19.臙脂の不意打ち
食欲もわかなかったので昼食をすっぽかして、そのあとずっと図書室にこもっていたレイナだったが、現実を忘れようと手に取った本を読んでいてもいまいち話に入りこめず、結局、もやもやした胸のまま日は傾き始めた。
ゆるゆると瞼を開け、どうやら自分は寝ていたらしいと気付く。体を動かした時、急にぬくもりが消え去った。見てみれば薄手の毛布が床に落ちていた。手触りのいいそれを拾い、ふんわりと漂った匂いに微笑む。レイナは足を下ろした。外はまだ明るかったが、太陽は中天からだいぶずれている。すぐに暗くなってくるだろう。
レイナは手にしていた本を元に戻し、本でいっぱいの塔を出た。真っ先に食堂に向かう。やはり彼はそこにいた。
「セルヴィ」
セルヴィは手を止めてぱっとこちらを見た。
「これ、ありがとう。かけてくれたの、セルヴィよね?」
毛布をちょっと持ち上げて見せると、セルヴィは首を傾げた。
「何のことでしょう……ぼくじゃないですよ」
一瞬きょとんとしたレイナだったが、ふふ、と笑った。
「残念、この毛布からは、今あなたが刻んでるセージの匂いがするわ」
「あ、っと……」
セルヴィが舌を出しておどけて見せたので、レイナもほっとして厨房に入った。昼食のことを謝ればセルヴィは気にしていないと言ってくれた。腕まくりをして、手伝おうと鍋の前に立った時、「だめですよ」とセルヴィの声がぴしゃりと飛んできた。以前、レイナは完成間際だったシチューの鍋を倒して台無しにしたという前科がある。レイナは肩をすくめた。そんな彼女をなぐさめるように、楽しげにセルヴィが言った。
「実は、だいぶ早いんですけど、もう夕飯できるんです。あとはこのセージを入れるだけで……。今日は、食事の前に、レンにお仕事があります」
「えっ、仕事?」
この屋敷に来て初めてのことだったので、レイナは驚いた。セルヴィは手際よく残ったセージを細かく刻んで鍋の中に入れると、ざっとかき混ぜてから火を消した。余熱で鍋はまだくつくつ言っている。
「さ、では行きましょう」
そう言ってセルヴィに連れられて行ったのは、なんてことはない、レイナの部屋だった。しかし、その扉を開けた先にあったものに、レイナは目を丸くした。
「やっと来たんです、レンのもの」
ベッドの上に広げられたたくさんのドレス、その足もとに綺麗に並ぶ靴が三足。ベッドサイドに動かしてあるテーブルの上には目がくらみそうな宝石類もあった。しかも広げられているドレスのどれもが豪華な夜会で着るようなイブニングドレスで、襟ぐりがやたら大きく開いているし、中には背中から肩から大胆に露出するデザインのものもあった。
「私の、もの?」
冗談でしょ、と尋ねてみたが、セルヴィの目は驚くほどにきらきらと輝いていた。
「ぼく、小さいころ着せ替え人形が好きだったんです。レンは綺麗だし、人形なんかよりずっとずっと着せ替え甲斐があります」
「ちょっと待って、私、ドレスなんて……」
「あ! そうですよね、ぼくとしたことが、恥知らずなことを……ごめんなさい」
突然しゅんとして俯いたセルヴィに、レイナはほっとして息をついた。よく分からないが、ドレスのことは思い直してくれたらしい。
「でも、大丈夫ですよ。ちゃんとついたてを用意してありますから。できる限りのお手伝いはしますけど、絶対にのぞきません。誓います」
レイナはがっくりと肩を落とした。
***
姿見に映る、自分を見る。
(こんな高級なドレス……まさか、用意されるなんて思ってもなかった)
セルヴィがレイナに手渡したのはきれいな臙脂色に染められたビロードのドレスで、肩口から肘の上までは同じ色のシフォンで覆われていた。残念なことに胸元は広く開いていたが、サイズは驚くくらいちょうどよく、肌になじんでいる。かつてレイナがよく着ていたドレスにはこのような色はなくて、初めて見る自分に少し戸惑った。
「セルヴィ、いいよ」
レイナが言うと、ついたての陰からひょいとセルヴィが顔をのぞかす。そしてすぐに驚きで目を見開いた。
「レン……きれい!」
セルヴィの大絶賛のもと、姿見の前に置かれた椅子に座るよう促された。
「お化粧道具を探してみたんですけど、残念ながらありませんでした。でも、せめて髪ぐらいは……ね?」
「まあセルヴィ、あなた、結えるの?」
「これでも、ぼくが器用だってレンも知ってるでしょ?」
