34.動き出す復讐
飲み物を取りに行って来る、とセルヴィはレイナの部屋を後にしたが、主人であるヴァスカが彼女の部屋に入っていくのを見かけたので、ことさらにゆっくりと準備をして、レイナの部屋に戻ってきた。しかし、まだ二人は会話中だった。内容まで分からないが、話し声がかすかに聞こえる。
三人分のお茶とお菓子を乗せたワゴンは、押しても、柔らかい絨毯のおかげで音がしない。なめらかに滑るようにワゴンを運んでいき、ふと、会話の端が耳に入った。
「それなのに、どうしてそうしなかったんだろう」
レイナの声だ。なんの話かは分からないが、二人はそれなりに会話を続けられるようになったらしい。嬉しさがこみあげて、セルヴィは小さく笑った。――が。
「そいつの目は……紫紺か?」
次のヴァスカの言葉に、はっと足を止めた。
「ええ、青紫だったわ。……魔族って、みんなそうなんでしょう? あなたも、セルヴィも、同じ色だもの」
そして、レイナの答えに凍りついた。セルヴィの思考が追い付いていないのに、二人の会話はどんどんと先へ進む。
「……奴の、名は」
「皮肉にも、悪の象徴のような男でありながら“正義”の意味を負う、ゼデキア、よ」
――ゼデキア。
セルヴィの心の中の復唱と、ヴァスカの小さな呟きが重なった。セルヴィのワゴンを持つ手が震えている。ああ、と、絶望に似た、でも少し違う、悲しい気持ちがふき出した。
――ああ、ついに、見つかってしまったのだ。
これできっと、ここでの生活は変わってしまう。どこか不安定で、毎日の底には微かな緊張と憂鬱とが流れていて、それでも、たとえ偽りで仮の姿だったとしても、穏やかな日々。それが――きっと、変わってしまう。
ゼデキア。
ヴァスカの悲願で、かつてはセルヴィもそれを望んでいたのも事実だ。しかし、今はもう、セルヴィの思いは変わってしまっている。復讐心によってヴァスカが生きていけるのなら、セルヴィもその共犯者を演じる覚悟であった。しかし、今、ヴァスカのもとにはレイナがいる。彼女こそが、ヴァスカの復讐心の代わりに彼の支えとなってくれる存在だと、セルヴィは確信していた。
(あともう少し、時間があれば――)
セルヴィはぎゅうっと締め付けられる胸を抑えた。
あと少し、このまま時が流れていれば。ヴァスカは黒く濁った思いをレイナによってきっと浄化されて、復讐心と過去の記憶を乗り越えて心穏やかな日々を過ごせていただろうに。
(あの男は、いつまでもどこまでも、主の未来を踏みにじる……!)
セルヴィの胸にも、黒い炎が燃え上がるようだった。
ふらりと、ヴァスカの黒い影が扉から出てきた。彼はゆっくりと後ろ手に扉を閉め、すぐそばにいるセルヴィにも気付かずにそっと微笑んだ。禍々しい笑み。魔の血が喜んでいる。ゾッとした。セルヴィは堪らず彼に駆け寄る。そして躊躇うことなくその腰元に抱きついた。
「セルヴィ?」
驚いたヴァスカが、呆然とセルヴィを見下ろした。セルヴィは動かない。増してぎゅっと強く、腕に力を込める。表情は分からなかった。
「聞いて……いたのか?」
顔をヴァスカの腰元にうずめたまま、セルヴィは小さく頷く気配を見せた。
「セルヴィ……俺は、お前の気持ちに気付いていたよ」
しゃがんで目線を合わせようとする気配に抗い、セルヴィはなおも強くヴァスカに回す腕に力をこめる。一瞬諦めようとしたが、思い直して、セルヴィを引き剥がした。そしてその肩を掴んで、強引に、目線を合わせる。
セルヴィの目は、濡れてはいなかった。しかしこれからのヴァスカの行動を全身で否定して――自分の願いぐらいではヴァスカが変わらないのを知りながら――首を小さく左右に振った。やめろ、と。
「分かって、いるんだ。お前が望んでいないのに“お前のため”と銘打って、自分の復讐心を正当化しようとしてる。そしてお前が、俺が人並みの男のように人を愛し、愛されて、年老いて穏やかに死んでいくのを願っているのもな。それに、お前が俺の過去の行いを恨んでいないのに、俺が贖罪の態度を変えないから、付き合ってくれていることも――全部」
「それなら、なんで」
「俺の中の魔の血が騒ぐ。そして、たまらず喜んでいるんだ――俺の意思では止められない、これは、魔族の本能だ」
同族殺し。背徳の心。復讐。苦しみ。暗い気持ちは、すべて、魔の糧になる。
「……ヴァスカ、お前は、馬鹿だ」
