1.はじまりの部屋
レイナは、逃げていた。
うっそうと生い茂る森の中、後方には信じられないほどの数の魔物たち。落ち葉でやわらかくなっている地面は走りにくく、体力はすでに限界に近い。徐々に後ろの魔物たちの気配が近づいてくる。
突如として、森が終わった。強い光の中に飛び出して振り返ると、魔物たちはもういなかった。ほっとして再び前方に目を向けた、その時。乱暴に顎をつかまれ持ち上げられた。指が食い込みのどがひきつる。涙でかすむ視界の先には、不敵に笑う、金髪の男がいた。
「……!」
レイナは一気に覚醒した。そして強い日の光に目を細める。真っ白なシーツと枕の上で、うつ伏せになっていた。今の状況が分からない。
「お目覚めのようですね」
突然声をかけられ、はっとして体を起こそうとした――が、背に走った激痛に息を詰まらせ、再びベッドに沈みこむ。
「主が止血をしましたが、とても動けるような傷ではありません。どうかそのままで」
聞き覚えのない声だった。落ち着いた物言いだが、声自体はずいぶん幼いように思われる。
レイナはうつぶせのまま、首をめぐらせた。と、痛みも忘れはじかれたように上半身を起こした。壁を背に、声の主を愕然と見つめる。
「魔物……」
振り返った少年は、12,3歳に見える人型をとった、美しい魔族だった。レイナはとっさにわずかな力をかき集め、手の上に白いそれを集めた。少年はただそんなレイナを見つめるだけ。なぜ、と思った時、レイナの周りの空気が一気に鉛のように重くなり、彼女の体を締め付けた。掌の白い力もしゅんっと音を立てて消えた。頭がぐらりと揺れ、レイナは壁に力なくもたれた。その壁に、彼女の血がこびりつく。
ガチャリ、と扉が開かれた。
「主……」
少年がつぶやき振り返ると、そこには黒髪で長身の青年が立っていた。レイナは再び、死を覚悟した。その青年もまた魔族だったのだ。人型をとれる悪魔はかなり上級に位置する。しかもレイナが感じる限り、青年の力は今まで会ってきたどんな魔物よりも強い。先ほどの鉛のようになった空気は、彼の力によるものだろう。レイナは恐怖した。
「セルヴィ、平気か?」
「はい、主」
青年はセルヴィと呼んだ少年に歩み寄った。その無事を確認すると、今度はくるりと向きを変え、レイナの寝台に近づいてくる。そしてぐったりとした彼女の顎をつかみ上げた。一瞬の既視感のあと、レイナは背と顎に走る痛みにうなった。
「……この使い魔は、俺の所有物だ。これを傷つければ容赦はしない、覚えておけ」
突然解放され寝台にくずおれる。背の傷が再び熱を持ち、ジンジンと襲ってくる痛みにレイナは泣いた。その様子を横目でねめつけ、青年は部屋を出て行った。
「すみません……」
魔族の少年は、自分のせいでもないのにレイナに謝った。そして、なにやら小さな壺を持って近づいてくる。レイナは顔を強張らせた。
「安心してください、これは薬です。傷が開いてしまったようだから、しみるかもしれないけど……」
(薬……そういえば、さっきも止血がどうとか言ってた……?)
その時になって、レイナは初めて自分が半身裸であることに気付いた。小さく悲鳴をあげて縮こまる。少年は、わずかに頬を赤らめていた。
「治療のため、主が……。ごめんなさい」
そう言うと、少年はベッドの足もとに寄っていた薄い掛け布団を、うつぶせのレイナの腰のあたりまでかけてやった。
「あ、ありがとう……」
レイナが恐る恐る礼を言うと、少年は嬉しそうにほほ笑んだ。
「ぼくはセルヴィといいます。さっきの人はぼくの主で、ヴァスカ様です」
「……わたしは、レイナ」
魔物に礼を言って、名乗るなんて、なんて変な気分だろう。でも、この小さな少年魔族からはまがまがしい気配は感じられなかった。レイナが複雑な気持ちに戸惑っていると、少年はやっぱりほほ笑むので、レイナは彼を憎みきることができなかった。
「レイナ様、では楽にしてください。薬を塗ります。痛くて熱が出るかもしれないけど、これが一番効くので……我慢してください」
その言葉の直後、予想をはるかに超えた激痛に、レイナは再び、意識を失った。




