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22.思い起こされる過去

 部屋に閉じこもって三日が経っていた。あの日脱ぎ捨てた臙脂のドレスは、床に無造作に広がったままだ。

 部屋に戻った途端、なぜか涙があふれ出てきてレイナはベッドに飛び込んだ。掛け布団は跳ねのけられシーツはシワシワで、レイナ自身ぼろぼろだった。

 気持ちがぐちゃぐちゃに混乱して、頭がついていかず、ただただ涙が出た。すべてを狂わした男と同族の彼らを、レイナは今、嫌悪するどころか気にかけているのだ。はじめこそ青年の瞳を美しいと思ったが、それ以後目にするたびに憎い男と同じそれに背が粟立つこともあった。青年はあの男と同じ欲――レイナの血を啜りたいという――を目に燃やしていたのだ。亡くした家族たち、愛する人との幸せの日々をぶち壊した、レイナの敵。今もレイナを欲し国を巻き込んでいるめちゃくちゃな男。

(やつを思えば、私の心は憎しみに燃える――)

 揺れる赤の触手に飲み込まれ失った、安らぎの場。その映像がレイナの必死の封印を突き破って現れるたびに、レイナは後悔と自責の念、そしてすべての元凶の男への憎悪に包まれる。

(でも、()を思えば……私は、自分が分からない――!)

 休養の場を与えてくれるのは感謝してもいい。ただそれはレイナの血と引き換えに得るものだから、特別に恩を感じる必要もないのだ。だが、レイナは血を吸われるのが嫌だ。吸血とともに体に走る、あの妙な感覚が恐ろしい。だからそんな感覚を傲慢な態度で押しつける青年が憎くて、嫌いなのだ。なのに、彼がときどき見せる寂寥の表情――思わず駆け寄って、そっと抱きしめてやりたいような気がしてしまうほどに深く傷ついた表情が、あまりに人間臭くて、レイナと一緒に思えて、なにか侵してはいけない神域があるかのようにレイナは彼を憎みきることができない。

 ――もしかしたら、彼も私と一緒で、孤独に脅え苦しんでいるだけなのかもしれない。私たちはお互いを補い合えるかもしれない……。

 そう考える自分に驚愕しつつも、自身の本当の気持ちに気付いてしまうのが一番恐ろしく、結局、すべては宙ぶらりんのまま空気に溶けていくのだった。

(もう、疲れた……)

 泣くことは、ひどく体力を使う。

 レイナは再び、何度目か分からない、重くたゆたう眠りについた。

 そして、“あの日”の光景を見た。




 レイナがお気に入りの曲を弾いていると、そばにロビンが寄ってきた。レイナがちらりとかわいい弟に視線を向けると、目が合った二人は花が綻ぶように笑った。レイナが再び曲に集中すると、ロビンは床に座り込んだまま曲と一緒に体を揺らしていた。その曲は彼のお気に入りでもあった。

 最後に黒と白の鍵盤を駆け上がり、曲は終わった。小さな拍手とともに余韻は消える。

「姉さま、そろそろ時間?」

「ええ、そうみたい」

 窓の外の薄青い空には桃色とも橙ともつかぬ美しい色をした雲が浮かんでいた。

 重たい夜会用のドレスを持ち上げて、慎重にハープシコードから離れたレイナはそのまま身を屈めて弟の額に口づけた。ロビンはくすぐったそうに身をよじり、軽く姉を押し戻した。

「姉さま、遅刻しちゃうよ」

 レイナはそんなロビンの抗議を無視して、いつものせりふを言う。

「いい? 私を待ってなんかいないで早く寝るのよ。もちろん、ちゃんとお母さまに顔を見せてからね。今日はお父さまもあとから私のほうに合流するそうだから、マーサにすべて頼んでおいたわ。彼女の言うことをちゃんと聞いてね。それから、……」

 まだまだ続きそうなお小言にロビンは両手を振ってレイナを止めた。

「姉さま! もう耳にたこだよ。大丈夫、ぼく、もうちゃんと分かってるって」

「――そうだよレイナ、それにもう時間だろう。ロバートの言う通りお前はお前の立場をもっと自覚しなさい。母親役は、ひとまず休憩だ」

 苦笑交じりに響いた声に、レイナはぱっと顔を上げた。ロビンもそちらに振り返り、嬉しそうに叫んだ。

「父上!」

 ハーシェル家の当主であるレイナの父は、威厳のある壮年の、大人の魅力を持つ男だった。しかし彼は大貴族としては似つかわしくないほどに穏やかな無欲な人物で、領民からも好かれるよい領主であった。そんな彼だから、二人の子どもを抱えていても、早くに亡くなった正夫人の後釜にいつこうと狙っている貴婦人たちは多かった。ただ亡くなった妻を本当に愛していた彼は、後妻をとることはなかったのだが。

 二人きりの姉弟たちは心根もまっすぐに育って、父としては憂えることはなかった。ただ大貴族とは名ばかりで家の勢力は右肩下がりではあった。しかし、それももうすぐ解消されるかもしれない。

 ――彼の娘レイナは、これから、大切な夜会に出向く。

 その場にレイナの父として居合わせるべきなのかもしれないが、彼は華々しい社交界にすすんで出向こうとは思えず、今日も会場が落ち着いたころ少し遅れて顔を出す心づもりだった。