セルヴィの呟きに、ヴァスカは一瞬驚いた表情を見せ、しかしすぐに、疲れたような諦めたような笑みを浮かべた。そして、セルヴィの非難を素直に浴びようとしている。
「全て分かって、自分の中に芽生えているはずのものを捻じ曲げてまで、どうして苦しみにいくの。ぼくも、レンも、ヴァスカの全部を背負って、それでも足りないくらい求めて、支えていくのに。あとはヴァスカがこちらを振り返ってくれればいいだけなのに、なんで……なんで、いつも傷付く方ばかりに目を向けるの……!」
セルヴィの静かな叫びをじっと聞きながら、ヴァスカはそっと、喜びを瞳に浮かべた。
「……そうやって、本当のお前でぶつかってくるのは久々だな」
「今は、そんなことどうだっていいだろっ! 真面目に聞いてよ!」
「俺は大真面目さ。今、純粋に嬉しいんだ。俺は……こうやってお前と言いあえる未来を、自分の手でつぶしてしまったのだな」
「また、そうやって、自分のせいにする……」
セルヴィはうんざりとしたようにつぶやいた。
「ぼくは、ヴァスカに救われたんだよ。ヴァスカが救ってくれたから、今、ヴァスカのそばにいられる」
「……ああ、そうだったな……」
「ぼくは救われてこの世に留まれた。でも、ヴァスカがいなきゃ、二人では生きていけない」
強い光を瞳にたたえ、セルヴィはヴァスカを見つめた。紫紺の視線が互いを捕まえる。――先に逸らしたのは、ヴァスカだ。
彼はすっと立ち上がると、セルヴィに背を向けた。
「俺は弱い。セルヴィ、俺はずっと、お前がうらやましくて――憎んでいた時期もあった。だけど、やっと、そんな俺でも強くいられる方法を見つけたんだ。どうか、このまま――俺の好きにやらせてくれ」
その、あまりに頑なな背中が、セルヴィのそれ以上の追及を拒んでいた。セルヴィが声をかけあぐねていると、彼はそのまま、廊下の向こうへと消えてしまった。
ふと気付いてレイナの部屋の扉を見上げる。――限界だった。
***
扉の外のやりとりは、すべて、レイナにも聞こえていた。聞く気でなくても、二人の静かな戦いは空気を震わせレイナの耳へと届く。ほとんどが意味の分からないことだったが、何か――本当に小さな引っかかりが、レイナの心臓を早くさせていた。
(何か、分かりそう。知ってはいけないような、でも重大な、この屋敷を包む、秘密が。私にも関わっている、闇が)
分かりそうな何かを知りたくて、もどかしくて、でも知るのが怖い。そうしていると、突然、扉が勢いよく開いた。そして小さな影がレイナの腕の中に飛び込んできた。
セルヴィは、レイナに飛びつくなり、わっと大声をあげて泣き出した。
「セルヴィ……」
その背を優しく叩いてやると、彼の泣き声はさらに絞り出すようなものになり、悲しげに響いた。
「今、泣けるうちにたくさん泣いておくといいわ。私は、ここにいるから……」
しがみついているセルヴィをそのままに、レイナは彼の金茶の髪を優しくゆっくりなでてやった。セルヴィは涙が枯れるのではというくらい泣いて、泣いて。
そしてやがて、泣き疲れて眠ってしまった。そのまま慎重にソファに寝かせてやり、毛布をかけてやる。セルヴィは自分を守るかのように小さく縮こまったまま眠っている。泣きはらした目は重たそうに腫れ、涙の痕が痛ましかった。キッチンから氷水を持ってきて、きれいなタオルを浸してそっと頬を拭ってやった。
(こんなになるまで、この小さな体に何を一体抱え込んでいるの? 私に出来ることは、ないのかな……)
この屋敷に留まると決めた以上、苦しんで心を壊していく二人をただ見ているだけ、というのは、レイナにはできなかった。二人の間にどんな因縁があって、今現在いったい何が起こっているのか、それが分からないままでは、やはり何もできまい――そう思ったら、レイナはじっとしていられなかった。
セルヴィの前髪を数回かきあげて、身じろぎもせず眠っているのを確かめて、レイナは自分の部屋を後にした。
陽はすでに傾き始めている。この時間には、もう、彼は食堂にいるだろう。レイナはこれまで避けて、あえて触れないようにしてきた“過去”に、踏み出す決心をした。“過去”への扉をあける鍵を持っているのは、ヴァスカだけ。
レイナは消えそうになる決心を必死につなぎとめて、食堂へ向かった。
――彼の握る秘密を、明かさねばならない。
セルヴィのわがまま、そして感情爆発。
そして次回、ヴァスカとセルヴィの過去編。