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36.過去から逃れるために

 意識が浮上して、最初に目を刺したのはまぶしくあたたかい光だった。常に夜である魔界にはない、太陽の、光。そうか、ここは魔界でない世界か――

「セルヴィ!」

 軽い衝撃、セルヴィの体に飛びつく者がいた。

「……ヴァスカ?」

「大丈夫か? 腕は、脚は、ちゃんとある? 痛いところはない?」

 ヴァスカは必死でセルヴィの全身をチェックしていた。訳が分からない。

「ヴァスカ、どうして……」

 逃げたのではなかったのか。自分と一緒にいるということは、彼も死んでしまったというのか?

「セルヴィ、俺たちは生きてるよ。確かに、ここに。――ここは人間界なんだ」

 セルヴィは、えっ、と驚きの声を上げた。立ち上がってあたりを見回すと、見覚えのある風景だった。以前三人で暮らしていた古い屋敷の、森の近く。

「本当だ……信じられない! ぼくたち生きてる。しかも、また人間界に戻ってこられた! ありがとうヴァスカ、ぼくたちを救ってくれたんだね」

 喜び勇んで後ろを振り返るが、しかしそこには、心苦しそうに今にも泣き出しそうなヴァスカが座り込んでいた。

「ヴァスカ? どうしたの? もしかして、怪我してるのッ?」

 駆け寄っても、ヴァスカはふるふると力なく首を振るだけだ。やがて、ぽろりと、一粒の涙がこぼれた。

「でも、セルヴィ、俺は、取り返しのつかないことをしたんだ……」

 一度決壊した涙は留まることを知らず、ヴァスカはセルヴィを抱きしめて泣いた。




「俺はゼデキアに殺されそうになって、二人が助かるかもしれない方法をとっさに思いついた。それは、俺が自分の力で人間界に行って、“使い魔”としてセルヴィを召喚することだった。大昔、ときどき力の強い人間が魔界から使い魔を召喚していたって、古い本で読んだことがあったんだ。召喚の構造自体は、俺の力があれば簡単だった。ただ、その召喚を維持し続けることは、本当に魔力のいることだったんだ。使い魔は、言うなれば魔界からの“借り物”で、ときどき魔界に帰してやらないと空気の会わない人間界では精気を養えない。下手すると死んでしまうこともある。だから俺は、セルヴィを召喚した後すぐに“黒い森”ではない、魔界の違う場所に二人で帰るつもりだった。なのに――」

 苦しげに絞り出すヴァスカの声は、低くかすれていた。テーブルの上で組んだ手は、指が白くなるほどきつく握られている。

「ゼデキアの行動は俺の浅慮よりもずっと先を行っていた。奴は、すぐに俺とセルヴィの魔界での“居場所”を封印したんだ。魔界では、魔界に存在することのできる者が決められてて、その“居場所”がない魔界には戻れないんだ。無理に戻ろうとすれば体が蒸発して消える。ゼデキアは、それを封印することで、俺たちをごく自然に消そうとした」

「でも、その罠の通りにすぐに戻ろうとしたんでしょ? よく、二人とも無事でいられたね」

「……セルヴィを召喚し終わって、あいつが目覚める前にひとまず一人で先に戻って様子を見ようとしたんだ。そうしたら、ものすごい違和感で、本能が危険だって知らせて……そこで初めて、やられた、って気付いた。俺の血は半分人間だから、もともと魔界に入るのには抵抗が来るけど、その種類が違った。でも、そのおかげで他の魔族が気付かず入り込んで蒸発して死ぬところを、避けられたんだ」

 普通の魔族だったら、その時点でヴァスカは死んでいたということになる。レイナはぞわりと鳥肌が立った。

「それで、セルヴィが死んでしまうって、子どもだった俺は泣き縋ったわけだけど……結果として、セルヴィは死ぬことはなかった。あいつも俺と双子だから同じように人間の血を分けてて、人間界には他の使い魔よりずっとよく馴染んでたんだ。だから死には至らなかった。だけど成長することは出来ないし、俺の魔力を使って生きていかなきゃいけない。……俺が死ねば、セルヴィも死ぬんだ」