 玄関で父と弟に見送られ、レイナは照れたように笑った。実際、今夜のパーティは今までのとは違ったものになるだろうから、気恥ずかしさがあった。

「いってらっしゃい、レン」

 小さいころからの呼び名を言われ、レイナはもう一度弟にキスをした。するとレイナの胸ほどまでの身長しかないロビンは、ちょっと背伸びしてその耳元で小さく告げた。

「早く帰ってきてね! 今はまだ、みんなのレンなんだから」

 その言葉に隠された意味に、レイナはからかうなと言う代わりにロビンの脇を小突いたが、彼はそれをうまくかわしてレイナの頬にキスを返した。

 馬車に揺られ、着いたそこは、荘厳な石の城――王のおわす宮殿だった。


 馬車を降り、入口へと向かう。そこに立っていた門衛はレイナの顔を見るとうやうやしく頭を下げ、もはや許可証を確認することなく彼女を通した。

 会場に入るとむあっとした空気に包まれた。料理の匂い、香水の匂い、ひとの匂い。いつもより、熱気がすごいように思えた。 

 男も女も見事に着飾り、グラスを片手にお上品に笑いあっている。しかしその裏で、人々は今日のこの舞踏会がどんな意味を持つか知っており、華々しい快挙を上げるのは誰なのか、賭けごとをしている者もいれば腹を探り合っている者もいる。特に女たちの目に浮かぶ優越と警戒と牽制の色は、レイナには怖いくらいに感じられた。

「ごきげんよう、レイナ姫」

 声をかけられて振り返れば、そこにいるのはそんな醜い感情をあらわにした四、五人の娘たち。それぞれが有力貴族の家の令嬢である。

「ごきげんよう、みなさま」

 ここは平穏に切り抜けなければいけない。レイナは美しい笑みを貼り付けて、優雅にお辞儀した。

「今宵は星空がきれいで、よい会になりそうですわね」

 レイナに声をかけた姫たちは、自分たちが今対峙しているライバルとも言える彼女が美しい声で美しい言葉を紡いだのに少したじろいだ。

「え、ええ、そうですわね……」

 同性から見ても、レイナは美しい娘であった。肌は抜けるような白さで頬と唇は甘く色づき、琥珀色の髪はたっぷりとして艶やかに揺れ、ありふれたミントグリーンの瞳も非の打ちどころのない配置の相貌の中で、彼女のまっすぐな心根を映して輝いている。何もかもが完璧で、悪意を知らない純朴な天使かのようにさえ見えた。

 しかし今は相手を褒めたたえる時ではない。姫たちのリーダー格といえる女は、相手の高貴さに気圧されている自分を叱咤して、皮肉たっぷりな言葉を笑みに乗せて言った。

「それはそうとして、レイナ姫、あなた、ご実家は落ち着きまして?」

 彼女たちは知っていた。今、レイナのハーシェル家は勢力として弱く、借金こそないものの湯水のように使える金はなかった。ハーシェル家が誇れるのはその脈々と続いてきた古い血に備わる家格だけである。

「そうですわね……まだ以前と同じというわけにはいきませんけれど、それでもよくなっていますわ。それに、わたくしは今のままでも十分満足しておりますの。家族がいますし、……」

 レイナは続けようとした言葉を飲み込んだ。今彼の名を出してしまっては、まるでレイナが家の再興のために彼に近づいたようだし、いずれにしろ二人の間に本物の想いがあることなどこの人たちには信じてもらえないだろうから。

 目をつぶって言葉を切ったレイナを見て、娘たちは再びひるんだ。

 ――なんて幸せそうな顔!

 娘たちは瞼を下ろしたまま口元で淡く微笑むレイナの姿を見て、もはやそれ以上の憎まれ口をたたかなかった。すごすごとその場を後にして、数瞬遅れてそのことに気付いたレイナは嫌な状況が去ったと知り熱気のこもった会場から広いバルコニーへと場所を移した。

 そこには二、三人の男がいたが、彼らはみなこの浮足立った雰囲気に辟易しているらしく、それぞれ自分の空想にふけるかのように静かにたたずんでいた。その中にそっとレイナが混じっても彼らは一向に注意を向けなかったので、レイナも安心して、桟に手をかけながら夜空を見上げた。

 そのまましばらくぼうっと眺めていると、快活な、だが控えめな足音が近づいてきた。少し緊張して振り返ったが、その直後にはレイナは男性の腕の中にいた。

「レイナ、会いたかった」

 耳に直接囁きこまれた低い声に、レイナの体はかっと熱くなった。それをごまかすように、いつになく大胆な青年の胸を軽く押し返す。

「ジェフリー様、人が……」

 青年ジェフリーは、素直にレイナから身を離すといたずらっぽく笑って見せた。

「大丈夫、ここの人たちはわたしが配置した者だよ」

 言われて気付いたが、彼らは背筋をしゃんとのばして隙なく立っており、さりげなく、バルコニーの入り口から二人を隠している。招待客に見せかけて、おそらく正体は近衛なのだろう。

「あなたはきっとここに来ると思ってね。それに、こんなことをしなくても、もういいではないか?」

 今宵で、すべては希望から現実になる。

「ですが殿下、正式な発表はまだですので」

 レイナが言うと、ジェフリーはむっとした。

「殿下と呼ばない約束ではなかったか? わたしはあなたに、我が名を呼んでほしい」

 レイナは、そうでした、と言って恐れ多くも呼ぶことを許された彼の名を心の中で反芻した。それだけで、胸の内がほっとあたたまり、しあわせな気分になれた。

 レイナの愛しい人。彼の名はジェフリー・グローリア・エスニフ――この国の王太子である。



レイナの過去編、始まりました。

予想以上にとってもとーっても長くなりそうです…。


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