31.変化
レイナはまぶしさに目を覚ました。ゆっくりと体を起こすと、しかし部屋は暗く、大きな窓には暗幕のような真っ黒なカーテンがかかっていた。その隙間から漏れ入った光がちょうど、レイナの枕元にさしていたらしい。ぼんやりとあたりを見回すが、見慣れない部屋だった。今自分がどこにいるのか分からなくなっている。
半分寝ぼけたまま暗い部屋を抜け、続きの部屋に入った瞬間、レイナはすべてを思い出した。
(ここは、ヴァスカの部屋!)
昨晩レイナはヴァスカの部屋を訪ね、一悶着のあと、やっと話を聞いてくれる気になったヴァスカを相手にレイナは取りとめない話をした。好きな食べ物は何で、これだけはどうしても食べられない、とか、小さいころはどういう少女だったとか、家族の話など、思いついたことを何でも話した。ただ、自分の力のことや追われている話などの詳細は避けた。まだ時機ではないと思ったのだ。
そうしているうちに、レイナは睡魔に負けてしまったらしい。話をさせろと迫ったのに、そんな自分が眠りこけるなんて失礼にも程がある。ヴァスカは怒っただろうか。呆れただろうか。
しかし、レイナは自分でベッドに行ったという記憶はない。
(もしかして……運んでくれた、のかしら)
恐る恐る歩を進めると、ヴァスカはソファで眠っていた。彼の眠っている姿を見られるなんて、思ってもみなかった。強い瞳が閉じられると、猫毛の髪と相まって幾分幼く、柔らかく見える。
(どこかしらセルヴィに似ている気がするわ。主従としてずっと一緒だと、似てくるのかしら)
レイナはくすっと笑みをこぼした。そして薄着のまま寝ている彼に申し訳なさもあって、寝室から掛け布団を持ってくると、そっと、起こさないように掛けてあげた。
――その瞬間。
「あっ……?!」
カッと目を見開いたヴァスカがレイナにとびかかった。喉に彼の両手が絡みつく。そのまま床に倒れたレイナの上に、ヴァスカは馬乗りになって手に力を込めた。彼の瞳にはレイナは映っていない。レイナを見ながら、何か、もっと恐ろしい物を凝視している。
「ヴァ、ス……カ……」
名を呼ばれ、はっとヴァスカの瞳に光が戻った。手の力が緩み、レイナは激しく咳きこんだ。ヴァスカは飛び退いて、肩で息をしながら呆然とレイナを見下ろしていた。その瞳には、どこか不安げな、恐怖のようなものが浮かんでいた。
「ヴァスカ……大丈夫?」
レイナは思わず、そう声をかけていた。するとヴァスカはすぐに瞳から感情を消し、すうっと無表情になる。
(感情のコントロールが、悲しいほどにうまいのね……)
レイナは床に座り込んだまま、ヴァスカはそんな彼女を見下ろした状態で二人はしばらく見つめ合っていた。そんな時……
「大変です、主! レンが……!」
部屋の扉が勢いよく開き、セルヴィが飛び込んできた。
「セルヴィ?」
「え、レン? どうしてここに……」
そして、はっと二人の異様な雰囲気に気付いたらしい。急に険しい顔つきになって、レイナとヴァスカの間に立ちはだかった。
「主、まさか、レンに何かしたんじゃないでしょうね?」
自分の主人であるにも関わらず、セルヴィはヴァスカを強く睨んだ。ヴァスカは動じず、また何か言うこともなかった。そんな二人の睨みあいにレイナが慌てる。
「セルヴィ、違うの。私が昨夜勝手にここを訪ねて……」
「夜から一緒にいたんですか?!」
セルヴィの顔がみるみる赤くなる。
「あの、ぼく……ごめんなさい、もしかして邪魔を……」
セルヴィがどんな思考に至ったのかレイナも察して、思わず頬に熱が集まる。その反応がさらにセルヴィの誤解を深めたらしい。セルヴィはそそくさと部屋を後にしようとする。
「待って、セルヴィ!」
レイナが慌てて追いかけようとするのをヴァスカが制す。驚いて彼を見上げると、ヴァスカは涼しい顔でセルヴィを呼びとめた。
「セルヴィ、お前が考えているようなことは何も起きていない。これは……ちょっとした事故だ」
冷静な主人に諭され、セルヴィも落ち着いたらしい。照れた笑みを浮かべ、まだ少し赤いままでレイナに頭を下げた。
「ごめんなさい、ぼくの早とちりです。あの、朝食、もうすぐ出来るので、お二人ともそろそろ下りてきてくださいね。では」
セルヴィが部屋を出ていくと、途端に静かになる。なんだか気まずい雰囲気に、レイナは俯いた顔を上げられなかった。
「……すまなかった」
静かな空気に溶けてしまいそうな小さな呟きが、しかしはっきりとレイナの耳に届く。はっとして弾かれたように顔を上げると、ヴァスカはこちらに背を向けて立っていた。レイナの返事を待っているようだ。
「あの、……いえ。私も無駄に慌てて、セルヴィの誤解を招いたみたいで……」
