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18.書庫での一件

 セルヴィに教えられたとおりに行くと、そこはまだ入ったことのなかった東の塔だった。昔から、塔には悪魔や魔女、偏愛されたり気の狂ったりした女が閉じ込められると言われるので、自分からは近づきにくかったのだ。

 しかし自他共に認める本の虫だったレイナは、図書室と聞いてじっとしてはいられなかった。もう随分長いこと本など読んでいない。悩んだ末に、やはり期待が勝ってレイナは扉を開けた。

 途端、紙とインクのにおいの空気に包まれた。

「すごい!」

 レイナは歓喜で飛び上がらんばかりに叫んだ。

 塔は思ったよりも広く、窓から光が差し込んでいる。壁をぐるりと覆うのは背の高い書架で、上のほうは梯子を使わなければいけないほどだ。塔の形に合わせてゆるく同心円を描きながら置かれる本棚は、そのまま柱の役目も果たしているらしく、天井とくっついていた。壁に沿って取り付けられた階段の下にもびっしりと本が詰まっていた。

「こんなにたくさん、本があるなんて……」

 王城の図書館はその蔵書数において国一と言っていいが、ここも負けてはいないようだ。しかもその多くが見るからに古い。背表紙がぼろぼろだったり、羊皮紙が変色して膨らんでいるものもある。驚いたことに、レイナの知らない言語で書かれた本も並んでいた。

 製本されたものだけでなく、パピルスや粘土板、動物の骨、竹、木などに字が刻まれているものもあった。それらが置いてある一角は、図書室というよりも博物館といった感じだ。

 本は高価だ。字が読める人は限られているし、製作には手間がかかる。それを集めるとなると、ちょっとお金を持っている道楽くらいではとても無理だ。それに、こんなに古い本、王城の老師たちが知ったらよだれを垂らして欲しがるに違いない。きっと大の本好きであったレイナの父も、同じように目を輝かせて一日中でもこの部屋にこもっていられるだろう。

(それは、私も同じね……)

 レイナは、ふと、遠い日を見るようにして、寂しげに目を細めた。綺麗に並んだ背表紙をなでる。この場所を知ったからには、この先、疲れるような閑暇を持て余すこともしないで済む。下手したらこの屋敷を去るのが惜しくなりそうだ。いつか気持ちに区切りがつき機会が巡ってきてここを後にする日までに、できるだけ多くの書物を読もうと、密かに心に決めた。

 階段を上っていくと、そこは再び本棚の林になっていて、全部で三階まであった。どの階も窓があり、分厚い石の壁の分でできた場所は、腰かけて本を読むのにちょうど良かった。そのスペースに入って膝を曲げて横向きに座るのも落ち着く。夏になったら日差しがまぶしくて目にも本にもよくないかもしれないが、初夏にはまだ少し早い今の時期ぐらいは、ちょうどよく光がやわらかだ。

 レイナは二階の本棚をぐるりと見まわし、目星をつけた本を抱えてそこにすっぽり収まった。見た事のない言語の流れるような文字を、絵を見るような気分で眺めた。余白に書かれた装飾も繊細で芸術的だ。あまりの細かさに、じっと見つめているとめまいがしそうだった。

 内容が分からなくても、たっぷり時間をかけてその本を楽しむと、レイナはそれを元の場所に戻した。

 次の本を探していると、階下で物音がした。

 セルヴィが呼びに来たのかと思い、階段に近づこうとして――レイナはぱっと身を翻した。階段を踏みしめる音が、セルヴィにしては重々しかった。残る人物は一人しかいない。

 レイナは気配を消して、本棚の陰に隠れた。彼が離れたらすぐに下に降りて、この塔を出なくては。

 ヴァスカはゆっくりとした足取りで二階を通り過ぎ、三階へと上って行った。天井に足音が響くのを聞いて、レイナは忍び足で階段をおり、扉に向かった。

 ――突然だった。

 扉まで数メートルというところで、背後に人の気配が湧いて出た。正確には魔の気配、だったが。

 ぎょっとして振り返れば、そこに立っていたのはヴァスカで。レイナは硬直してしまった。

「お前は、自分の傷のことを忘れている」

 そう言われ、レイナは目を瞬いた。彼が何を言いたいのか分からなかった。

「気配を殺したところで、その傷から漂う匂いは、お前の居場所を知らせる」

 そこでようやく理解した。

 レイナは怪我人だった。セルヴィの治療のおかげで、あんな深手だったというのに、今では常にかさぶたが覆い、出血することはほとんどなかった。痛みもあまりなく、激しい運動をしない限り傷のことを忘れるほどに回復していた。それに完全なかさぶたができれば、血は匂わないと思っていたのだ。

