26.目覚め、そして決意する
「ん……」
長い、長い夢。それが終わりを告げた。
レイナはふっと覚醒して、目をこすった。髪と枕が涙で濡れていたが、妙に頭がすっきりしていて、体も軽かった。すべての気持ちの迷いを悪夢の中に捨ててくることができたのだろうか。レイナの中で、ゼデキアとヴァスカという二人の魔族の間にはっきりとした仕切りができていた。
一年も前の記憶は多少歪められているとしても、ゼデキアはやはりどこまでも残忍だった。人をいたぶることに快感を覚え、何かのために心を使うということをしない。しかしヴァスカは、セルヴィという僕に限ってだとしてもその身を案じ、何かに悩み傷つき苦しむことができる心を持っている。それは大きな差異だろう。
(彼を、やつに重ねて見るのはやめよう。同じ魔族で同じ色の瞳をしていても、彼のほうがよっぽど人間らしいわ)
レイナは一度目つぶり、次は決意を秘めた瞳で顔を上げた。
部屋の扉をそっと引くと、扉の横に水差しと冷めたスープが置いてあった。この三日、セルヴィとヴァスカに会わないようトイレや水を飲みに真夜中や早朝に部屋を何度か抜け出したが、そのときも同じように簡単な食事と水差しがあった。セルヴィが毎食ここに置いていってくれていたのだろう。だがレイナは、その食事に手をつけるのがなんだか癪で、負けのような気がして、水だけを食堂で飲んでいた。食欲は湧かなかった。そうしてセルヴィのやさしさをこの三日ほど無下にしていたのだと思うと、胸がキリリと痛んだ。
(会ったら、まずはじめにセルヴィに謝ろう。それから、ヴァスカと、ちゃんと話がしたいわ。これといって話すこともないけど……なぜだか、彼のこと、もっと知りたい……知るべきだと思える)
レイナは水差しとスープ、そして着替えを持って食堂へ下りていった。誰もおらず、しんと冷たい静寂に包まれた席で、レイナはひとり久方ぶりの食事をとった。冷たくてもスープはおいしかった。使った食器を洗い、次は湯殿に向かった。湯は使う分だけを大きな桶にため、体と髪を洗った。涙でかさかさになった頬にはセルヴィが育てた薬草で作ってくれた化粧水をつけた。
そうして再び部屋に戻ると、レイナはクローゼットを開けた。先日、レイナの部屋に大量に届いたドレスのひとつを選んで、着替える。緑とも青ともつかない不思議な色をしたローブデコルテだ。今はまだ夜中だからいいものの、これから起きだす二人に会うころは、すっかり明るい時間になるだろう。それを思うととても恥ずかしかったが、しかし、レイナの決意をも表しているドレスとして、彼女はこれを選んだ。コルセットでもともと細い腰を締め、女性らしい曲線美を際立たせる。
ドレスを着終わって、レイナは鏡の前に座った。手で髪を梳いていて、ふと、例の象牙の櫛が目に入る。それをそっと手にとって、見つめた。これはセルヴィにとってもヴァスカにとっても大切だった人のものだという。きっとヴァスカの恋人だった人のものだと、レイナは踏んでいた。
(――あなたがどんな人かは知らないけど……あの彼に大切にされていたという人なら、どうか。私のこの気持ちが、なんていう名前なのか教えてほしい……)
ヴァスカを思うと立ち現れる、心の中の動揺。レイナはわけの分からないそれを扱いかねていた。否、その正体をどこかで分かっていながら、強すぎる理性と正義感が完全に認めることを妨げていた。
ぎゅっと胸の前で強くにぎってから、レイナはその櫛で髪をとかした。そして複雑ではないものの、きれいに結いあげた。すべて出来上がって、レイナはもう一度姿見で全身を映す。我ながら上出来だと思い、鏡の中の自分ににっこり微笑みかけた。そうすることで少しは勇気がわいてくるようだった。
レイナは額をこつんと鏡につけた。ひんやりと冷たさが染みていく。