「いや、その事じゃない。……寝起きは、ときどき、嫌な夢が抜けないんだ」
「あ……」
言われて、気付いた。ヴァスカが思いもかけず謝ったのは、先ほどレイナの首を絞めたことだったのだ。こんなに弱々しい彼を、レイナは初めて見た。思わずその背中に訴えるように話しかける。
「あの……余計なことかもしれないけど。もし、辛いこととか、苦しいこととか、自分ひとりじゃ抱えきれなくなったら……私も話くらいなら、聞けます」
ヴァスカが訝しげに振り返り、レイナを見た。レイナは構わず続ける。
「私、ちゃんとあなたたちと向き合うって決めました。ゆっくりでいいから、少しずつ、お互いを認め合えたらいいなって思うの」
「俺は、お前の血を飲む吸血魔族なのにか? お前の〈白き力〉が俺を苦しめ、お前もまた俺の力で苦しむのに……お互いの存在を受け入れようと?」
レイナはぐっと言葉に詰まる。確かに、未だに自分の血を素直に捧げる気にはなれない。それにレイナの力は唯一彼を苦しめるだろうし、彼の魔力はレイナを殺すのに十分だ。――が。
(それでも、私は……)
レイナはキュッと両の拳に力を込めた。
「今はまだ、完全にあなたを理解して受け入れはできない。でも、私が水を必要とするようにあなたが血を必要とするのも、分かっているつもりです。それに、あなたが非情なだけじゃないことも知ってしまった。何かに縛られて、苦しんでいるのでしょう? 重いものがあるなら、二人で持てばいいんです。あ、違うな、セルヴィも合わせて三人かも……」
そう言って真剣に自分を見つめてくるレイナに、ヴァスカは何だか気が抜けてしまった。
ふっと、口元が緩む。
レイナの目が驚きで見開かれた。
「本当に、お前は、どこまでも厄介な女だ」
そう言ったヴァスカの顔は、弱々しくて呆れたようだったが、確かに、微かな笑みを刻んでいた。それはレイナが初めて見た、棘のない彼の笑顔だった。どぎまぎして、急にカーッと顔が熱くなる。笑う彼は、もともとの美貌と気品も相まってどこぞの王子さまとも言えるような空気さえ纏っている。
レイナがひとり戸惑っているのに気付かず、ヴァスカは穏やかな心持ちになっていた。窓辺に寄って、明るい外を眺める。
「お前といると、俺は、今まで忘れていたものを取り戻すような気にもなるし、保ってきたものを失うような気にもなる。セルヴィがお前をずいぶん買っているのも、分かる気がしてきた。……お前は、俺にはないものを持っているんだな」
そう言ってレイナを見る目には、彼がセルヴィに送るような、微かなあたたかさが混ざっている。それを感じたレイナは、泣きたいような切なさに襲われた。
やっと、彼と、人らしい会話をして、感情を分かち合えた。――彼のこころの壁が揺らいだのだ!
レイナも立ち上がり、恐る恐る彼の横に並んだ。ヴァスカは逃げることもなく、変わらず朝陽に輝く木々を眺めている。その横顔に、ぎゅっと胸が詰まる。
「ヴァスカ、私……あなたに利用されてもいい、私の情報が必要なら話せる限り話すわ」
だから、お願い、
「私――ここにいてもいい?」
ゆっくりとこちらを振り返るヴァスカ。紫紺の瞳がレイナのすべてを支配する。
「ああ、お前が望むなら……。セルヴィはもとより喜ぶに違いない」
そう言って、ヴァスカは歯切れ悪くそっぽを向いた。しかし隣で懸命にこちらを見つめる、さらに言葉を求めるようなレイナの視線に逃げられない、と悟ったのか、飲み込みかけた最後の言葉をそっと口にする。
「――俺も、お前のことを知ってみたい気になった」
***
セルヴィは並んで食堂にやってきたヴァスカとレイナの二人の姿に驚いた。交わす言葉はなかったが、二人の間には今までとは違う空気が流れていた。今まで対峙する姿はあっても対等に並んでいるところは見なかった。その様子は、まさにセルヴィの“理想”にほど近かった。
(ぼくの理想は……そう、主が心から愛する人と並んで、やさしく微笑みあっている姿)
自分のせいで、深く傷つき苦しんできたヴァスカ。すべての元凶である自分が彼の幸せを願うのは傲慢だろうか?
「お二人とも、おはようございます。今朝のお食事はどうしますか?」
レイナは明るい笑顔で挨拶を返し、あなたに任せるわと言い、ヴァスカは無表情ながらどこかそわそわとして、いつも通りにと低い声でつぶやいた。
セルヴィはお望み通りに、と笑顔で答えると、厨房に戻った。主の紅茶のために湯を沸かす隣で、レイナに出す卵を調理する。サラダにする玉ねぎを切りながら、セルヴィは思った。
(主が諦めてしまった未来を取り戻す手伝いができるなら、ぼくは、なんだって……)
彼の目元が朝陽に濡れて輝いた。