37.縮まる距離
「うわあ……きれいな旋律……」
セルヴィはレイナの膝もとで目を輝かせて、彼女を見上げていた。レイナも嬉しそうに見つめ返す。
「これはね、作曲者がある朝目覚めてとっさに思いついた曲なのよ。ここの音は、きっと小鳥のさえずりを表しているんだと、私は思っているの」
「うん、そんな感じがした」
楽しそうに笑いあって、穏やかな午後のひとときだ。
レイナとヴァスカとセルヴィ、三人の生活は、あれから――ヴァスカとセルヴィの過去を明かした日――大きく変わりはしなかった。しかし、些細な変化はたくさんある。
「そろそろお茶にしましょうか」
「ええ、そうね、ちょうど小腹がすいてきたわ」
レイナの賛同も得て、セルヴィは軽い足取りで厨房に向かった。その間も頭の中にはレイナの奏でるハープシコードの音が優しく響く。
ヴァスカとセルヴィの父親である先代が、妻のハープシコードをいつでも聞けるようにと、その古ぼけた楽器に施した魔法は未だに錆つくこともなく。兄弟の頭の中には、その音色が本人たちの意思にかかわらず流れ込んでくるのだ。今も昔も、それを嫌だと思ったことはなかった。そして今は、特に、この魔法をかけた先代に感謝すらしたい気分だった。今まで母が弾いていたのは悲しくも美しい曲だったが、今同じハープシコードで奏でられるのは聞いているだけで世界を輝かせるような明るく楽しい音の粒だった。
毎日、レイナは数時間をハープシコードを弾いて過ごす。自分の覚えている曲を思い出しながら弾くこともあれば、部屋にある古い楽譜を引っ張り出して挑戦することも多い。どちらにしろ、その生きた音は屋敷に迎えた新たな存在をゆっくりと実感させた。
セルヴィが食堂に入ると、そこにはいつもの席に座るヴァスカがいた。彼は腕を組んで目を閉じ、うつむいている。一見寝ているようだが、そうではないことをセルヴィは知っている。彼はそうしてレイナの音に聞き入っているのだ。しかしセルヴィが入ってきたのに気付くと、へたくそな取り繕い方でさも寝ていたかのような反応を見せる。セルヴィがそれを見て微笑むと、ばつが悪そうにそっぽを向き、軽く唇を尖らせるのだ。そんな反応は数年来のもので、これも嬉しい変化の一つだ。
あとは、セルヴィは召喚主であるヴァスカのことを、かつてのように呼び捨てにするようになった。使い魔としての従者の態度は崩さなかったが、それはセルヴィにとってのけじめであり、心の氷はすっかり溶けていた。それはヴァスカも理解しているようで、セルヴィの意思を尊重するように自分も主としての接し方を保っていた。
食事は三人で一緒に摂るようになった。これはレイナが頑として譲らず、押し通した提案だった。しばらくの間、給仕役が染みついたセルヴィはヴァスカの皿が空になると毎回立ち上がりそうになった。しかしレイナに軽く睨まれて、しゅんと肩をすくめる。おかわりは、自分でよそうか、レイナが率先してするようになった。
夜寝る前は、お互いに「おやすみ」と言いあうようになった。はじめはレイナに言われるたびにどぎまぎしている様だったヴァスカだが、次第に憮然とだが返事をするようになり、今じゃすっかり当たり前のことだ。
セルヴィがヴァスカと同い年だと知ったレイナだが、その態度は相変わらず弟に接するような対年下のもので、どうも甘い。それがセルヴィには嬉しくもありくすぐったくもあり……同時にヴァスカの複雑そうな顔を楽しんでもいた。一度「ヴァスカも素直になれば、レンは可愛がってくれますよ」とからかった時は、さすがのヴァスカも頬を少し染めて怒ってセルヴィの頭にげんこつをお見舞いしていった。しかしそれも十分手加減されていて、レイナと二人で大笑いしていたが。
そして、ヴァスカとレイナは、二人でいることが多くなった。特に何か会話が弾むわけでもないのだが、お互いがお互いの空気に存在することを認め合っているのがよく分かった。食堂とつながっているリビングルームには立派なソファとテーブルがあり、食後、セルヴィが淹れたお茶やカフワと一緒に貴重な砂糖を使ったお菓子をつまみながら、二人はそこでそれぞれに本を読むのだ。おしゃべりをするのではないが、セルヴィにとってその光景はとても幸せな時間だった。おそらく二人にとっても、同じように穏やかなひとときに感じられているのだろう。
