27.主の戸惑い
レイナは薄手のショールを大量の箱から探し出し、羽織った。さすがに肩も胸元もむき出しのままでは心もとなく、本当はローブでもあれば、と思ったのだが、先日運び込まれた服はどれも夜会用の露出度の高いドレスばかりだった。毛皮のコートを着るほどでもないので、透け感の軽やかな上質のショールがちょうどよかった。
姿見の前で最終確認をすると、レイナは開け放してある扉から廊下に出た。食堂に向かうが、扉はそのままだ。
それはレイナの決意の表れでもあった。魔族のこと――この屋敷の住人たちのことを、もっと知ろうという決意。こちらが心を開かなければ、相手のことを知ることなどできないのだ。
大きく深呼吸をして、レイナは食堂の扉をくぐった。
正面には、相変わらずの無表情で座る屋敷の主人。しかし、その鉄壁の表情もレイナの姿を認めるとわずかに動いた。少しだけ眉が上がり、どんなものにも興味がなさそうな瞳がレイナを追う。とりあえず、気を引くことには成功したようだ。レイナは口元に笑みを浮かべた。そのままやわらかな表情で、ヴァスカにちょこんとお辞儀する。
「おはようございます」
予想通り返事はなかったが、意外なことに、ヴァスカは横目でちらりとレイナを見やり、少しだけ、頷いたのだった。そんな小さな反応すら今までになく嬉しく、レイナはほっとするような悔しいような複雑な気持ちになった。そうして朝食は始まり、ゆっくりと、平和な時間が過ぎていった。
食後にセルヴィが二人に紅茶をいれてくれた。もっとも、朝食を食べないヴァスカにはもう何杯目か分からない紅茶だったが。
「……それで?」
永遠に続くかと思われた沈黙は、意外にもヴァスカによって破られた。レイナはきょとんとして彼の横顔を見つめる。するとヴァスカは、はあとため息をつき、レイナを横目で見ながら言うのだった。
「何か、俺に話そうとしていることがあるのだろう」
「まあ……よくお分かりになりましたね。――はい、やっと、話す決心がつきました。私の過去を――一部ですが、お話しようと思います。ここでお世話になる以上、あなたにもまったく無関係ということでもないはずですから……」
ヴァスカは無言で頷いて、続きを促した。
「セルヴィ、もしよければ、あなたも」
「えっ……」
セルヴィはヴァスカの顔色をうかがったが、再び頷いた主を見て、レイナの正面の席に腰を下ろした。
「どこから話せばいいのか……多分、一番話さなくてはいけないことは、きっと、私を追っている者のことだと思います」
レイナは深呼吸をして、決意を固めると口を開いた。
「私は、この国の王にして首長である男に追われています。彼は城中の者に暗示をかけ、善良な人間であるかのような顔をしていますが、その実、魔族なんです」
レイナの言葉を聞いた二人は、はっと息を呑んだ。
「ぼくたち以外に、人間界に来ている魔族……」
「そう。奴は私の血を欲して、私が奴のもとから逃げ出した今も、首長という立場を使って教会中を総動員して私を探しています。それと、多分、いくつかの魔物も自分の駒のように使っていると思われるわ。あの夜――あなたに助けられたとき、私は魔物に襲われてたの。でも、そのときの奴らの動きはとても自然とは思えなかった……裏で操っている者がいるとすれば、それはきっと奴に違いない。私が血を流せば匂いに誘われて他の魔物がやってくる……そうすれば、近くの教会の者もすぐに私の居場所が分かるもの。
――奴にとってこれは、長い一生の退屈しのぎのゲームに過ぎないのよ……本気を出せば、私なんか簡単に探し出していくらでも捕まえられるはずだもの。どこかで手を抜いて、私をじわじわ追い詰めて、楽しんでいるのが分かる……いまいましい」
「……それでお前は、その男をどうしたいんだ?」
「――殺してやりたい。奴は私の家族を殺した。それに私の愛する人が、奴のそばにいるの。奴のことだからきっと最終手段の人質として、生かして手元に置いている」
