23.夜会で
二人が出会ったのは、もう数年前のことになる。
当時レイナの祖父は健在で、今は父が継いでいる爵位も彼が持っていた。母の腹の中には、のちにレイナが溺愛することとなる弟のロバートがいた。
祖父は父ほど控えめで大人しい性格ではなく、国王への忠誠心とともにそれなりの出世欲を持っている人だった。祖父はレイナをかわいがり心から愛してくれ、ふさわしい年齢になると彼女を社交の場に連れていくようになった。そういうコネを今のうちから持たせておいて、あわよくば、高貴な子息と一緒になってくれればと思っていたのだ。もちろん、第一には彼女の気持ちを大事にして。
しかしレイナは、それほど社交界が好きではなかった。自分の立場を一応は自覚していたためふてくされながらも祖父や父についていってその場で笑顔を振りまいていたが、来ないでいいと言われれば喜んで留守番をするつもりだった。家には愛馬がいるし、父の書斎には本がたくさんあるし、広い庭はいつだってレイナの冒険の場だ。馬を駆って、木に登って、穴ウサギを追いかけて、難しい本を字を教わり調べながら読む。それがレイナの幸せだ。
その日の祖父はいつも以上にはりきっていた。久々に、王城で催される大きなパーティだったからだ。国王陛下が無事即位されて五年が経ったので、そのお祝いだった。
おもだった参加者には挨拶を済ませたレイナの祖父と父は、やっとレイナを解放してくれた。彼らはレイナが同年代の少女たちの輪の中に入っていくことを期待していたらしいが、そんなことレイナはお構いなしに、会場から続く庭に出た。庭にも明りが出ていて、テーブルとイスが用意されていた。しかし参加者はみな会場内でおしゃべりに忙しく、美しい庭には目も向けていないようだった。一人だけ、お盆にたくさんのカクテルを乗せた使用人がレイナに近づいてきてジュースを渡してくれたが、彼もすぐに明るい会場に戻っていった。
ほうと息をつき、渡されたジュースを飲む。ワインに見せかけているが発酵させていないただの濃いブドウジュースだ。レイナは誰も来ないのをいいことに、城壁に背を預けてその場に座った。芝の上にはじゅうたんがひいてあるので、マーサが苦労して着せたレイナのドレスが汚れることはないだろう。ただ「高貴なる子女が地面なんかに座り込むものではありません!」と彼女なら怒るだろうな、と思ってちょっと笑った。
見上げれば、宝石箱の中をのぞいているかのような星空が広がっていた。その中で遅い出の月が女神のように微笑んでいる。それを見たレイナも、返事をするように笑み返した。そっと目をつぶると木々をざわつかせながら走る風の音が耳に心地よい。
風にあたりながら、何かが足りないと思ったレイナは、ふと、自分の髪がきっちりと結いあげられていることに気付いた。これでは全身で風を感じられないではないか。ほぼ無意識と言っていい状態で、髪留めに手を伸ばした、その時――。
「こんなところでどうしました? 具合でも悪いのですか?」
小娘相手にしてはばかに丁寧な言葉をレイナは不審に思って、ちょっとむっとして開いた眼に映る相手を睨んだ。だがその一瞬後、その者が誰かに気付き、彼女の思考は止まった。
地に座っているレイナの顔をのぞきこむように、腰を低く曲げている少年――今まで遠くからしか見たことがなかったが、間違いない。
「王太子殿下……!」
自分がどれだけの不敬を働いたかと、レイナはぞっとした。自分だけが罰せられるのならいいが、それはつまりハーシェル家の家名にも影響する。レイナは即座に立ちあがって、女性の最敬礼をとった。
「大変な不作法をいたしまして、申し訳ございません、王太子殿下」
言い訳はしないほうがいい。するだけ無駄だし、下手したら相手の心情を悪くする可能性もある。幼いながらにレイナはそういうことを知っていた。
深々と頭を下げる、自分より幾分か幼い少女の姿を見て、王太子ジェフリーは声に苦笑を混じらせて言った。