夜は明けようとしている。屋敷の住人が起きる時間だ。
***
セルヴィは目を覚ますとすばやく身支度を整えて、朝食の準備のため厨房に入った。そこですぐに違和感に気付く。洗い場の横に、きれいなお皿と水差しが置いてあったのだ。セルヴィはそれが何なのかすぐに分かって、次に深く息をついた。
(レンが帰ってきた……)
レイナは数日前から部屋にこもったきりでセルヴィにもヴァスカにも顔を合わそうとしなかった。その間セルヴィが部屋の前に置いておいた簡単な食事には一切手をつけず、どうやら水だけは夜中のうちに食堂に飲みに来ていたようだったが、それでも、かなりの衰弱が予想された。心配でいてもたってもいられなくなったセルヴィは、すぐさま、レイナの部屋に向かった。しかしレイナの部屋が面する廊下を曲がった時、セルヴィは驚いてしまった。
部屋にこもってしまう前から、彼女の部屋の扉が大きく開けられたところを見たことがなかった。
だがしかし、今、その両開きの扉はすべて開け放たれていた。部屋からの光で廊下がいつもより数段明るい。
セルヴィが恐る恐る扉から中をのぞくと、涼しい爽やかな風が通り抜けた。バルコニーへと続く正面の大きな窓も開いていて、薄いレースのカーテンがやさしく波打っていた。レイナはその向こうで、バルコニーの桟に体を預け、空を見上げていた。
セルヴィは、その後ろ姿にごくりと喉を鳴らした。
主のものに邪な思いを抱こうはずもないが、彼女の姿は、あまりに美しかった。琥珀色の髪は結いあげられ、細いうなじが儚げで、なんとも言えない色気を感じさせた。白い肩と背中は惜しみなく出され、朝陽に輝き、斜めに走る赤い傷すらも美しいと思えるほどだ。
「レン……」
セルヴィがそっと呼びかけると、数瞬の間があって、レイナがこちらを振り返った。彼の姿を認めると、ぱっと、花が咲いたように笑う。セルヴィはそのまぶしさに少し目を細めた。レイナは足早にセルヴィに近づくと彼の前に両膝をついて、その手を取り、懺悔するように自分の額に押し付けた。
「ああ、セルヴィ……私、あなたに謝らなくちゃ。ずっとご飯を置いてくれていたのに、手をつけずに、ごめんなさい」
「そんな……ぼくは当然のことをしただけです。レンの気持ちも分かっているつもりだよ。だから、気にしないで」
レイナはそのまま無言で頷いた。
「ありがとう……そして、お願い、このまま聞いてほしいの。――私……変な意地を張っていたわ。でも、いろいろ考えた。考えて、考えて……私、あなたのご主人さまのことをずいぶん毛嫌いしていたけれど、考えてみたら、彼のことを嫌いになれるほど知っていないって、気付いたわ。ただ、私の中のトラウマにとらわれて、彼自身を見ようとしていなかったと思うの」
そしてちょっと言葉を切って、小さく息を吸った。
「私、自分のこと――全部じゃないけど、あなたと、彼に、話そうと思う」
「レン――」
「朝食の時間、少し借りていいかしら?」
セルヴィは、嬉しいけど素直に喜んでいいのか分からない、といった複雑な笑顔で、ただ、頷いた。
「ありがとう、セルヴィ。大好きよ」
レイナは、かつて弟にしてやったように、小さな魔族の少年の額にキスをした。
セルヴィはびっくりして、まん丸くした目でレイナを見つめた。レイナはいたずらっぽく笑うと、ウインクをよこした。そしてすっと立ちあがって、一人部屋に戻っていってしまう。取り残されたセルヴィは頬を赤く染め、レイナの唇が触れたおでこに軽く触れた。
ふふ、と笑みをこぼしすぐにレイナの後に続く。
(ヴァスカ……やっと、あなたに並べる者が現れたのですよ。あなたも自分から歩み寄らなければ、この呪われた輪廻は絶たれない!)
季節は初夏。渇ききった世界に、少しだけ、しっとりとした空気が流れてきた。