「じゃあ、もしかして今朝も、気付いていたの……?」

「血の匂いがなくとも、俺は気配に対しては鋭敏だ」

 つまり、気付いていたということか。

 自分の部屋の場所を知られるくらいどうってことないのだろう、この青年にしてみれば。なんだか悔しかった。

「そう……。なら、逃げだすのが分からないように、もっと気配の消し方をうまくしなくてはね」

 空気がピリッと緊張した。

「……相変わらずの気の強さだな」

「それはどうも」

 お互いに冷たく睨みあった。しかし、ふと、ヴァスカが視線を横の本棚に移した。つられてレイナもそちらを見る。

 ――途端。

「だが、それだけでは俺に勝てまい」

 驚いて飛び退いた。声は背後からした。

 レイナは呆然と、扉の前に立つヴァスカを見ていた。

「身体能力の差は歴然。お前のかすかな希望は、かろうじて俺を苦しめることのできる、その〈白き力〉のみだ」

 レイナは脱兎のごとく駆け出した。部屋の奥へ。身を隠さなければ――!

 肘に痛みが走った。同時に体が後ろに引っ張られる。そのまま背を書架に叩きつけられた。

「うっ……!」

 本がかさぶたを割った。声が詰まる。首に大きな手が絡みつき、ぐっと圧迫される。だんだん眉間のあたりが重くなってきて、心臓が口の中にあるように思えるほど脈を感じた。肺が痛い。

 ヴァスカの目が怪しく光っている。血の匂いに酔っているのか、手に伝わる脈に魅せられているのか。彼は残った右手でレイナの左肩を軽く払った。シルクの夜着は滑らかに彼女の肌をすべり、あっけなくもその白い肌が露わになった。

 途端、怒りで朦朧とした意識が戻って、レイナはとっさに彼の腕を掴んだ。両手が熱くなる。白い力がはじけた。ヴァスカの眉が歪み、唇から小さなうめき声が漏れた。会心の笑みを浮かべたレイナだったが、その直後、その表情は凍った。ヴァスカの、見開かれた目。

 紫が、燃えた。

「っあ――!」

 肩が焼ける!

 ヴァスカがレイナの左肩の傷に親指をめり込ませていた。いつかの夜、魔物に貫かれた傷だ。息が詰まって悲鳴も出ない。

「図に乗るなよ――」

 凄絶な笑みを浮かべ、ヴァスカは呟いた。

「お前は、俺の、足元にも及ばない」

 痛みに喘ぐレイナを楽しむように、ヴァスカはゆっくりと親指を引き抜いた。すでに治りかけていたのだから、肉はある程度くっつき合っていたはずだが、ヴァスカの親指はそれを無理にこじ開けたのだ。

 血に濡れた指をそのままに、ヴァスカは顔をレイナの首に近づけた。あまりの激痛にレイナは目の焦点が合わない。抵抗する意志はもはや全くなかった。

 ヴァスカは唇を押しつけて頸動脈の位置を確かめると、歯を立てた。小さな穴から宝石の粒のような血があふれ、首筋から鎖骨へ伝うそれを舐めとった。舌の上に広がる芳香に、渇きが激しくなる。わずかな理性が警鐘を鳴らす。――この娘を、殺してはいけない。だがしかしヴァスカは耐えきれず、彼女の細い首に強く吸いついた。

 レイナは再び息を詰まらせた。腰から背中へ震えが走り、頭の芯がしびれて、鼓動が強く早くなる。下腹部に重いうずきが広がり、溶けていくような気さえした。膝ががくりと力を失くし倒れそうになったのを、ヴァスカが支える。何も考えられなくなって、ただ、目の前の広い胸にすがりつくことしかできなかった。声が漏れた。自分でも聞いたことのない声だった。こくり、こくりとヴァスカの喉が鳴るのを遠い出来事のように聞く。

 さーっと目の前が白くなっていき、レイナは、自分で立つことを完全に諦めた。

 腕にかかる体重が増したのにはっとして、ヴァスカは顔を離した。レイナは白い顔に頬だけを赤く染め、目をつぶっていた。だらりと垂らした腕を肩から流れた血が伝っている。それを見てようやく、自分が我を忘れてレイナにかぶりついているのに気付いたヴァスカだった。危うく貴重な糧を喰いつくすところだった、と重く息をついた。