いたずらっぽく笑うセルヴィにつられて、レイナも笑った。
セルヴィの細い指がレイナの髪をすく。その感触がなぜかとても安心できて心地よく、レイナは目をつぶってされるがままになっていた。しばらく色んな髪形を検討していたセルヴィだったが、ふと、一度部屋を出ていった。戻ってきたとき彼の手には美しい象牙の櫛が握られていた。その飴色になった装飾を見て、レイナの胸が少しざわつく。――明らかに、女性もののこしらえだった。
彼女の視線に気付いたのか、セルヴィが微笑みながら言った。
「前に屋敷を片づけていたとき、これが出てきたのを思い出したんです」
「すごくきれい。きっと腕のいい職人に彫らせたのね。それに……ずいぶん使いこんであるわ」
一瞬ためらったが、セルヴィは思い切って口にした。
「ええ、これは、ある人の物だった櫛です」
「ある人?」
「――主にとっても、ぼくにとっても、すごく……すごく大切な人です」
ぐわん、と頭の中が揺れた。
意外にもレイナは衝撃を受けていた。あのハープシコードの部屋を見て、この屋敷に女性の影があることにはなんとなく気付いていたが、こうして面と向かって言われるのと推察にとどまっているのとでは感じ方が違うらしい。
セルヴィの懐かしむような瞳の色に、レイナの胸がどうしようもなく苦しくなった。
「きっと、とても美しい人だったのでしょうね……そんな優美な櫛が似合うような、穏やかで、優しい女性……」
「はい……まさに、そういう方でした」
そのあとのことは、レイナはよく覚えていない。髪を触られる心地よさとなぜだか分からない悲しさで揺れる思いを落ち着かせるのに必死だった。胸の中心で黒いかたまりがぐるぐるするような感じ。いてもたってもいられない気持ちになりながら、どうしようもできないもどかしさ。甘く切ないようで苦しい。……この感情の名を、レイナは知らない。
セルヴィが一歩下がって、自分の手掛けた髪の出来栄えを確かめるころ、レイナはようやく自分の想いを片づけた。
「うん、我ながら上出来です」
満足げに頷いたセルヴィの言う通り、鏡にはさらに華やかさを増したレイナの姿があった。全体をハーフアップにし、サイドを編みこみつつまとめた髪は右耳の後ろあたりでお団子にされている。そこにいくつかの宝石を器用に埋め込みながら、セルヴィはとても嬉しそうだった。
しかしレイナは首まわりの髪が少なくなったことで隠しようのなくなった首筋の鬱血の痕に今さら気付き、羞恥の思いにかられた。吸血による小さな傷はいつもすぐにふさがって、治りも早いが、この赤紫になった痕はそうはいかないようだ。こういうものが、どれくらいで消えるのかは見当もつかない。レイナはさりげなく、おりている髪をすべて左肩にまとめて流し、少しでもそれを隠そうとした。
そんな彼女の様子を見て、セルヴィは苦笑する。
「本当は全部結いあげたかったんですけど、背の傷が気になるかな、と思って……。でも、肩は、主が治したようですね」
「あ……気付いてたの?」
鬱血のことではなく、肩の傷の話になって不意打ちだった。ちょうど袖のシフォンで分からないかと思ったが、セルヴィはちゃんと見ていたようだ。傷跡すらないのを見れば、どう考えても自然な速さの治癒ではないのだから、ヴァスカによるものだとすぐに分かる。
レイナはいつも、そういったことをセルヴィに知られたくないようにする。セルヴィにはそれが分からなかった。
「……なんで隠そうとするんですか?」
そう聞かれ、レイナは少し答えに困った。なぜ、と言われても明確な理由は持ち合わせていない。
「分からないわ……ただ、なんとなく、悔しいの」
「悔しい?」
「ええ。傷を治してもらうのは嬉しいのだけど、それで喜んでいるのを知られるのが、なぜだか、とっても悔しい。きっとあの人の思い通りになっていくのが嫌なのね。褒美を与えれば尻尾を振って喜ぶ、なんて思われたくない。それに、いっつも私ばかり不意打ちを食らっている気がするのも、しゃくだわ」
唇をとがらせながらむくれて言うレイナを見て、セルヴィは笑った。そしてテーブルから持ってきたひとつの首飾りを手に取り、そっと、レイナの細い首につけてやった。
「ねえ、だったら、レン」
レイナの胸で、ピジョンブラッドがきらりと光る。
「今度はレンが不意打ちをしてやる番ですよ」
その顔は、これからするいたずらを面白がる色で輝いていた。




