29.自覚
「レン!」
床にくずおれたまましばらく涙を流していたら、そこにセルヴィが駆けこんできた。レイナは慌てて体を起こし顔を拭う。しかしただ事でないのは一目瞭然で、セルヴィは険しい顔でクローゼットを開けて、春夏用の薄手のローブを持つとレイナの肩にかけてくれた。
「ありがとう、セルヴィ」
「すぐに、戻ってきます。レンはベッドにいて。絶対だよ」
するとセルヴィはレイナの返事も聞かず、部屋を飛び出していったのだった。レイナはきょとんとして開け放たれたままの扉を見ていたが、帰ってきてベッドにいなかったら口すっぱく言われるだろうと思って大人しくセルヴィの言いつけに従った。ベッドに腰掛けて、掛け布を膝に持ってきたときセルヴィが戻ってきた。木のワゴンを押している。
そのままベッドの横までやってくると、サイドテーブルにティーセットとボウルを置いた。ワゴンには大きな湯沸かしが乗っている。
「主に言われて何も持たずにすっ飛んできちゃいましたよ。僕としたことが、気が利かなくてごめんなさい」
「……ヴァスカが、あなたに?」
セルヴィはレイナの口から主人の名が出たことに驚き、一瞬彼女の顔をまじまじと見つめた。それから、それまで険しかった表情をふと緩める。
「ええ、主は、本当に素直じゃない……」
言いながら湯沸かしから湯気立つお湯をティーポットに入れ、残ったお湯をボウルに移す。ボウルに清潔なタオルを浸して、熱いだろうに、すぐに絞ってレイナに渡してくれた。
「それで顔を拭いてください」
「ありがとう」
あつあつのタオルで涙を拭い去ると、セルヴィがもう一枚のタオルをすかさず差し出して、目の上に置いてと言った。言われたとおりに目に押し当てると、熱がじんとしみこんでとても気持ちいい。
「少し落ち着きましたか?」
こんどはタオルと引き換えにティーカップを渡される。セルヴィブレンドのハーブティだ。これはレイナの大好物なのだ。
「心配させてごめんなさい。けど、私は平気よ。ヴァスカがすぐに助けに来てくれたから……」
そうして何が起こったかを説明すると、セルヴィは憎々しげに鼻に皺を寄せた。常に穏やかな彼には珍しい表情である。
「ギルバードは、ここで隠れ住むぼくたちに食料とか必要なものを買い届けてくれる魔族だったんです。と言っても魔力が低くてかなり下級ですけどね。人間に混じって生活してるって聞きました。もともと、ぼくはあいつのこと好かなかったんだ……胡散臭くて、笑顔がすごくわざとらしかった」
それでも、ヴァスカたちには都合のいい男だった。金さえ積まれればそれなりに口も堅く、言うことは聞いてくれる。
セルヴィはまだぶつぶつと不平を洩らしていた。
「先代も、ときどきあいつを使ってたんだ」
「……前にも、“先代”なる人が話に出てきたわね。何者なの?」
セルヴィは自分の失態に気付いて、はっとレイナの顔を見た。
しかしレイナはその視線から逃げなかった。以前先代の話をしたときは、レイナはセルヴィの「あんまり話したくない」という思いを敏感に感じ取り、さらに自身のことを話さなきゃいけなくなるのを避けるためすぐに話題を変えてくれたのだ。
しかし今。レイナはすべてを受け止めようとしている。
「レン、貴女は――」
「私、ヴァスカが好きよ」
セルヴィはついに口をつぐんだ。
「今さらだけど、認められたの、自分の気持ちを。そうしたら、私、彼のこと何にも知らないって気付いた。それがすごく悲しくて、苦しくて……今、彼のことならどんなことでも、知りたいの。“先代”のことも、この屋敷のことも、あなたのことも、あのハープシコードのことも、“象牙の櫛の女”のことも……ぜんぶ」
強い決意に、レイナの瞳は輝いていた。それはすなわち生気。力強く生きようという意志――。
「レン……変わりましたね」
「そうかしら? ……そうかも、しれないわね」
あまりにも、多くのことがありすぎた。
「でも、レンは主をも変えつつあるよ」
「えっ……」
驚いて顔を上げると、セルヴィは寂しげに微笑んでいた。
「ぼくが何年もかけてできなかったことを、レンはたった十数日でやり遂げてしまった。それが、ぼくには悔しいんだ。悔しくて、ちょっと嫉妬してます」
「わ、私、」
「でも、それ以上に、嬉しいんです。本当ですよ」
「セルヴィ……」
セルヴィはにっこりと笑って、レイナにぎゅっと抱きついた。
「ぼくにとって、主はすべてです。命を救われて、一緒にすごしてきて、主従だということ以前に大切にしたい人なんです。だから……そんな人が、長年苦しんで悩んで、ゆっくりと心を壊していく姿を見るのがずっと辛かった……助けてあげたくて、でもぼくの存在自体が主にとっては辛いから、何をしてもぼくには主の傷は癒せない……そんなときに、主があなたを連れてきた」
顔を離してレイナを見つめた。その瞳は少し潤んでいる。
「はじめは、糧にされるというあなたに同情してた。同情しながら、それで主が満足するなら、ぼくはどんなことがあっても黙認しようと決めてたんです。あなたをお世話するのもすべては主のためだった。だけど……あなたは、ぼくたちの凍った時を溶かしはじめた。主はときどき心の殻を破るし、ぼくにしたって……あなたが大好きになってしまった。だから、主のためだけじゃなくて、心から、あなたに仕えたいと思ったんです。そして、あなたならきっと、ぼくたちの呪いを祓ってくれるって」
「呪い……?」
「半分は比喩で、半分は現実」
セルヴィの謎かけのような言葉に、レイナは困惑した表情を見せた。するとセルヴィはいたずらっ子の顔になって、楽しそうに笑う。
「主が許さない限り話せないこともたくさんあるけど、ぼくに許される範囲でならなんでも、話すよ」
「……ありがとう、セルヴィ」
レイナは目をつぶって深呼吸した。自分の気持ちを落ち着けるために。
「じゃあ、まずは、“象牙の櫛の女”について教えて」
この女の人が、一番レイナの心をかき乱したかもしれない。胸のあたりがむずむずして、黒い塊が渦巻くような感じ。それは初めての感情だった。
「あの櫛の持ち主だった人は、以前にもお話ししましたが、主にとってとても大切な人……母親です」
「へっ?」
レイナの口から間の抜けた声が出た。
「あの、ヴァスカのお母さま、ということよね?」
「はい」
「なんだ、そう、だったの……」
レイナはほっとした。そしてそれから、そんな自分に驚いてしまった。
(お母さまだったから、なに? なぜほっとするの?)
