35.ある双子の話
食堂に下りていくと、やはり、ヴァスカがいた。食堂の空気は彼の発する殺気にも似た緊張感で張り詰め、レイナの頬がピリピリと微かに痛んだ。
ヴァスカはレイナが一人でやって来たのが分かると、セルヴィはどうしたというように、微かに片眉を上げ、レイナを見た。
「セルヴィは、私の部屋で泣き疲れて眠っています」
「……なに?」
もちろん、その原因はヴァスカとのやりとりだ。それは本人も分かっているらしく、ぎゅっと口を引き結んで眉根を寄せた。そんな彼を一旦無視して、レイナは厨房に入った。そして手早く簡単なスープを作り、セルヴィの焼いて置いてあったパンと一緒に二人分をテーブルに運んだ。
「どうぞ」
そう言われてもヴァスカはじっと考えこんでいたが、レイナが勝手に始めた食事の音に気が散ったのか、渋々という感じで自分も食べ始めた。二人は黙々と質素な夕食を終えて、最後にレイナはハーブティを淹れてヴァスカに向き直った。
「私が考えていること、あなたならどうせ勘付いているでしょう?」
「……俺に、過去を話せと言うんだろう」
レイナは肯定のかわりににっこりと微笑んだ。強い決意をたたえた、迫力のある微笑みだった。
「聞く気はなかったけど、あなたとセルヴィのやりとりが聞こえてしまったの。どういった事情があったのか私は知らないけど、その過去にセルヴィはすでに区切りをつけて前を向いているのに、あなたは気持ちに蹴りをつけきれず、セルヴィやいろんなことを言い訳にしながら復讐心を忘れられない、ってことね?」
淡々とまとめたレイナに、ヴァスカは驚愕の思いで彼女を見つめた。
「そこまで、分かったのか」
レイナはこくん、と頷いた。
「あなたたちの今までの言動を、客観的に分析しただけよ。……ヴァスカ、あなた、自分が思っているよりずっと不器用だと思うわ……ここに来て日が浅い私でも分かるほど、あなたはセルヴィを大切にしている。私には魔族としての絶対の力を見せつけておいて、そうである自分を心底憎んでいるような、人間に近い立場にいるような……どっちつかずなところに逃げ込んで、それにまた苦しんで、って、そういう風に見える。どうしてそんなに必死になって、“冷酷な魔族”の仮面をつけたがるの? 私がいなくても、必死でセルヴィへの愛を押し殺してきたみたい。それに、ゼデキアのことも、この屋敷に残る女性の影も……私には分からないことがたくさんあって、あなたたちは、それに振り回されて、苦しんでる」
ヴァスカは、息をするのも苦しかった。今まで必死に隠してきた。誰にもばれるはずもないと、信じていた。自分は無慈悲な魔族だ、と誰もが思っているはずだし、それは自分も例外じゃない。なのに。なのに――
――この娘は、何もかも、見抜いている。
「もう、あなたが楽になっても、きっと誰も怒らない。ねえ――いったい、何があったの……?」
その言葉が、きっかけだった。
全てを打ち砕いた。ヴァスカが必死に守ろうとして、こんがらがって、間違えながら積み上げた分厚い壁を、もう誰にもどうしようもできないはずだった絡まりを、レイナが。
レイナという存在が。
「――たぶん、すごく、くだらないことだ」
ヴァスカは両手に顔をうずめて、低く唸った。
「他人から見たら、どうでもいいことにこだわって、固執して、大切なものを守ってきたつもりだった」
「……分かってる。大丈夫、私は馬鹿になんかしないから……それが、生きていくってことだもの」
「まだ、どうしても話せないこともある。それでも、俺を許すか?」
レイナは笑った。
「そんなの、当たり前だわ。私が無理やり聞こうとしているだけだもの……話せることだけ話したいことだけ、話してくれればそれで」
話せばきっと楽になれるから、という言葉は胸にしまっておく。ヴァスカはきっと、「楽になるために話す」のは自分を許せないだろう。溢れだした気持ちのまま、その勢いで話せるだけを話してくれればいいと、レイナは思っていた。
そうして、彼はぽつり、ぽつりと、呟くように語りはじめた。ずうっと胸の底に沈みこんでいた過去。浮かび上がる泡と一緒に、少しずつ、少しずつ……。
