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16.小さな貴婦人

 後日、日を改めてレイナは屋敷の散歩に繰り出した。

 魔力を取り除いてくれた夜から、ヴァスカとは直接的な接触がない。彼は日に三度の食事のときも食堂に来なくなっていた。避けられているのは明白だ。もっとも、一度は血を捧げる覚悟はしたものの、その覚悟が空振りに終わり日が経った今、吸血されないで済むならそのほうがいいという思考に戻ったレイナには好都合だった。

 記憶をたどって、例の部屋の前に着いた。

 念のためにもう一度、物音がしないか、何かの気配がないか確認したが感じる限り中は無人らしく、結界などが張ってある様子もなかった。コンコン、とノックをしてみる。心臓がたっぷり十回打つまで待ったが何も起こらなかった。

 深呼吸をして、レイナはそっと扉を押した。

 中は暗かった。

 窓には厚手のカーテンがかかっているらしく、その隙間から漏れて入る日の光で完全な闇ではないが、レイナは足元に気をつけながら窓に近づいてカーテンを開けた。

 ほこりが、まるで雪のように輝いて降っていた。その量は並みでない。この部屋は、おそらく、もう何年も使われていないのだろう。

 口元を手で覆いながらぐるりと見渡した時、レイナははっと息を呑んだ。

「なんて、美しい……」

 きらめくほこりの中、端座するハープシコード。それはまるで小さく気高い貴婦人のように、静かにたたずんでいた。

 よろよろと近づけば、繊細で優美な装飾に目を奪われた。つと指を滑らせると、ここにもたっぷりとほこりがかかっていた。

(もったいないわ。こんなにも美しいのに、誰にも弾いてもらえないのね……)

 そっとふたを持ち上げ、黒い鍵盤を軽く叩いた。

 途端、ビィンと響いた音に、レイナは再び衝撃を受けた。こんなにほこりをかぶって、誰にも手入れされてないだろうに、その音は全く狂っていなかった。たった今調律が終わったばかりのような正確さだ。ハープシコードの音は変わりやすい。弾けば弾くだけ音がずれるのと同様に、弾かないままにしておくのも楽器のためにはよくない、はずなのに。ポロポロと指を滑らせれば、レイナの中にある音程に吸いつくような綺麗な音色が出る。

「どうなってるの? こんなことって……」

 指を震わす小さな振動にレイナはうずうずしてきた。楽器と同じ装飾の椅子に腰かけて、両手を行儀よく鍵盤の上に置いた。瞼を閉じて、息を吸って吐いて、またぱっちりと目を開く。

 あふれ出る音楽を、奏でた。

「ふふ……指が動かなくなってる」

 以前なら難なくこなしていたトリルがぎこちなかった。離れた鍵盤に跳べば隣の音も一緒に弾いた。

 それでも無心で指を動かした。一番のお気に入り。かつて自分で作った曲だった。最後に家を出た日も、弾いたのを覚えている。

 フーガの提示部が終わり、嬉遊部に入った時だった。

 大きな音がした。レイナはビクッと跳ね上がった。手は宙で止まり、当然音も止んだ。

 扉を向けば、そこには恐ろしい形相で立っている青年がいて。

「お前……」

 レイナは我に返った。ここがどこで、自分が何をしたのか。

 久々に見た気がするヴァスカは、なんだか以前より顔色が悪く見えた。そのせいか、にらまれるとすごい迫力で、レイナは声も出せずに固まった。

 パタパタと足音がして、青年の後ろからセルヴィがひょっこりと顔を出した。

「やっぱり、レンでしたか」

 ヴァスカとは対照的に、セルヴィは優しく笑っていた。

 やっぱり、と言ったということは、セルヴィにも音が聞こえたということだろうか。ハープシコードの音は、そんなに大きくないはずだが……。

「ご、ごめんなさい、勝手に。懐かしくて、つい……」

 恐怖と恥ずかしさとで、レイナは大慌てで部屋を後にした。扉でヴァスカとすれ違う時、何かされるかと思ったが何もなかった。セルヴィが名を呼んでいたけど、それに返事はできなかった。