「いや、参ったな。そのようにされては、わたしも謝らねばならない」
さあ顔を上げてと優しく言われ、レイナはおそるおそる相手を見上げる。殿下が何を言いたいのか分からなかった。
「あなたの具合が悪くないことくらい、気付いていたのですが……わたしはごまかして声をかけ、あなたの楽しみを邪魔しました。すまないことをしたね」
謝罪するのはレイナであって、殿下がそうしなければいけない理由などないはずだった。訳も分からず頭を下げられて、レイナはいよいよ混乱する。
「殿下が謝ることなどひとつもございません、どうぞ、そのようにおっしゃらないでください……」
弱々しい声で懇願することしかできなかった。
ジェフリーも顔を上げ、ふわりと微笑んで、レイナをどきりとさせた。
「あなたは、ずいぶんと自然がお好きなようだね」
「あ……は、い?」
「月と笑いあうと言う人を、わたしは初めて見たよ」
それを聞いて、レイナはぼんっと頭から湯気が出る思いだった。
「ご、ご覧になってらしたのですか……!」
ジェフリーは、くすくすと人の悪い笑みを浮かべていた。どうやらレイナをからかっている。
「あまりに幸せそうだだったので、声をかけるのが躊躇われたのですが……さすがに、まだパーティも始まったばかりなのに髪を下ろしてしまうのは大変だろうと思いましてね」
さらに顔を赤くして、レイナは羞恥を越えて怒りすら感じてきた。
――人を黙って観察するなんて、性質の悪い……!
「おかげで世話係の手をわずらわさずに済みましたわ。ありがとうございます、殿下」
レイナは極上の笑みを顔に張り付かせ、再び、最敬礼をした。
「では、私は失礼をして、大人しく会場に戻ることにいたします。無礼を働いたこと、心よりお詫び申し上げます。……それでは」
レイナはくるりと踵を返して、明るいパーティ会場に足を向けた。その背中に、声がかかる。
「姫! あなたはわたしをご存知なようだけど、わたしはあなたの名も知らないんだ。教えてほしい」
レイナは振り返った。
王太子殿下と直接話せる機会など、そうそう巡ってこない。これはレイナ自身と、ハーシェル家を売り込む大事なチャンスだったのに、レイナは危うくそれを逃すところだったのだ。怒りのあまり貴族の息女らしからぬ態度をとった自分をひどく恥じた。そしてそれと同時に、こうして腹の裏で計算しつくした態度をとることを求められる貴族が、ほんとうに嫌だった。
「これは、大変なご無礼をいたしました……。私はレイナ・ローズクレア・ハーシェル。ハーシェル侯爵家の総領娘でございます」
深々と下げた頭を上げると、ジェフリーは輝かんばかりの笑顔だった。その美しさに、レイナの胸が高鳴った。
「そうでしたか、侯爵家の……。いえ、お引き留めしてすまなかった。どうぞ今宵は楽しんで」
ジェフリーはレイナの瞳をとらえると再びにこりと目を細め、会場には行かず庭の先の闇に消えていった。
レイナは揺れる美しい金髪の頭をぼんやりと見送っていたが、ふと我に返って、ほてる頬を両手で包みこみ会場に戻っていった。
後日、ハーシェル家に見事な金箔をあしらった手紙が来た。それは当の王太子ジェフリーからで、宛名はレイナになっていた。内容は、王城の花がどうとか木々がどうとか、色恋ものではないものの、最後の一文は「またあなたに会うのを楽しみにしている」という、なんとも恐れ多いものだった。
まさか王太子殿下からかわいい孫娘に手紙がくるとは思っていなかったレイナの祖父は、それはもう喜んで、その日の晩は家族だけでの大パーティとなった。
ハーシェル侯爵家はその昔に王女の降嫁のあった家でもあり、非常にわずかながら王族の血を受け継いでいる。また爵位を持つ貴族の中でも高位で、古くから続く名家であった。経済は祖父の才気で潤っていて、じじ馬鹿の祖父は夜会があるたび孫娘にドレスを新調させるくらいだ。
