずに済んだようだ。

「怪我してるの?!」

 真っ先に目についたのだろう、頬に走る傷に手を添えて、レイナは彼の顔を覗き込んだ。

「っ……」

 そんな彼女の行動にヴァスカは身じろぎした。魔力を使ったせいか感情が高ぶって、レイナに触れられるだけで邪な衝動に駆られそうになる。どうにか理性が勝ってぐっと持ちこたえたが、レイナはそんな彼の様子が傷が痛んだせいだと思ったらしく、小さく謝ってから、すぐに強制的に彼を椅子に座らせた。そしてヴァスカが見つけられなかった薬を棚から出してきて、頬の傷に丁寧に塗り始めた。今、レイナの目には「処置しなくてはならない傷」が映っているだけであって、ヴァスカ自身を見ているわけではない。だがその真摯な瞳にじっと見つめられ、レイナのあたたかい指が頬の上を滑るたびヴァスカはくらくらとめまいがした。強い酒に酔ったように、体の芯がじんわりと熱を持つ。

 頬が終わり、レイナの指がヴァスカの肩の傷に移動したときだった。

 ほとんど無意識に、ヴァスカはその手を掴んでいた。レイナは驚いてヴァスカを見上げる。そして、もう片方の手で、ヴァスカは彼女の顎を掴んだ。上向いたまま動けなくなったレイナは、そのままヴァスカとじっと見つめあう。ミントグリーンの瞳が蝋燭の火にゆらゆらと濡れ輝いている。どこか不安げなそれに、ヴァスカの理性は焼き切れた。

 彼女の唇に噛みついた、文字通りに。薄い皮は簡単に切れて、下唇に至宝の赤い珠がぷつりと現れる。一度柔らかい唇を舌でなぞってから、再び噛みつくようなキス。レイナはすぐに顔を背けようとしたが、ヴァスカがそれを許さない。

「んっ……や、」

 やめて、という言葉ごと飲みこむようにヴァスカはレイナの口を貪った。引け腰のレイナをヴァスカが追い詰める形でダイニングテーブルに押し付ける。夢中でレイナの唇を味わった。やがて首筋、鎖骨と通って、夜着の襟の合わせ目を押し広げようとしたときだった。

 ヴァスカははっと我に返る。不穏な息遣いを聞いたのだ。――レイナが、泣いていた。ぎゅっと目をつぶり、体も震えている。そこでようやくヴァスカは自分の過ちに気付いた。レイナの同意も求めず、自分だけで暴走したのだ。女にとって、男に組み伏せられ自由を奪われることがどんなに恐ろしいことか、想像だけでも己のしたことの酷さに打ちのめされる。

 ヴァスカはどうしていいか分からず、そのまま硬直してしまった。レイナがそろそろと起き上がる。唇は赤く腫れ、震える手が頼りなげに夜着の前を抑えている。そして、涙を拭いつつ、かすれた声でささやいた。

「――ごめんなさい……」

 ヴァスカは衝撃を受けた。本当に、自分に雷が落ちてきたのかと思うほどの衝撃だった。

 彼女の謝罪の意味が分からなかった。それは、「受け入れられなくてごめんなさい」ということだろうか。つまり、ヴァスカを拒絶した言葉だ。

 ヴァスカは呆然と、突っ立ったままだった。レイナに自分を拒まれることが、こんなにもこたえるとは思いもしなかった。

(俺は糧として屋敷に引っ張ってきたこいつに、いつの間にか人として受け入れてもらいたいと、思っていたのか……)

 そして初めて気付いた自分の我儘さに、どうしようもない恥ずかしさと後悔とが押し寄せてきた。ヴァスカはいたたまれなくなって、その場から逃げるように立ち去った。背中にレイナの呼ぶ声がかかったが、振り返らずにそのまま食堂をあとにした。

 まっすぐ部屋に戻ると、急に力が抜けた。扉に背を預けずるずると座り込む。先ほどのことがまた蘇って、さっきまでの自分を殴り飛ばしたくなる。だけどそんなことは出来ない。やってしまったことはどんなにあがいたって帳消しにはならない。

(俺は、どこかであいつが俺に逆らえないだろうとか俺を拒まないだろうとか、そんなことを思っていた)

 なんという思い上がりだろう。事実、今まで彼女はヴァスカに逆らえない部分があったし、ヴァスカの手酷い仕打ちにも耐えることが多かった。でも、それをはじめから期待して彼女を今回のようなやり方で我がものにするのは人として(・・・・)間違っている、と感じたのだ。

(捨てようとしてきたはずの人間の俺は、いつまでも、消えてくれない……)

 ふと、身も心も魔族らしくあろうと必死になってきたことの空虚さと辛さを思い知った。そして、レイナがヴァスカの中に求め見ようとしてくれた人としての自分が、彼女のそばで居心地が良かったことも唐突に気付く。

 しかし同時に、人として自分を見てくれていた稀有な存在である一人の女性を、たった今、ヴァスカは“男として”踏みにじったのだ。一番してはいけない、力という手段を以って。

 ――ヴァスカは自分の両手を見下ろした。何匹もの魔物を葬り去り、何人もの女の命を貪り、唯一の弟の未来までも奪った自分の手。この手が、しかし、本当に手にしたいと、守ってやりたいと思う者が、すなわちヴァスカにとって何を意味するのか。

「俺は――……」

 今まで自分で口にしたことのない、想い。どうやって自身の体から、言葉にして昇華してやればいいのか分からない。

「っ、くそ……!」

 空っぽの両手は、虚しく自らの顔を覆った。



ずっと書いてみたかった、唇からの吸血!そして未遂!

ヴァスカさんも男の子です。


ヴァスカの心情を描こうとすると、どうしても黒くて暗くて鬱々としてしまう…

早く幸せになってもらいたいものです。


次回から、一応“最後の決戦”て感じです。

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