同時に、小さな不安もセルヴィの心に巣食っていた。
ヴァスカは積年の恨みをぶつける相手をついに見つけてしまったのだ。レイナという情報源から聞き出した、国王ゼデキアの話。金髪で容姿端麗、紫の瞳を持ち、さらに魔物を意のままに使役する力を持つ若い魔族、といったら間違いなくセルヴィやヴァスカの知っている“あの男”だ。ヴァスカはただひたすら、このゼデキアを倒し、非凡ながら穏やかに過ごすはずだった双子の弟との未来を壊された復讐を果たすことを生きる糧としてきた。そのためにこの人間界に留まり、父親が施した結界を膨大な力を使って強力なものにし、長い時をかけて自分の魔力を高めてきた。それは人間として生きたいヴァスカにとっては苦痛であったろう。魔力を使い、またこれを強くしようとすればするほど、吸血魔族の血が人間――とくに女の血を欲するのだ。ヴァスカは心を殺し、自ら魔に身を委ねることで女を手にかけることの嫌悪、罪悪の意識を必死に抑えてきたに違いない。
――だからこそ。
だからこそ、ヴァスカはゼデキアを殺したいほど憎んでいる。否、殺す気でいる。その気持ちは痛いほど分かるし、セルヴィもゼデキアさえいなければ、と思う。しかし、これ以上ヴァスカにだけ穢れを負わせ続けるのも嫌だった。
ヴァスカとセルヴィは、まだ、レイナに言っていないことが一つある。それは二人にとって認めがたい汚辱であり、またセルヴィの心配の種でもあった。
(せっかくヴァスカがここまで心を開いたのに……あと一息のところで、最後まであの忌々しい男が邪魔をする……!)
この最後の秘密があるがため、ヴァスカは完全にレイナを自分側に引き寄せられず自分からも寄り添っていけないのだ。
傍目から見れば、二人は完全に好き合っている。しかしレイナは自分の気持ちを認めているが相手のことを思ってかギリギリを踏み込まず、ヴァスカの方はまだ自分の心に気付いてもいないしあえて気付かぬようにしているかのようだ。
(いつか、ぼくの思い描くような二人になってくれるのかな……)
どうどう巡りの二人。仲人役としてはじれったく、しかしむやみに口を出せない問題。
セルヴィは人知れず、二人のために悩むだった。
***
季節はゆっくりと移ろう。短い初夏を経て本格的な夏も過ぎ、空気がしんと澄みわたりはじめた秋。
レイナはひとり、広大な庭を散歩していた。時刻は昼下がり、あたりはひんやりと冷たいが陽の光がぽかぽかと気持ちのいい爽やかな時間。昼食を終えたほどよい満腹感に幸せを噛みしめながら、ゆったりと歩く。目の前を横切る野ウサギの親子に目を細めながら、レイナは最近のお気に入りである小さな噴水のところまでやってきた。噴水のそばには蔦が優美に絡まる東屋があり、もう少し暖かい日はそこで本を読んだりお茶をしたりする。
パタパタと水の落ちる音が聞こえ始めたところで、レイナは思わず足を止めた。今までここに先客がいたことはなかったのだが、今日は、意外なことにヴァスカがいた。
ヴァスカもほぼ同時にレイナに気付いたらしい。遠目にも分かる、はっとした顔になる。レイナがこちらに向かってくるのが分かると、さっと立ち上がった――が。その長身がくらりと不穏に揺れると、ヴァスカは再び東屋のベンチに戻った。重そうに頭を抱えている。
「ヴァスカ!」
レイナは思わず駆け寄った。前にも一度、こういうふうに座り込んだ姿を見た。そのときは差し伸べた手をきつく締め上げられたが、今度は……レイナの手は振り払われなかった。隣に座り、丸まった背をゆっくりさすってやる。それでもヴァスカは大人しくされるがままだった。
(そういえば、今日は普段にも増して顔色が悪かった)
