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10.混乱

 ヴァスカは廊下をずんずん進んでいた。部屋に戻り、乱暴に閉めた扉に拳を叩きつける。その衝撃でシャツの袖から水が飛び散った。

(くそっ)

 気分は最悪。自分の行動が分からなかった。

 湯殿に誰かいるのは、入る前から分かった。もちろんそれが誰なのかも。

 喉の嫌な渇きはなかった。甘美な匂いには惹かれるがせっかくの血を絶やすつもりはないから、まずは娘に本調子になってもらうのが先決、だったのに。

 どんな気の迷いか、ヴァスカは湯殿に立ち入り娘の姿を見た。そこには頬を赤く染め、悩ましげに髪に触れる女。そう、それは、女だった。誰かを想う、優しい表情。ヴァスカにはもう二度と誰からも向けられないであろう、失ったもののひとつ。それが自分のものにならないなら、せめて、見ることだけでも許してほしい――。

 はっとこちらを振り返った娘を見て、ヴァスカは惜しい、と思ってしまった。娘の表情は驚きから恐怖へと変わってゆく。途端に、ヴァスカの訳のわからない苛立ちが頭をもたげた。悠然と、彼女を追い詰めるようにして近づく。昨晩の光景と重なる。耐えかねたのか娘が勢いよく立ちあがった――が、突然倒れこんだ。ヴァスカは驚き、とっさにその肘を掴んでいた。

 ヴァスカは娘の姿にしばし見とれた。濡れた金茶の髪の間から見える細く白い項。そこを雫がつ、と流れる。行きつく先は背の赤い傷。香り立つ芳香。ヴァスカもめまいがするような心地だった。普段は生きていることさえ分からない心臓が、どくどくと耳にうるさい。体が熱い。

 ほぼ無意識と言っていい状態で、ヴァスカは娘の鎖骨に吸いついていた。ぷつ、と歯が皮膚を破る音さえ甘い。とろけるような血の味に、しかし、ヴァスカは何かが違う、と気付いた。

(違う、血じゃない。俺がほしいのは、もっと熱い――)

 その正体が脳裏に掠めた瞬間、ヴァスカは娘の体を突き飛ばした。

 まさか。ありえない!

 辛そうにむせながら起き上がる娘の裸体は、確かに、美しい。ヴァスカはその場を逃げるように去り、部屋に舞い戻った。

(いつも、求めるのは女たちだ。俺じゃない)

 ヴァスカは不快でしかなくなったシャツを脱ぎすてた。

 この屋敷から少し行くと、さながら森という海に浮かぶ小島というような農村が三つほど点在している。村は森を恐れお互いほとんど交流がないが、天災や不作が続くと各村の長が集まる。いまだ未開の小さな農村ではそれは「神の怒り」であり、それを鎮めるために森に供物を捧げる。すなわち、生贄の若い女。ヴァスカはそれを頂戴する。村の者たちは生贄が跡形もなく消えるのを神がお連れになったと解釈してくれるのだから、ありがたい。渇きが耐えがたくなれば時々は村にも行くが、娘が消えたと騒がれ、団体意識の強い農村が結束して夜の警備なんかを始めたらたまらない。だから生贄は都合がよい。

 そんな女たちを、今まで、戯れに抱いてやることはあった。吸血行為には快感が伴うのだ。女たちはこれから自分の身が蒸発するまでその血を吸いつくされるとは知らない。初めこそ恐怖していても生理的反応には抗えないのか、恍惚とした表情でヴァスカを見やる。気が向いたら、ヴァスカはそれに答えてやる。それだけだ。そこに感情なんてものはない。

 しかし、あの娘は違う。与えられるものに抵抗する。決して飲みこまれはしないのだ。その耐えるような自身をさいなむような表情は今まで見たことがなかった。またそれがヴァスカの嗜虐心を煽っているとも知らないで。

(俺は、糧を相手に何をしているんだ)

 もう一度扉を強く打ってから、ヴァスカは手を下ろした。ズボンも濡れて、冷えて重くなっている。ただ、体だけは妙に軽かった。言うまでもなく、娘の血によるものだろう。ヴァスカの渇きを煽りも癒しもする甘美な毒。それは美味いが、溺れてはいけないものだ。それになにより、彼女は〈白き力〉を持っている。今でこそその能力を使えないでいるが、全快すればかなりの脅威になるに違いない。ヴァスカに感じられた力の片鱗でもなかなかのものだったからだ。まともにくらえばヴァスカもただでは済まないだろう。

 ヴァスカはふん、と皮肉げに笑みをこぼした。

(どこまでも楽しませてくれる……)

 この自分に対抗できる女は、もしかしたら、唯一あのレイナという娘だけなのかもしれない。

 ヴァスカはそんなことを思って、新しいシャツを羽織った。



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