9.狭間で揺れる
「レン?」
コンコンと扉をノックして、セルヴィは中の様子をうかがった。ちょっとの間、反応はない。
「……セルヴィ?」
「はい。大丈夫ですか?」
意味深な沈黙の後、中からレイナが聞く。
「そこにいるの、あなただけ?」
「え? はい、ぼくだけですけど、」
どうしたんですか、と聞く前に扉が細く開けられた。
「ちょうど良かった、あの、申し訳ないんだけど……背中の手当てをお願いできるかしら?」
その言葉で、セルヴィは自分の失態に気付いた。
レイナの傷はまだ湯に入るには早すぎたのかもしれない。いずれにしろ、薬草湿布と包帯を夜着と一緒に置いておくぐらいの配慮は必要だった。
「すみません、今すぐ道具を取ってきます」
レイナの返事を確認してセルヴィは踵を返した。
レイナがあまりに普通に、かなり痛むはずの傷を感じさせない優雅な動きをするものだから、ときどき怪我人だということを忘れてしまう。
(いや、違う。それは言い訳だ)
実を言うとセルヴィは、ヴァスカのことを考えてレイナを湯殿にやった。
朝食前、レイナと一緒に食堂に入った時、他の者なら見逃してしまうだろうわずかな変化だったが、ヴァスカはぴくりと眉を寄せた。セルヴィには分かった。多分本人も気付いていないだろうが、ヴァスカはレイナとセルヴィが一緒にいることが面白くないのだ。確かに自分はレイナと一緒にいすぎているかもしれない。
そう思って、レイナが厨房でセルヴィの手伝いをするのを断った。今日はギルバードが来る日だ。あとでヴァスカは荷物を持って厨房に寄るだろう。それが分かっていたから、レイナと一緒の所を見られないように、彼女を湯殿に追いやった。そのときのセルヴィは、レイナ自身のことを気づかってはいなかった。
(主に嘘をついちゃった……ちょっと、罪悪感)
念のためギルバードのことなど忘れていた、という素振りを見せておいた。しかしそれも必要のないことだったのかもしれない。ヴァスカは何やら苛立って、困惑している様子だったのだ。セルヴィの反応など目に入っていなかっただろう。
セルヴィの立ち位置は微妙だ。
彼にとって主のヴァスカが絶対なのは不動の事実だが、だからこそ、それを優先しすぎてレイナの反感を買うのは避けたい。レイナに何かあればそれはセルヴィの責任になり、主の機嫌に直結する。ヴァスカのあの執心具合を見ていると、レイナはよほど手放しがたい血を持っているのだろう。レイナが心からヴァスカを認めるなら、それ以上いいことはないのだ。ヴァスカとレイナ、二人の間をゆらゆらとしている。そしてなにより、セルヴィ自身、レイナのことを慕い始めていた。女性と接するのが久々ということもあるが、それだけでなく、レイナは色んな新鮮さを持っている。美しく優雅で、あんなボロ布を纏っていたのに気品がある。とても優しいのに、強い。主にも負けない燃えるような意志を持っている。
そのミントグリーンの瞳は複雑だ。セルヴィを見るときのそれはやさしく、こちらがどぎまぎするほどの慈愛に満ちている。同時に、時々そこによぎるのは果てしない寂寥。傷つき、悩んで、苦しむ色。そうかと思えばヴァスカに対峙する瞳は勇壮で、何者にも屈さない強靭さが見える。それはさながら騎士のような崇高な精神。
不思議なひとだ、とセルヴィは思う。その華奢な体に、一体どんな過去を詰め込んでいるのか。
再び湯殿の扉をたたくと、今度はすぐに開けられた。
「ごめんなさい、そのまま服を着るか迷ったのだけれど……」
そう言うレイナを見て、セルヴィは感嘆のため息をつきそうになった。
湯をくぐっただけのはずなのに、汚れを落としたその姿は、前にも増して輝く美しさだった。白い肌はますます白く、今は湯に浸っていたからかほんのりと赤みを帯びて、湿った金茶の髪は本来の輝きを取り戻しつややかに波打っていた。
しかし、替えの夜着で前を抑える彼女がくるりと背を見せた時、セルヴィはその痛々しさに同情を禁じ得なかった。かさぶたがすっかりふやけて、白い腰に幾筋かの血が流れていた。
(主も頑固な人だ。こんな痛い思いをさせるなら、魔力で治してやったほうがずっといいだろうに……)
セルヴィはすぐに瓶から薬を取り出して、レイナに断ってからそれを塗った。途端、彼女の背は強張り、痛みに耐えているのだろう、胸の前の握り拳がぶるぶると震えていた。セルヴィは泣きそうになった。
「ああ、本当にごめんなさい……レンの傷はまだ治ってないっていうのに、ぼくの気が回らないばっかりに、また痛い思いをさせて」
「いいえ、違うわ、私が悪いの。久しぶりの湯浴みが嬉しくて、つい長風呂をしてしまったから……」
その尻すぼみの言葉に、セルヴィは違和感を覚えた。気付かれないようそっと周りを見渡す。床が変に濡れている。そう言えば、廊下の絨毯も色が変わっていた……?
(主か)
この娘は主の糧であるのだから、否定はしない。しかし湯殿にまで押し掛けるのはどうなんだろう。我が主人ながら、もう少し考えが及ばなかったのかと非難めいた思いが湧く。
「薬草のおかげか傷に染みなくて。いろいろありがとう、セルヴィ」
その言葉に、セルヴィは我に返る。困ったように笑ってみせると、レイナも安心したようだ。ヴァスカとのことを隠せたと判断したのだろう。
セルヴィが思うに、二人の間に、特に何か進展があったわけでも重大事件が起きたわけでもないだろう。主の“食事”を前提として、娘はこの屋敷にいるのだ。どうしてそんなに隠したがるのか分からないが、それが乙女心ってやつなのかもしれない。
(乙女、か……)
なんとなく、主の姿が分かるセルヴィだった。
しっかり者のセルヴィはなんでもお見通し。