今から、いつごろ前の話だったか――。
魔界から、いつもじっと人間界を覗く一人の魔族の青年がいた。彼は、ある人間の女性に恋をしていた。その女性は中流貴族で、飛びぬけて美しいわけではなかったが、穏やかで優しく、美しい心の持ち主だった。
その魔族は名をゼデキアといい、美しい金髪と紫紺の瞳を持った青年だった。
当時、魔界から人間界に行くような魔族はそう多くはなく、それ故、いつもいつも人間界を気にして頻繁に出かけていく青年は、ずいぶん目立った。だから、時の宰相がその女性の存在を知るのに何の不思議もなかった。
魔界には王がいた。しかしその王はもう何千年と玉座に居座る大層な老いぼれで、自身は政治になんの興味も示さず、たいして残ってもいない権力で女に酒に溺れるどうしようもない男だった。そのため、魔界の実質的支配権は宰相に移っていた。その宰相の男は、恐ろしいくらい頭の切れる、狡猾な魔族だった。王を好きなだけ泳がせて、自分が全ての権力を握っていた。魔界は、全てこの男を中心にまわっていた。
そんな男が、ゼデキアの気に入りの女に興味を持ち――自分のものに、してしまったのだ。
人間界に下りてゆき、勢力の落ちかけていた中流貴族の女の家に莫大な金を投げ入れて女を手に入れた。そして森の中にぽつんと建っていた古い屋敷に女を囲ったのだ。ゼデキアには、とてつもない権力者の宰相には逆らうこともできず、その女はゼデキアの気に入りではあったが彼が手に入れていたわけでもなく、ただ猛烈な悔しさとやり場に困る怒りを胸に抱え込むしかなかった。
そうこうしているうちに、女は宰相の子どもを身ごもった。産まれたのは双子の兄弟だった。
宰相の男は、はじめこそ長い人生の軽い暇つぶしのつもりで女を囲っていたが、愛らしい双子がうまれてからはだんだんと女への気持ちが本物になっていった。屋敷には最低限そろえられた使用人たちを置き、なかなか人間界に行くことのできない宰相の代わりに女と子どもたちの世話をさせた。宰相は、勝手に幸せを感じていた。女を愛し、その愛する人が生んでくれた子どもを、大切に思っていた。
しかし、女はゆっくりと、狂っていった。
突然やってきた男に金で買われたも同然で囲われ、子どもまで生ませられ、夫として自分を守り支えるはずの男はほとんど顔を見せない。――しかも、その男は魔族だというではないか! それはつまり、子どもたちにも魔族の血が通っている訳で。愛しいと思う気持ちと同時に、憎むべき恐ろしい男の血を引く子どもたちを、女は扱いかねていた。
そうして正常な感覚を失っていった女は、やがて、憎しみを一人に、愛を一人に、双子に分けて注ぐようになった。
双子の兄弟は、実に愛らしかった。顔は双子なだけあってやはりそっくりで、二人を見分けられるのは髪の色だけだった。一人は黒、もう一人は金茶。性格は前者が闊達なやんちゃ坊主、後者が聡明で優しく理知的。二人の名前は、父である宰相の男によって名付けられた。
黒い髪の子をヴァスカ、そして――金茶の髪の子を、セルヴィ、と。
二人はとても仲が良く、いつも一緒だった。何もかも一緒で、しかし、ヴァスカにだけ、突出した魔力が備わっていた。二人の父親が魔族で、二人も半分は魔の血を引いていると知っているのは、屋敷では女だけだった。双子は自分たちの出生などを理解できる年齢でもなく、使用人にはひたすらに隠されていた事実だった。
女は宰相を愛してはいなかった。むしろ恐れ、憎んでいた。だから女は、ある冬の日、ヴァスカが消えかかった暖炉の火を魔力でつけ直した現場に居合わせて、ヒステリックに彼を殴り飛ばした。それが全ての始まりだった。
使用人たちには天使たち、と呼ばれる兄弟だったが、その呼び名を聞くたびに、母親である女は顔をしかめた。
『天使たち、ではないでしょう。天使なのはこの子だけよ』
そう言ってセルヴィだけを抱き寄せる女を、ヴァスカはじっと、悲しみにあふれた目で見ていた。
