14.苦しんで
レイナはしばらく床から離れられずにいた。全身がだるくて、時々とてつもない眠気に襲われるのだ。眠ると悪夢にうなされて、目が覚めると全身が痛み、心臓は頭に響くほど脈打つ。セルヴィが運んでくれる食事も思うように喉を通らなかった。体内に残っている魔の力を追い出そうと、レイナの〈白い力〉が抵抗してこういった症状が出ているのだろうと、セルヴィが説明してくれた。もうしばらくすれば二つの力は相殺して自然消滅し、レイナも元のように元気になるはずだ、と。
セルヴィとは、レイナが弟のことを話したからか今までより少し踏み入った話をした。
セルヴィ曰く、あの結界は、ヴァスカ自身を守るためでもあるがセルヴィを守るためのものでもある、ということだ。詳らかにはしなかったが、セルヴィは命の危険をヴァスカに助けられ、絶対の忠誠を誓ったらしい。そのときセルヴィの命を狙った者から守るため、そしてその者を滅ぼすため、ヴァスカはこの屋敷に隠れ住み膨大な魔力の消費もいとわず結界を張っているんだとか。
そうだとすれば、あの結界を破ろうとしたレイナは意図していなかったとはいえセルヴィを危険にさらそうとしていたことになる。だからヴァスカはあんなにも怒りに狂ったのか、と妙に納得した。しかし同時に、あのとき対峙した瞳を思い出すと、レイナの直感がどうも間違っているようにも感じるのだ。ヴァスカはセルヴィを大切にしていると思ったが、彼が放った魔の力はあまりにも大きすぎて、下手したらセルヴィも傷つけていたに違いないほど強力だった。
それとも彼は、レイナがまっさきにセルヴィを守るだろうことまで把握していたのだろうか。セルヴィといるところを、そんなに頻繁に彼に見られた覚えはないのだが……。
(だとしたら、やっぱりセルヴィね。きっと主に報告を義務付けられてるんだわ)
それぐらい当たり前、と割り切らなければならないのに、悔しいほど胸が痛んだ。あくまでもセルヴィはヴァスカの僕なのだ。主の前には、レイナとの関係など二の次でしかない。
悲しさに喉をきゅうと締め付けられた。
なぜかセルヴィを“魔”のくくりにはできなかった。彼はあまりにも人に近すぎる。でも、ヴァスカにも違和を感じた。彼には完全なる魔だと断言できない何かがあった。流れる力は魔であっても、その器はどちらかというとレイナに近いものに感じる。
(あんな強大な魔力を操るのだから、人の体じゃ耐えられないはずだもの、私の勘違いよね……)
やがていつもの倦怠感と眠気が押し寄せてきて、考える気力が一気に低下し、レイナは夢の世界に飲み込まれた。待っていたのは、何度となく繰り返された、悲劇の悪夢だった。
どれくらい時間が経ったのか、レイナは自分の呻き声で目を覚ました。うつ伏せで寝ていたはずだが、やはり夢見が悪くのたうったらしく、今は仰向けになっていた。背の傷が開いてはいけないと思い体をひねろうとして、やめた。全身が痛い。特に背の傷と貫かれた左肩の傷が焼けるように熱かった。
これは戒めだ、と思った。
傷つけないと誓ったセルヴィを危険にさらそうとしたレイナに下された罰。勝手に利用して、勝手に好きになって、勝手に約束をしたセルヴィを傷つけようとしたことを、突然恥じた。自分の身勝手さに打ちのめされたのだった。どうやって償えばいいか、と考えたとき、とっさに思い浮かんだのはヴァスカに自分の血を捧げることだった。セルヴィを守るためにはヴァスカの力が必要なのだ。彼はレイナのせいで魔力を消費した。それはセルヴィへの危険と曲がりなりにもつながる。
(悔しい……)
そっと瞼を下ろすと、目じりから一筋の涙がこぼれた。
(魔に、あの人に屈するのか、この私が……一度ならず、二度も、永遠に、我が血を捧げよと!)
拭いもせずにほうっておいた涙が冷えて渇き始めたころ、部屋の扉が遠慮がちに開かれた。一瞬セルヴィかと思ったがその期待はすぐに打ち消す。感じたのは、明らかな魔の気配だった。
いつもの緩慢な動きでヴァスカがゆっくりとベッドに近づいてきた。レイナは少しためらったが狸寝入りを決め込むことにした。せめてもの償いで、一度だけ、血を捧げることを決意したのだ。でも素直に「悪いことをしました、お詫びに血をあげます」とはとても言えないので、寝ていて気付かなかった、という姿勢を貫こうと思ったのだ。
ヴァスカの足音が止まった。しばらくじっと動かない。レイナは逃げ出したくなるのを必死に我慢して、全身の力を抜いた。
かすかな衣擦れの音がして、レイナの頬に何かが触れた。跳ね上がりそうになった体をかろうじて抑えた。
これは手だ。冷たい、ヴァスカの手。
親指がレイナの目尻を軽くこすった。その触れ方があまりにやさしいので、レイナは戸惑う。そしてずっと幼い日に、母にそうしてもらった記憶がフラッシュバックして胸が詰まり、閉じた瞼から涙が溢れた。その瞬間ヴァスカの手がバッと離れた。
再び、何もない沈黙が落ちた。
レイナは不思議なくらい穏やかな気持ちで横たわっていた。その胸に、そっと、ヴァスカの手が置かれた。大きな手で程よい圧迫感がある。
ああ、血を吸われるのか。
そう思った時、突然彼の手の置いてある胸がほっとほころんだ。同時に全身の痛みがすうっと消えていく。体がなくなったのではと思うほどに軽くなった。びっくりして思わず目を開けると、これまた驚いて目を見張ったヴァスカと視線がぶつかった。彼はすぐにばつが悪そうに顔をしかめ、くるりと背を向けて部屋を出ていってしまった。
たっぷり間が空いてからレイナは体を起して、震える手を胸に押し当てた。
(血を吸わないどころか、私から魔の力を取り除いた……?)
悪夢から目覚めたときの心臓はいつも早鐘だが、今の暴れ方は、それとは違う気がした。
彼に触れられた頬を両手で包むと、びっくりするくらいの熱を持っていた。
(男の人に、こんな風に触れられるの……はじめて、だわ)
頬の上を滑る、冷たい手。その感触がまだ残っている。背筋にぞくっと何かが走り、レイナは首まで真っ赤になった。血を吸われたわけではないのに、脈は速く胸のあたりがざわざわした。
(冷血な人なのに、どうして、こんなにやさしい触れ方を……)
レイナの口から漏れ出るため息も、熱を持って湿っていた。