 その言葉を最後に、食堂は沈黙に包まれた。レイナが淹れたハーブティはすっかり冷めきっていたが、ふと、ヴァスカが思い出したようにそれを飲んだ。カップがカチャリと小さな音を立ててソーサーに戻されるのを、レイナはぼんやりと見ていた。

「ヴァスカ……」

 小さく呟いたレイナの声に、そっと彼女を見上げてヴァスカはぎょっとした。彼女は泣いていたのだ。

「なぜ、泣く?」

 ポロポロと涙をこぼしながら、レイナは困ったように笑った。

「あなたが私と同じ感情を持っていることが嬉しいのか、あなたの辛すぎる過去が苦しいのか、二人分の命を必死に生きるあなたが愛しいのか……複雑すぎて、説明できない」

 ヴァスカは、レイナが躊躇うこともなく「愛しい」などと言うことにうろたえて、言葉を失くした。

「セルヴィが、ときどきあなたのことを親しそうに見たり話したりしていたの。それは、あなたたちが長い間主従関係にあったからではなくて、たった二人の兄弟、しかも双子だったからなのね。あなたはそんな大切な人を殺そうとしたゼデキアを憎んで、同時に彼を成長できない体にしてしまった自分に怒って。どうしようもない復讐心を、“セルヴィのため”と言って彼が望んでいないのを知りつつ燃やし続けて、必死で守ってきたのね。

 それと、あのハープシコードの部屋――あなたがあの部屋をそのまま残しておいたのは、お母さまへの複雑な感情と一緒に、大きな愛があったからなのね。象牙の櫛も捨てられないくらいにあなたはお母さまを愛していた。私にあのハープシコードを使わせてくれなんて、図々しいにも程がある願いだったわ……ごめんなさい」

 レイナは、ヴァスカが語ったことから多くのことを読みとって理解してしまう。ヴァスカが直接言わなかった、ヴァスカの隠された気持ちも簡単に言い当ててしまうのだ。そんな彼女を憎らしく思っても憎みきれないくらいにはなっていた。

(認めよう――俺は、この人間の女を、嫌いではない)

 そして付け足すならば、彼女が他の男を語るのを気持ちよく聞くことができなくて、顔も知らないジェフリーとかいう彼女の恋人の存在が彼を苛立たせ、彼女に近付くのを躊躇わせる。しかしヴァスカには、自分の中に渦巻くその感情がどういった名なのか、未だに分からないままだった。

「いや……いいんだ、あれは、俺が意固地になっているところもあった」

 一瞬、レイナはなんのことを言われているのか分からなかった。少し首をかしげると、ヴァスカがちょっとばつが悪そうに顔をそむけながらつぶやく。

「ハープシコードのこと。……お前が弾きたいなら、好きにしていい。あの音をもう一度聞けるなら、セルヴィも喜ぶだろう」

 本当は、ヴァスカ自身も聞きたかった。レイナが奏でる、あの音を。

 しかし本心を隠したヴァスカの言葉にも、レイナは素直に喜んでありがとうと感謝するので、ますますばつが悪く、ヴァスカはそっぽを向いたまま頷いた。


 ヴァスカが過去を明かしたことで、三人の関係は変わるのだろうか。それは、まだ、誰にも分からない未来だ。



 ***



 ひどく悲しい、遠い夢を見た気がする。

『セルヴィ、私のかわいい天使……』

 細くしなやかな指が、彼の髪の毛をやさしく梳く。

『お母さま、どうしてヴァスカと遊んじゃいけないの? ぼくたちはふたごなのに』

『あの子は、あなたとは違うのよ。あなたと双子であるけど、それだけなの。あの子には邪悪が、あなたには純真が宿っているのよ。だから――あなたのその真っ白な心が悪魔に穢されないように、あなたはなるべくあの子と離れていなくてはいけないのよ。分かった? ああ、セルヴィ、私の愛しい子』

