12.逃亡計画
森に入った日からさらに数日が経ったが、レイナのもとにヴァスカが来ることはなかった。ほっとする反面、そんなに頻繁に必要じゃないのなら、なぜあの日湯殿に来てまで血を得ていったのかと腹が立った。
そして、レイナは一つ、心に決めていた。
もう一度あの屈辱的な行為を強いられる前にこの屋敷を出よう、と。
体力は万全ではないが、魔物の一匹二匹くらいならなんとか追い返せるくらいの力は戻っているはずだ。だったら、もうこの屋敷にいる必要はない。
これ以上セルヴィを好きになってしまう前に……とも、考えていた。毎日を過ごすごとに、レイナの中でセルヴィの存在が大きくなっていくのだ。それは異性としてではなく、肉親に対する愛と一緒だった。大切な人によく似たセルヴィ。レイナは自分の傷ついた心を癒すことに彼を「利用した」も同然なのだ。初めてまともに会話をした時感じた罪悪感は、これだった。
はじめこそ面影を重ねてはいたが、同時に、セルヴィ自身を知るにつれて申し訳ない気持ちはさらに大きくなった。利用するならとことん使ってやれ、と自棄に思って食事も衣服も治療も甘えてきたが、どうも根っからの悪役になりきることはできなかった。心の痛みが言っている。こんな作戦は自分の人道に反する、と。
(相手は魔族だというのに、どうかしてるわ、私……)
部屋の窓から淡い星を見上げ、レイナは自嘲した。
もうじき決行する。
この屋敷に来て十数日、“夜の住人”たちの行動パターンはだいたい把握した。彼らは毎日ほとんど違わずに起きだし、食事をとり、また床に就く。屋敷の主人が朝の起きだしに一番弱いことも知った。これを使わない手はないだろう。
(そういえば、小さいころ童話で読んだっけ……悪魔は朝日の光が一番嫌いなのよね。実際はそんなことないんだろうけど)
見た目は完全な、しかもかなりの美貌の人間だが、その内にみなぎる力は魔のものだ。それを祓うレイナとは相いれない、対極の力。〈白い力〉が相手にとっての弱点であると同時に、レイナにとっても魔の力は脅威だ。
(どうか……成功しますように)
わずかに色づいてきた東の空に祈りをささげ、レイナは部屋を後にした。ここから先は甘いことは言えない。
非情にならなければいけない。
***
花壇に小さな姿があるのを確認してから、レイナは森に入った。まだあたりは明るいとは言えないが、白い夜着なら暗くても目につくだろう。ふわふわの土を踏みしめながら、結界の傍まで歩いた。密度の濃い空気を感じて足を止めた時、ちょうど後ろから小走りでやってくる足音が聞こえてきた。
「あら、おはよう、セルヴィ」
「おはようございます」
「薬草を摘んでたの?」
「はい。あの……レンは?」
レイナはにっこりと笑って言った。なるべく明るく見えるように。
「なんだか目が覚めてしまって。もう眠れなかったから、この間の草の根をつまみ食いに来たの」
レイナの言葉に、セルヴィもぱっと笑った。
「それだったら、こっちにたくさん生えてるところがありますよ」
そう言ってくるりと背を向けたセルヴィを、一瞬ためらったが、レイナは後ろから抱きとめた。一度きゅっと腕に力を入れて、決心が鈍らないうちに口を開く。
「ごめんね……」
同時にその手に白い力を集めた。体力を使い果たさないように、小さな塊にとどめた。
森に破壊音が響き渡った。
「ごめんね、本当はあなたを巻き込みたくはなかった」
言い訳だ。分かってる。でも今のレイナにこの結界を壊す力はない。現に、今、レイナの放った力は結界に当たったが反発の爆風を起こしただけで壊れた様子はない。
「レン……?」
首をひねってレイナを見上げるセルヴィに、彼女は精一杯ほほ笑みかけた。
「約束するわ、」
あなたは、絶対に、傷つけない。
「――お前、どういうつもりだ?」
予想以上に早かった。でも問題ない。ここから先の憶測がはずれなければいい。少し離れたところに立つ黒ずくめの青年は、レイナを訝しげに見た。
「結界を解いて。そうすれば、この子には何もしない」
セルヴィの首に自分の腕をゆるく巻きつけながら、レイナは青年を睨みつけた。
これはレイナの賭けでもある。レイナの感じる限り、セルヴィの異様なまでの忠誠心には驚かされるが、同じように、青年のセルヴィに対する空気が、何か違った。ただの主従関係にしてはこの主の使い魔を見る瞳には何か異質なものが混じっていた。そう、それはまるで、レイナがセルヴィを見るときのような――。
「そいつを殺せるなら、殺すがいいさ」
しかし青年は動じなかった。
「なっ……あなたにとって、この子は特別なんでしょう!?」
その言葉に、ヴァスカは内心驚いた。
(まさか、なぜ分かる? 俺はそんな素振りは見せていない……)
――が、それを表情に出すほど彼も愚鈍ではない。反撃だ。
「俺には、お前がセルヴィを殺せるとは思えん」
するとレイナはみるみる顔色を悪くした。そうなのだ。レイナには、セルヴィを殺すことなんてできない。傷つけることすらも。この男はそれを知っている。賭けは、負けた。
「レン!」
腕の下でセルヴィが声をあげた。慌てている。はっとしてレイナは顔を上げた。ヴァスカは魔力を集めていた。それも莫大な!
「セルヴィもいるのよ!?」
レイナは混乱して、そんなことを叫んでいた。しかし彼の手の力は膨れるばかり。そして、次の瞬間、彼はその黒い塊を二人に向かって放ったのだ。レイナはとっさにセルヴィを突き飛ばした。自身は転がったセルヴィから慌てて飛び退く。案の定、魔力の塊はレイナを追いかけてきた。レイナは目をつぶった。自分の体を〈白い力〉で包む。少しでも相殺しなくては、死ぬ。
白い力と魔の力が一瞬反発した。しかし前者がすぐに飲み込まれた。
――凄まじい衝撃だった。
体中の骨がきしむ。遠くでセルヴィが叫んでいる、気がした。実際には聞こえない。耳に入るのは魔力の唸りだけだ。レイナの〈白い力〉を差し引いても耐えられるような代物ではない。声にならない叫びをあげた。
「――主、主! ぼく、もう平気です! 主!」
セルヴィの声などヴァスカには届いていなかった。瞳は怒りに燃えている。セルヴィは恐怖した。いつか見た、あの男と同じだ。激憤と憎悪に駆られた青紫。
「レンが死んじゃう……!」
レイナに向かって突き出しているヴァスカの右腕にぶら下がるようにして、セルヴィはすがった。こんなにもレイナに生きてほしいと願う自分自身に驚いていた。ただの、主の糧だった娘。だけど今セルヴィには大切に思える人。おそらくこのかわいそうな人にとっても――。
失わせちゃいけない。もう、二度と。
「やめろ、ヴァスカ!!」
セルヴィが叫んだ。その途端、ヴァスカははっとして少年を見た。その瞳には、純粋な驚きだけが残されていた。セルヴィは慇懃に頭を垂れる。
「御無礼を……」
それだけ言って、レイナに駆け寄った。その背を見るヴァスカの目は、どこか、さびしげでもあった。
この日、レイナの逃亡計画はあえなく失敗に終わったのだった。