すると、ふと、先ほどのセルヴィの言葉が脳裏によぎる。――嫉妬。
「あ……」
ドクン、と心臓が一際高鳴った。
(そうか、そうだったのね……私は嫉妬してたんだ。ヴァスカに大切にされていた、私の知らない女のひと。その人の櫛を捨てられないくらい、想いが強かったひと……ハープシコードのときもそうだわ、この屋敷に女の人がいた気配に私は嫉妬してたのね。ああ、私は、もうとっくに――私が気付くずっと前から、彼のことが好きだったんだ)
始まりがいつなのか、もう分からない。
「もしかして、あのハープシコードの部屋は、お母さまの……?」
「はい、あそこが部屋でした。……そして“先代”は父親です。彼はここに愛する人と子どもたちを囲んで、結界で屋敷を守った。当時はまだ森に小道があったりして、町にも続いてたので、結界は父の認めた以外の魔や邪悪なものだけを拒むような許容範囲の広いものでした」
「……あの、口を挟んで悪いのだけど。子どもたち、って、ヴァスカにはご兄弟がいるの?」
レイナの質問に、セルヴィはさっと顔色を悪くした。どうやらそれは“言ってはならないこと”だったらしい。
「ごめんなさい……そのことについては、言えません」
「いいえ、私こそ。直接ヴァスカに聞けばいいものを、彼から隠れるようにあなたに聞いている私が悪いのだもの」
本当は、レイナは他にも気になることがあった。それはセルヴィの話しぶりだ。
(まるでヴァスカの父親が――ううん、やめよう)
さすがにそれを追求するのもぶしつけだと思い遠慮した。のちのち、ゆっくりと知っていければそれでいい。
「ちなみに、あのハープシコードには、先代の魔法がかかってるんです」
「お父さまの?」
「はい。先代は、妻の弾くハープシコードが大好きで、子どもたちもそれは一緒でした。でもハープシコードの音は大きくない。だから先代は、妻が弾くハープシコードの音を自分たちの頭の中に聞こえるように魔法をかけたんです。屋敷内にいれば、どこでも、あのハープシコードの音が聞こえるように。そして、その魔法は――想いは、いまだに消えていない……」
「ああ、だから、あのとき……」
「はい。主がすぐに来たでしょう?」
レイナはうなだれた。
「それは当然怒るわね……私、そんなに大切なものに勝手に触ってしまって、しかも、聞きたくもない私の音を無理に聞かせてしまったのだもの……」
「いえ、それは違います」
いやにはっきりと言うセルヴィに、レイナは思わず泣きそうな顔で答える。
「でも、あの時のヴァスカはいつもと雰囲気が違ったわ……はっきりと感情を露わにしていて、恐ろしい顔をしていた……」
「やだなあ、主が怖い顔をしているのなんて、いつものことですよ。……違うんです、主は、ただ動揺していただけなんです。ああやって不器用な人だから誤解されやすいけど、もう二度と聞くことのできないと思っていた音がまた聞こえてきたから、ちょっと力んじゃった、って感じかな。ただ、あの部屋は確かに、主にとっては鬼門みたいなものってだけです」
「鬼門……」
「はい。主は母親を心から愛していますが、それと同じくらい、悲しい記憶もたくさんあるんです」
「悲しい、記憶……」
レイナはふと何かを理解した。
先日、ハープシコードの部屋の扉の前で苦悩に満ちた表情でいたヴァスカ。その取っ手に手を伸ばし引っ込め、逡巡する姿。何か決着をつけに行ったのだろうが、それを躊躇い、苦しんでいた。その表情はなんとも人間らしく、レイナと一緒で、共感すら覚えてしまったほどだった。
(お母さまのこと、それがヴァスカの心の底にある苦しみの、ひとつなのね……)
レイナはすべてを包み込む気持ちでセルヴィを抱きしめた。
(きっとセルヴィも、同じように悩んでいるんだわ……ああ、そして、ヴァスカ。あなたは、本当に優しいひと)
そっと目をつぶる。悲しい思い出を抱きつつ、それでも、母を愛さずにいられない彼。詳しい事情を知らなくてもいい、それだけが分かれば、もう十分にすら思えた。レイナは心から彼を愛おしく思い、慈しむ気持ちでいっぱいになった。ここにいないヴァスカを、セルヴィと一緒に抱きしめるような思いで。
バレンタインデーも更新したので、ホワイトデーにも、と。
地震や計画停電など国がバタバタしていますね。
ガンバレ日本!