その言葉には、セルヴィが訝しげな声を上げた。
「愛しい、ひと?」
「そう……彼は王子さまで――私は、これでも貴族の子女で。私たち、結婚するはずだったの」
「でも、政略結婚だったんでしょう?」
セルヴィは切実な願いを込めて聞いた。しかしレイナにはそれが伝わっていない。
「いいえ……私の家は一応上流貴族だったけれど、王太子妃には低い身分だったわ。うちと――ハーシェル家とつながりができても、政略でもなんでもない。私たちは何も知らないで出会って、お互いを好きになった。でも、」
言葉を続けようとしたレイナだったが、それはヴァスカが突然立ち上がったことによって遮られた。
「主?」
「――俺は部屋に戻る」
そう一言残して、すたすたと食堂を去っていってしまった。
レイナはうつむいたままだ。セルヴィは困り顔でつぶやいた。
「すみません、お話の途中なのに……」
「いいえ、いいの。でも……でも、続きを聞いてほしかった、かな」
ふと上げられたレイナの顔には、寂しげな微笑が浮かんでいた。
レイナは「でも、」の後をこう続けるつもりだった。
『でも、今では彼を、はっきりと好きと言えるか自信がないの』
***
ヴァスカは訳も分からずイライラして、乱暴に部屋の扉を閉めた。
(また、だ……)
最近ヴァスカは、レイナのことを考えると体がおかしくなる。動悸が激しくなったり、意味もなく焦りを感じたり、心臓が掴まれたようにキュッと締め付けられたり。先ほどのレイナの話に出てきた『彼』は、ヴァスカには不快に感じられた。謎の苛立ちがヴァスカの胸に巣食って、じわじわと広がっていく。
(くそっ、あいつの好いている人間のことなど、どうでもいい。より重大なのは、王の座についているという魔族のことだ……)
魔族でありながらわざわざ人間界にきてその王座に居座っている。さらにレイナの血を欲し、王と言う立場を使って彼女を追いまわしている男。あの夜、レイナを助けた日、確かにその場には魔物の気配が色濃く残っていた。彼女の話が正しいなら、それはその男のまわし者だ。つまり、そいつは同族を使えるのだ。
(もしかすると……これは、当たりか?)
ヴァスカとセルヴィが人間界に留まっている最大で唯一の目的。それは、ある男を探し出し復讐を果たすこと。しかしその男は強大で、馬鹿正直に真正面からぶつかっても太刀打ちできない相手だった。だから、幼かったヴァスカはこの屋敷で息をひそめ、自身の力をゆっくりと鍛えながら情報を集め、焦らずに準備を固めてきたのだ。しかし情報は全くと言っていいほどなく、ただ自分を見つめ直すだけの月日が流れた。
今、やっと、期待できる情報を手に入れたのだ。
(もう少し詳しく話を聞かねばなんとも言えない。だが……俺は、あいつと話したくない。――違うな、話したくないのではなくて……あいつが他の男のことを話すのが嫌なのか……?)
ふと思い至った自分の気持ちに、ヴァスカは戸惑った。これは、この感情はなんなのだ? 昔にもこんな思いをした気がする。
深い思考に入ろうとした瞬間、ヴァスカの頭の中で小さな音が響いた。薄い氷を割ったときに似ている、弱い衝撃。その感覚はあまり珍しいものでもなく、さして大きくもなかったので、ヴァスカは特に気にも留めずベッドに横になった。いつもにない感情に戸惑って、なんだか疲れていた。
その小さな音は、屋敷を覆っている結界に穴が開いたときにヴァスカの頭の中で聞こえる音だった。猫などの神聖な生き物が通ると、時々結界を傷つけることがある。今回聞こえたのも、その程度のものだった。だから、ヴァスカは警戒心を起こさなかった。
彼が後悔するのは、その直後のことである――。
揺れる、戸惑う、ヴァスカさん。
バレンタインデーだ!と思い立って更新したものの、相変わらず糖度が低い…