 ゆっくりと膝を折り、彼女をその場に座らせた。震えながら開かれた瞼から、濡れたミントグリーンがヴァスカを見返す。レイナは忘れているようだが、夜着の胸元ははだけたままだ。気だるげに首を傾け、激しくなった呼吸を整えている。その艶のある姿に、ヴァスカの体が再び熱を持った。思わずレイナの肩を掴む手に力が入った。途端、レイナが顔をしかめた。左肩の傷が痛んだのだろう。ゆっくりと右手を離すと、その下から赤黒い円い傷口が顔をのぞかせた。

 ヴァスカは、訳も分からず痛む胸に苛立ち、舌打ちした。

 自分でこじ開けたその傷に再び手をかざし、集中する。体の力が滑るように抜けていき、代わりに、レイナの傷が淡く光ってふさがっていった。レイナは驚いてこちらを見ていたが、ヴァスカはその目を見られず、視線をそらした。

 ふと、彼女の首が目に入る。

 二つの小さな穴は渇いた血でふさがっていた。その周りの皮膚は赤紫に鬱血している。

 それを見て、ヴァスカの苛立ちは少し鎮まった。なぜか胸がすっきりとして、暗い喜びがあふれる。

「なぜ……治すの?」

 そんなヴァスカの心の内を知らないレイナが、困惑しながら疑わしげに尋ねてきた。

「不服か?」

 尋ね返してやれば、彼女はぐっと言葉に詰まった。

 レイナの肩の傷がすっかり癒えて傷跡すら分からなくなると、ヴァスカはすっと立ち上がり、何事もなかったように彼女に背を向けた。自分の行動の矛盾についてはあまり考えないようにした。己の真意が分かってしまったら、何かが壊れてゆく気がした。

「――あ、ありがとう……」

 しかし突然の感謝にヴァスカは思わず立ち止まってしまった。振り返れば、そこには不服そうに眉をひそめながらもじっとヴァスカを見つめる目があった。少し愉快な気分になって、フンと鼻を鳴らす。

「お前の血を失うのは俺としても惜しい。希少な糧をみすみす手放す気もないんでな」

 すると、レイナは怒りのため顔を真っ赤にして、目を吊り上げた。ヴァスカはそれ以上彼女を相手にする気もなく、さっさと図書室をあとにした。

 一人取り残されて、ヴァスカが出ていった扉をしばし見つめてから、ふと、レイナは自分を見下ろした。露わになった胸に気付いてカッと顔が熱を持つ。腹立たしくて乱暴に夜着の前をかき合わせた。その衝撃で痛んだのは肩でなく、背中だった。

 傷があった肩をなでれば、そこにはもとのように滑らかな肌が戻り、傷跡は一切残っていない。自然な治癒力ではありえない、治したというよりは何もなかったことにしたという感じだ。

 彼の行動は、いつだって不可解極まりない。

 わざわざ治癒するくらいなら、はじめっから傷を悪化させるようなことをしなければいい。そうすればレイナは痛い思いをしないで済むし、彼だって無駄な魔力を使わないでよかったのだから。

 そもそも、なぜ彼が、レイナの傷を治したのかも分からない。

(――そういえば、あの夜も、そうだった……)

 レイナが悪夢から目覚め、ちょうどやってきたヴァスカは、血の代わりにレイナの体内に残った魔力を吸いとってくれた。もとは自分がレイナを攻撃した、その魔力を、だ。体はとても楽になったけど、ますますヴァスカのことが分からなくなる。

 レイナは額に手を当てて、頭を振った。

(私ったら、本当にばか……なにもあの人のことを分かろうとしなくたっていいのに。何をそんなに気にしているのよ?)

 そして、この屋敷に来る前にはいつも思いをはせていた愛しい人の色が、自分の中で薄れているのに気付いて、レイナは愕然とした。どんな時も家族と一緒にその身を案じてきた、かの人。

(ジェフリー様……)

 目をつぶって思い返せば、記憶の中の彼はやさしく微笑み返してくれる。しかし罪悪感に刺された胸の直後によぎったのは、あのハープシコードの扉の前で苦悩している、黒い青年――ヴァスカの、横顔、だった。



他の話に比べ異様に長くなりました;


さて、やっとレイナの“愛しい人”の名前が出せました。

彼女の陰に潜む男は、残り一人。…ちゃんと話に絡ませられるか不安です(苦笑)

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