 子どもながらに何か違和を感じる母の言葉だったが、その人が弾くハープシコードはどんなときだって美しかった。その美しさの理由は、当時のセルヴィには分からなかった。今思えば、それは、どれもとても悲しい曲だった。

 彼女はセルヴィやヴァスカには知り得ない悲しい愛を経験して、誰よりも悲哀の曲を理解していた。だから、誰よりも悲しい曲の弾き手としてふさわしかった。

 セルヴィは悲しい曲しか知らなかった。悲しくて、冷たくて、でも冒し難い繊細さと美しさのある多くの曲たち。それが、彼の知っている曲の全てだった。

(じゃあ、この曲は、一体誰が――)

 遠いところから、でも確かに響いてくる曲は、悲しいものではなかった。優しくて、あたたかい、穏やかな曲。子守唄のように優しく彼を包み込んでくれる音。

(ああ、そうか、)

 セルヴィはふっと、思い浮かんだ顔に微笑んだ。

(レン……)

 ふつりと夢が途切れ、覚醒した。そこはレイナの部屋で、セルヴィはソファで眠っていた。体を起こすと、泣きすぎのせいか頭がぼんやりする。やがて扉がゆっくりと開いた。

「セルヴィ……起きていたの? あ、もしかして、起しちゃったのかな」

 レイナが入ってきた。そして、その後ろには――なんと、ヴァスカも一緒に。

「レン……ヴァスカまで、どうして?」

 言ってから、しまった、と気付いた。レイナの前で主である人を呼び捨てにしまった。慌てて取り繕うとするセルヴィを、しかしレイナはそっと抱きしめた。

「セルヴィ、全部、聞いたの。あなたとヴァスカのこと……だから、大丈夫」

「えっ?」

 驚いて、レイナの肩越しに主を見ると、彼も小さく頷いた。

「主が、話したんですか? ぼくらのことも、母のことも父のことも、ぜんぶ?」

「私が教えてくれってせがんだの。どうしても、壊れていくあなたたちを無視できなくて。いろんなことに首をつっこんでごめんなさい。でも、これが私のやり方だから、許して、理解してくれると嬉しい……」

「レンが謝ることなんて、何も……それに、ぼくは、」

 突然、涙が喉を締め付けた。

「ぼくは、ぼくのせいで命を削るヴァスカを、救いたかった。できなかったけど、だから、レンが――ぼくらのことを知らない第三者のレンが、来てくれて、ほっとしてたんだ」

 ぽろぽろと、セルヴィの頬を雫が滑る。

「もしかしたら、永遠に思われたこの憎悪の輪廻が、変わるんじゃないかって。歪んでしまったぼくらを、元に戻してくれるんじゃないかって……」

 そして出来るなら、ヴァスカの凍ってしまった心を溶かして、彼の愛する人になってほしい――その隠された思いは飲みこんで、セルヴィは一度、ぎゅっと目をつぶった。もう今のままで十分だ。これ以上を望んでこの変化を壊すまい。

「レン、こんな自分勝手なぼくだけど、もしそれでも許してくれるなら、このままここにいて――」

「もちろん、私からお願いしたいくらいよ。セルヴィ、あなたもいっぱい傷付いて、苦しかったよね……もう強がらなくて大丈夫だから。少し、休憩しよう」

 根本的に何かが解決したわけではない。でも、この小さな変化が未来に向けての大きな一歩であることは、確かだった。

 三人はお互いを正しく認め合いながら、また穏やかな暮らしを再開させた。

 その水面下を、大いなる闇がゆっくりと探り広がっているのを知らぬまま――。




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