朝食のとき、食堂にやってきたヴァスカはいつも以上にだるそうで、少しいらいらしていた。時々レイナの方をちらりと見ては口元を押さえる、ということを繰り返していた。その時は、何か言い出しにくいことでもあるのかな、と深く考えなかったのだが、今、ひとつ思い至った。
「ヴァスカ、もしかして……血が、ほしいの?」
レイナの言葉にヴァスカは驚いたように顔を上げ、レイナを見た。その表情は、恐れとも怒りとも悲しみともとれる、複雑なものだった。
思えば、ヴァスカがレイナの血を口にしたのはこれまでに三回。最後のときは春の終わりだ。図書館で捕まり、手荒に肩の傷をえぐり、首に歯を立てられたあとなぜか傷をすっかり治していった、あの事件。あれからもうだいぶ経っている。もしかしたら渇きが耐えがたくなってきているのかもしれない。セルヴィが言っていた、ヴァスカはある目的のために魔力を蓄えているが、そのためには望まぬ人間の血をどうしても必要とするのだ、だから苦しんでいるのだと。
血を吸われるあの感覚を思うと鳥肌が立つような恐怖と不快感、拭いきれない背徳感がこみあげる。でも、なぜか今は、自分の我慢と引き換えにヴァスカが楽になるのなら……と、思える。レイナはそっとヴァスカの手をとり、自分の手首に乗せた。ひやりとした彼の指が、レイナの内手首を冷やす。
「お前……」
訝しげにレイナを見つめる紫紺を、レイナも見つめ返した。
「ヴァスカ、苦しいなら飲んで。首に歯を立てられるのはまだ抵抗があるけど、ここなら……我慢できる、と思う」
はっきり言い切れないのは、やっぱりまだ折ることのできないプライドがあったから。それでもここまでの妥協ならできるようになった。これくらいの協力で、彼が救われるなら、そうしたいと思えるようになった。それに、元はと言えば自分の血はこの屋敷に置いてもらうための代償だったのだ。
「やめろ、俺は、……」
「セルヴィに聞いたわ。今はあなたには血が必要だって。人間であることを望みながら人間の血を吸うことに苦しんでいることも。だったら、こう思えばいい。私もたいがい“人間”とは言い難い存在よ。私の〈白き力〉は魔のものたちに対抗する強大なものだけど、あまりに強すぎて、深い邪悪な心を持った人間も害してしまうの。……そうね、“人間”に成り損なった、“天の使い”とでも思って」
すると、ヴァスカがそっと息をついた。
「……“天の使い”なんて、自分で言うか普通」
冗談めかしたレイナの言葉に、微かに笑ったのだ。その微笑を見て、レイナは一気にまくしたてた言い訳じみた言葉が急に恥ずかしくなって、照れ隠しで頬を膨らました。
「だって、そうでも言わなきゃ、ヴァスカは」
「ああ、“天の使い”なら魔族の対極にいる人にあらざる者だ。だったら、俺も気兼ねは要らないな」
そう言って、レイナの手をそっと掴んだ。それにドキリと心臓が跳ねる。自分で言い出したことなのに、レイナは急に逃げ腰になった。しかし今度は、ヴァスカの手はしっかりとレイナを捕まえている。そして、そっと。驚くほど優しい動作で、自分の口にレイナの手首を持っていった。
「っ……!」
微かな痛みは一瞬で消え、代わりに襲うのはため息の出るような甘やかな刺激だった。首から血を奪われるのとは少し違う、でもよく似たうずきが背を走る。震える呼吸を気付かれたくなくて息を詰める。しかし、手首を伝う血の筋を舐めとっていた彼が、突然そこに強く吸いついた。その瞬間電流が全身を駆け抜けた。
「っ……あ、ヴァス、カ、」
くらくらとめまいのように視界が揺れる。名を呼んで、ようやくヴァスカの唇が手首から離れた。ヴァスカの顔色が戻っていた。レイナも頬が火照って、少し息がはずんでいる。深呼吸をして息を整えるレイナを、ヴァスカはじっと見つめて呟いた。
「……お前の血は、本当に、魔の血を狂わせる……」
今までに何度か聞いたその言葉に、レイナは恐る恐る聞いてみた。
「あの、それ、ギルバード……とかいう人にも言われたわ」
「ああ、あいつは本来人間の血を必要とはしないんだ。だけど、あのとき……お前の血の匂いに、あいつも狂っちまったんだ。お前の血は、魔界にあればきっと手に入れるために大きな戦が起きるだろうな」