 ヴァスカは、音が聞こえた時、まさにその部屋に向かっているところだった。

 かすかな音色をはじめは気にしなかった。ここのハープシコードは今や弾き手がいないのだ。まさか勝手に鳴りだすことはあるまい、と。

 ――なのに耳に馴染むその音は空耳でもなんでもなく。ただ、曲だけが聞いたことのないものだった。

 驚きと同時に怒りが沸き起こって、ヴァスカは思い切り扉を開けた。

 穏やかで明るい表情が目に飛び込んできた瞬間、なぜか「しまった」と思った。レイナがはっと我に返ってヴァスカを見た。自分はそうとう怖い顔をしているらしく、レイナの目がみるみるうちに暗く沈んでいく。

「お前……」

 少し痩せたな、と思った。

 もともとけっして太くはなかったが、ますます細く、全体的にほっそりして、なんとも儚げに見えた。

 その理由は明白だ。なにせヴァスカの魔力を受けた結果なのだから。夜、苦しげにうなされる姿に不思議にも罪悪感を覚えて、食事・・に出かけた二度とも血の代わりに己の魔力を吸いとって帰ってきた。特に二度目は、思い出すだけでも自分を呪いたくなるようなことをしてしまった。

 セルヴィもやってきて、レイナは逃げるように去っていった。

 横を通り過ぎた時、風に乗ったかすかな香りに喉が鳴った。最後に彼女の血を味わったのはいつだったか? もうだいぶ前のことに感じる。彼女は今やヴァスカのものだから、何もためらうことなどないはずなのに……。

「主」

 セルヴィが気遣わしげにヴァスカを見上げていた。その微笑には困ったような、懐かしむような、淡い哀愁が漂っていた。

「あの女は……何者だ? ハープシコードを懐かしい、と言った」

 この楽器は高価だ。並みの家庭ではとてもとても手が出せない。なのにレイナは懐かしがり、弾いていた。ヴァスカの知らない曲だが、それは弾き方を知っている音だった。

「詳しいことは何も。ただ、食事のマナーや物腰、言葉づかいなどを見ても、貴族でしょう。ハープシコードを持っていたとなると、それなりに名のある家になりますね」

「あのプライドの高さを見ると、貴族どころか王族だとか言いだしそうだ」

 その言葉を、セルヴィは否定しなかった。

「字は?」

「どうでしょう、確かめる機会もありませんでした」

「……、そうか」

 ヴァスカはハープシコードに近づいて、鍵盤を叩いた。澄んだ音が響く。

「その魔法……解けてないんですね」

 ああ、と適当に相槌を打って、体に染みついているある曲の冒頭を片手だけ弾く。やがて手を止め、ぼんやりつぶやいた。

「これの音を聞くのは、二十年ぶりだ……」

「二十一年ぶりです」

 すかさず訂正したセルヴィをヴァスカは横目でちらりと見て、ハープシコードのふたを下ろした。それから部屋を封印するような気持ちで開いたカーテンをきっちりと閉めた。とたんに部屋は真っ暗になる。二人とも部屋を出て、パタンと扉を閉めた。

「どうして結界をかけなかったんですか」

「この部屋には、何も、したくなかった」

「……」

「それとも、お前は変化を望むか?」

「いいえ、ヴァスカ様」

 だろうな、とヴァスカは軽く頷いた。そしてすぐに背を向け歩き出す。

「でも、主」

 一人歩き出したその背中があまりに寂しそうで、セルヴィは思わず声をかけていた。

「――あなたが変化を望むなら、ぼくも、同じ思いです」

 主人は足を止めちらりと顔を向けた。それだけでもセルヴィには十分だった。

 弱々しかったが、ヴァスカは歯を見せて笑っていた。


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