セルヴィは母の愛を一身に受け、ヴァスカは母の憎しみを全て受け止めた。
そのことに一番心を痛めたのは、セルヴィだった。母の兄弟への対応が、自分とはまるで違うことに気付いて、でもそれを言うと母は悲しそうに泣き出すし、兄弟への暴力も悪化することを知っていたため、セルヴィは“慈愛の子”を演じ、ヴァスカもまた“憎悪の子”を演じるほかなかった。
ヴァスカはそれでも、母を愛していた。兄弟も愛していた。三人きりの家族だったのだ。数年に一度だけ顔を見せる怪しげな――それでいて自分と共鳴する何かを持っている男を、どうしても父親とは思えなかった。母の弾くハープシコードを愛し、兄弟のために聞かせる子守歌やおとぎ話を愛し、すべてを許すことで自分の存在意義を認めてもらおうとしていた。
そうして、二人が十と少しを過ぎたころ――母が、死んだ。
突然二人きりになった兄弟は、なんの親しみも持てない父親に引き取られ、人間として育ちながら魔界に連れていかれたのだ。魔界は、宰相の血を引く二人を拒まなかった。それどころか、身体は人間でありながら純粋な魔力を秘めた御子らを祝福すらした。宰相の、双子の溺愛ぶりは二人に味方を多く作ったのだ。特にヴァスカの力の強さは魔界ですら恐れられ、宰相はそれ故彼を特に愛し、人間の血を引く“半端者”でありながら次期宰相の座に一番近いとまで言われた。
そうして、双子には強大で一生ついて回る敵も現れた。ゼデキアだった。
ゼデキアは、自分の愛した女を奪われた怒りを宰相にぶつけることが出来ず、女も死んでしまって対象を失くし、その矛先を双子に向けたのだ。それに兄弟が現れるまで、次期宰相の最有力候補は彼だったのだ。男としてのプライドも、魔界での居場所もなくしかけた。そうして、それぞれ権力者である男に愛され、愛したはずの女に愛された兄弟を憎むようになった。
ゼデキアは淡々と兄弟を消す計画を立て、やがて、事件は起こった。
兄弟は、その日、あまり人が近づかない“黒い森”で遊んでいた。そこは双子にとってかっこうの遊び場だった。魔族との付き合い方も、魔族としての魔物の扱い方も、彼らには分からなかったし重荷でしかなかったから、二人だけになれる静かな森は貴重だった。魔王の城での生活は、人間として穏やかに生きることを望んでいた双子を狂わせるようにすら思えた。
“黒い森”には魔界特有の植物が多く、二人は夢中で木の実を拾ったりキノコを探したりしていた。やがて、二人の前にぼんやりと黒いもやが発生した。その異常な気配に、二人はさっと警戒態勢に入る。黒いもやから現われたのは、ゼデキアだった。顔には明るい笑みを貼り付けていたが、双子はそれが偽りであることを以前から知っていた。笑顔で隠していても、彼から発せられる禍々しい敵意は魔の気配に敏感な二人には明らかだった。
「ご機嫌麗しく、“喜びの御子ら”」
二人は魔界では“喜びの御子”と呼ばれていた。権力者である宰相の喜び。それすなわち、魔である者たちの喜び、と。しかしゼデキアには違った。次期宰相の座を奪い、宰相からの嘱望を奪った存在でしかなかった。双子とゼデキアの関係は、密接であり、また最も遠い。
「何しに来た」
自己犠牲の意識を植え付けられているヴァスカがとっさにセルヴィを背後に隠し、ゼデキアを睨みつけた。ゼデキアはそんな子どもたちの小さな敵意を嘲笑う。
「俺が、宰相の愛しい子らに会いに来るのが、そんなに危ないことか?」
「……本気で言ってるの?」
事実、危険なことだ。それは誰もが、宰相すら気付いていることだ。
「おお、おお、御子よ、怒りを鎮めてくれ。俺はあなたと喧嘩をしに来たのではないのだ」
その演技がかった言葉がいちいち癇に障る。それを冷淡に受け流せないくらい、ヴァスカもまだまだ子どもだった。むすっとしたまま、背後のセルヴィを確かめるように腕で引き寄せる。セルヴィは、不安に思いながらも、そうやって守ってくれるヴァスカを信じ、同時に自分たちを危険に晒す青年に対しての警戒と敵意は隠そうともしなかった。
ゼデキアはそんなセルヴィと目が合うと、ニタァと邪悪な笑みを浮かべ――