そんな祖父の愛しいレイナが、どうやったか知らないがいつの間にか王太子の興味をひいて、今、このように手紙のやり取りをするほどの仲になっている。レイナ自身はなぜか不服そうに返事を書いているものの、祖父として、またハーシェル侯爵家当主として、それはとても喜ばしいことだった。
一月後、とある権力者の公爵邸の夜会で、レイナとジェフリーは再会した。ハーシェル家はその公爵の派閥だったし、ジェフリーにとってはその公爵が年の離れた従兄だった。ふだんあまり王城以外の夜会に顔を見せない王太子だったが、その日公爵邸にやってきたのは、もしかすると、ジェフリーが従兄に夜会を開くことを頼んだからかもしれない。
レイナは期待していたわけでもないが、その宵もやはり庭に出ていた。会場の熱気にほてった体を冷やすためだ。今日はダンスを申し込んでくる者たちが多く、それを適当に相手するのが大変だった。
(ふう、疲れた)
大人しくベンチに腰掛け、レイナは頬を両手で包んだ。少し冷えた手が心地よい。
「こんばんは、レイナ姫」
唐突に現れた気配にレイナはびっくりして立ち上がった。目の前には意地の悪い笑みを浮かべて腰を曲げる王太子。
「まあ、殿下……」
レイナはため息交じりに、ひとり言のようにつぶやいた。
「そうやって人を驚かすのがお好きなのですか」
「そうだね……確かにあなたは他の貴族のご令嬢とはちょっと違ったふうだから、からかうのは楽しいよ」
悪びれもなくそう言ったジェフリーに、レイナは返す言葉もなくす。
「ところで、手紙の返事をありがとう。もしかしたら来ないかと思っていたから、とても嬉しかったよ」
「……祖父が、書けとうるさかったので」
そっぽを向いて小声で言うレイナに、ジェフリーはくすくすと笑った。それでもありがとう、と言うと、小さな貴婦人はほんのりと頬を染めた。
「今日はちゃんと人を払ってある。そこに座って、少しお話をさせてほしいな」
仮にも王太子の願いである。隣り合わせで座るなんて王族に対して無礼かとも思ったが、どうしてもと言われてレイナは無下に断るわけにもいかず、不承不承ジェフリーと一緒にベンチに座った。
しばらく他愛もない話をして、レイナも少し気持ちがほぐれてきたところで、ジェフリーは唐突に黙ってしまった。
「……殿下?」
何か機嫌を損ねるようなことをしたかと、恐る恐る声をかけると、ジェフリーは至極まじめな顔でレイナに向き直った。そのあまりの真剣さに、レイナの胸がどきりと高鳴る。きりりとした眉、高く通った鼻筋、髪と同じ金のまつ毛に縁取られるのは濃い空色の瞳。
「レイナ姫、あなたは、わたしがお嫌いか?」
思いもよらない問いに、レイナは目をぱちぱちとさせて、戸惑った。
「いえ……いいえ、嫌いでは、ございません」
「では、好きかと問われれば?」
「それは……分かりませんわ。私が殿下とお会いしたのはまだ二回、まともにお話ししましたのも今日が初めてです」
真面目なジェフリーに、レイナも誠実に答えようと真剣に言ったのに、それを聞いた当の相手はぶっと吹き出した。
「な、なにがおかしいのですか!」
憤慨するレイナを尻目に一通り笑うと、ジェフリーは目にうっすらと涙を浮かべながら笑い声の下で言った。
「やはりあなたはただのお姫様ではないね。普通なら、どんなにわたしが憎かろうと“好きだ”と即答するところだよ。――ますます、あなたが好きになった」
最後に付け加えられた言葉に、レイナは再び、今度は首まで真っ赤にして硬直した。言われ慣れない言葉にどう反応すればいいのか、それがどれほどの意味を持つのか、彼女には分からなかった。
「手紙だけじゃなく、こうしてときどき、会えないだろうか。あなたともっと話して、あなたのことを知りたい。ねえ、レイナ姫」
甘い顔と声で、さらに首までかしげて頼まれて、レイナはこくこくと壊れた人形のようにうなずいた。
かくして、二人は夜会のたびに親交を深め、ゆっくりと好きあう仲になっていった。
過去の時点からさらに回想される過去、という分かりづらい形になってしまいました。
すみません。