「そんなに……特殊なの、私の血って?」
誇大表現じゃないかとヴァスカを見やるが、彼は至って真剣だった。
「お前の血で、自分の魔力がより澄んで強くなるのが分かる。お前の血は、魔の者にとっては喉から手が出るくらいに欲しいものだろうな」
「……ヴァスカも、そうだった? 私の血に魅せられたの?」
ついぽろりと、こぼれた言葉。言ってからレイナは激しく後悔した。そして急に恥ずかしくなる。
「っ、私ったら、ごめんなさい、今のは特に意味もないから。あの、お邪魔してごめんなさい……それじゃ」
ぱっと身をひるがえし、東屋から飛び出した。恥ずかしくてよく足元も見ずズンズンと突き進む。そのとき――
「きゃっ!」
レイナは、草に隠れて見えにくくなっていた小さな穴に思いっきりつまずいてしまった。それはアナウサギの掘った穴だった。軽く足をひねってしまったようだ。少し痛む足をかばって立とうとしたとき、傍に黒い影が降り立った。無遠慮にスカートの裾を少したくし上げて、冷たい手がレイナの足首に触れる。条件反射でびくりと身がすくんだ。
「ひねったのなら動かさないほうがいい」
あまりのことに、どぎまぎしてレイナの顔は真っ赤だ。
「あ、大丈夫、そんなにひどくないと思うから……!」
上ずった声で小さく叫ぶように言う。女性として、男性に素足を見せるなど――ましてや触れられているなんて! 何度か裸体を見られたこともある相手だったが、レイナは恥ずかしさで気が動転してしまった。しかし立ち上がろうとしてよろめくと、ヴァスカに抱きとめられる形になってさらに混乱が増す。
「……少し落ち着け」
背後から聞こえてくる声は意外に近くて、言われるまでもなくレイナは硬直した。
(なんか、なんか……いつもと雰囲気が違うよ!)
心の中で非難してみるも、このある種異様な(なにせ、今までが今までだ)雰囲気に理由が見つからない。そうこうしているうちに、レイナをもう一度座らせたヴァスカがその前に回り込み、背中を見せてしゃがみこんだ。
「ど、どうしたの……?」
もしかして、まだ血が足りなかったのだろうか。また貧血でふらついたとか? レイナが慌ててその背に手を添えて顔を覗き込もうとすると、手で制された。
「違う」
「……え?」
「部屋までだ。乗れ」
一瞬ぽかんとしたレイナだったが、すぐに彼の言いたいことを理解して、くすりと笑みが漏れた。
普通ならもう少し違う言い方があるだろう。特にレイナが以前いた環境では、男たちは女を喜ばせる話術を持っていることが基本だった。それなのにヴァスカは愛おしくなるほどに不器用で、普段の態度が冷たい分時折見せるささいな気づかいがことのほか身に沁みるように嬉しいのだ。
ここで断ったりしたら、きっと怒ってしばらく口もきいてくれなくなる、そんな気がした。
「ありがとう、じゃあ、お言葉に甘えて……よろしくお願いします」
相手に見えないと分かっていながら小さく頭を下げて、レイナはおずおずとその肩に手をかけた。躊躇いながら体を寄せると、彼の腕がレイナの足に絡み、ぐんっと立ち上がった。急な動きだったのでレイナは小さく悲鳴を上げてしまった。すると、ヴァスカの動きがピタッと止まってしまう。
「ご、ごめんなさい」
思わず謝ると、いや、と小さく呟いて、ヴァスカが歩き出した。今度はゆっくりだったので怖くなかった。
細身だと思っていたがその背中は男らしく広く、腕もしっかりとしてたくましい。ヴァスカが一歩を踏み出すたびに伝わる振動が心地よかった。彼のうなじに額をそっと寄せると、氷のにおいがした。でも彼の体はあたたかくて、変な感じだった。
そうして屋敷に戻った二人を見て、セルヴィが黄色い悲鳴を上げたのは言うまでもない。ヴァスカは少しふてくされて、レイナは照れたように笑った。セルヴィはそんな二人を、からかうのをやめて、愛おしげに眺めていた。
大みそかですね!
ちょっとお祭り気分で、明日1月1日も更新しようと思います。
皆様よいお年を!