「なあ、ヴァスカ。本当だよ。俺が喧嘩をしたいのは――あなたの後ろにいる、その小僧だ!」
そして、突如として莫大な魔力を放った。
双子は簡単に吹っ飛んで、バラバラに草の上を転がった。爆風がおさまってヴァスカが顔を上げたときには、セルヴィをゼデキアが蹴りあげていた。
「や、めろっ……!」
ヴァスカが痛む体を打ってゼデキアに飛びかかる。しかし彼はヴァスカを簡単に地面に叩きつけると、再びセルヴィを蹴りつけた。
「俺はお前たちが大嫌いだ――だから、いつか消してやるつもりだった。まずは、セルヴィ。セレナに愛された、お前から殺してやる」
セレナ――と、愛しげにもう一度、双子の母親の名を呼び、セルヴィを蹴りあげた。セルヴィはなす術もなく、痛みに耐えるしかなかった。何度か石ころのようにセルヴィを乱蹴して、その行為に飽きると、ゼデキアは彼の細い首に手をかけた。ぐったりした小さな体が空中にぶらりと持ちあがる。ゼデキアは笑っていた。片手でその首を握りつぶそうとしながら、喜びで、微笑んでいた。
ヴァスカは何度ぶつかっていってもびくともしないゼデキアの体に、どうしようもなくてしがみついていた。殺されそうになっている弟セルヴィ。憎らしくも強大な敵ゼデキア。何も出来ない自分。ヴァスカは自分の体が怒りで爆発するような錯覚を起こした。事実、彼の体から爆発するものがあった。それは、人間の体には馴染まないはずの、莫大な魔力だった。
そのあまりの密度の濃さに、ゼデキアも一瞬ひるんで彼を見た。子どもの小さな体を取り巻く黒い力は、ゼデキアをも圧倒した。彼のしがみつく左足がビリビリと痛む。
「畜生ッ! 生意気なガキが!」
ゼデキアはセルヴィを放り投げ、ひとまず厄介な黒の子を片付けようと思った。魔力と魔力がぶつかって、黒い森の木々が悲鳴を上げる。一気に爆発した魔力を、しかしヴァスカはコントロールしきれず、すぐに息が上がり始めた。ゼデキアが額に脂汗を浮かべながら、荒い息の下で笑った。
「なめるなよ、糞ガキめ……正義の味方を気取りやがって! 殺してやる!」
怒りに全身を支配されていたヴァスカは、自分の命が尽きるほどの魔力を放とうとしていた。しかしその時、か細い声が突然クリアに耳に入った。
「にげて……」
セルヴィだった。その瞬間、怒りが猛烈な悲しみと後悔に変わる。
「生きて、ぼくは、いいから……」
――俺は何をしている!
ヴァスカははっと我に返った。
――俺が死んだら、セルヴィを守れるのは誰もいない! 俺たちは二人だけの兄弟なのに!
「気を散らしてる暇はねェぞオォォ!」
口汚い言葉を叫びながら、ゼデキアが突っ込んできた。
しかし、彼の魔力のこもった拳は空を切った。一瞬、きょとんとあたりを見回すゼデキアだったが、ヴァスカの気配はぷっつりと途切れていた。――そう、魔界から、いなくなった。
「はっは! 結局自分が大事な腰ぬけだ! 人間界に逃げやがったな! ざまあねェ!」
下品な笑い声を上げて、ゼデキアは草の上に転がるセルヴィに向き直った。
「大好きな双子の兄貴に見捨てられた気分はどうよ、“天使”ちゃん?」
その呼び方は、二人の母がセルヴィをことさらに可愛がっていたことを知っていた。彼は見ていたのだ。三人が、ゆっくりと心を壊しながら暮らしていたところを。母はセルヴィを愛し、ヴァスカを憎んでいたことを。
悔しい、と思った。あんなに優しいヴァスカなのに。本当に愛されるべきは彼なのに。なぜ、こんな小さく弱い心の自分ばかり守られ、大事にされる――?
(ヴァスカ、最後にぼくの願いを聞いてくれてありがとう……どうか、ぼくの分も生きて……)
首を絞められながら、セルヴィは最後に微笑んだ。大好きな兄弟が、無事に逃げられたことを信じていた。そっと目を閉じようとした瞬間、強い光に包まれて奇妙な引力に、体がふわりと浮いた。
これが、死ぬということか――ずいぶんと心安らかな最期に、セルヴィはやはり微笑むだけだった。
ヴァスカ・セルヴィの過去編、あと少しだけ続きます。




