鯨と水面
ざざぁんと波の音がする。
うっすらまぶたを開けると目に入るのは白い世界。
ひんやりとただようのは霧。視界を奪い、立ち止まらせるそれはあまりに濃い白をしていた。
ざざぁん。
また大きなうねりを感じさせる、重くて激しい波の音がする。
また、この夢だ。
私は最近夢を見る。
何度も何度も同じ夢を繰り返している。
決まって濃霧の世界の夢。
どことも知れない海の夢に、私はいつも立ち尽くしてしまう。
ざぷりと波が足にかかり、ここが浜辺だと知る。
何度も何度も夢に見るのにいつも初めて見たような気持ちになる。感覚のみで理論はなく、夢はなんだか理不尽だと思う。
しかし、常々不安にさせてくる夢だ。
そしてとても長い間見ている気がする、
とてもとても不安で、海を目にするたびに心が折れそうになってしまった。
そうしていつものように繰り返し見続けたせいで、初めてでない光景に戸惑う私の耳に長い長い笛なような響いてくる。
耳馴染みの無い音に不安と戸惑いが心を占める。
私は海がない町で育ったのになぜこんな夢を見ているのだろう、と繰り返し思考を巡らせたことをまた考える。
知らない景色に暗い不安が加速する。
いや、不安や恐怖、焦りが前よりも大きく心を占拠する。
不安を誤魔化すように、胸を押さえて私はゆっくりと歩み始める。
ああ、間に合わないかも。
全てが手遅れなのかもしれない。
激しく遠くで打ち付ける波の間から、そんな声が聞こえた。
現実味がないのに、心臓を握られたかのような恐怖があった。
歩くたびにざぷざぷと耳に馴染みの無い音と阻む水の抵抗の重さに不安は膨れ上がり、さらに戸惑う。
ここは、どこ?
問いに答えてもらったことは一度もない。
ただ、少しだけ頭によぎる記憶があった。
ざぱ、と膝までかかる波にいつも足を取られて私は沈んでいく。
意外にも沈んだ先は心地が良すぎて、そのまま微睡むように眠ってしまうのだけど、今日は違った。
膝まで沈みつつも、私は目を閉じることなく立っていた。
やはり足から先は心地よくって、本当はそのまま全身浸かりに行きたい。
「もう終わりにしないと」
私の言葉に応えるように足が押し返された。
またあの音が聞こえる。
泣きたくなる気持ちになる、海の音が聞こえる。
耳馴染みのない、とさっき言ったけど忘れていた。
直向きに調べ続けたあの生き物の事を、なんで私、忘れてしまったんだろう。
あの生き物に憧れて、自分の生きる道を決めたのに。
黒い影が見下ろすように伸びる。
いや、違う。
遅れて響く海面を突き破り大きくさざめく水の音。
潮の香りと巨体が空気を揺らすことで巻き起こる風に水滴が混じる。
黒い巨体はその全てを現さず、さらに飛沫を立てて沈んでゆく。
ざぁ、と顔に水の塊が飛んできた。
こんな浅いところで、飛び跳ねることなんてできないはず。
ああ、やっぱり夢なんだなあ。
望んでもなかなか叶わなかった、憧れとの対面が夢なんて、心境としては複雑だった。
それでも、出会えた喜びに涙が溢れた。
空気を揺らす鳴き声、きっと彼が本物なら何を言っているか分からなかっただろう。
だけど夢ならわかるようだ。
生きたい。
ただ生き物のように純粋すぎる願いをその鳴き声で全力で歌っていた。
私は、ゆっくり歩みを進める。
体は沈むが、眠気はない。
ただ彼を見つけなくては、という気持ちが私の足を動かした。
足が浮いて顔まで水が浸かる。
息はできない。
海はまるで闇そのもののようで、目にかかると何も見えなくなる。
水泳はよくサボっていたけど、潜るだけならなんとかなる。
じんわりと恐怖が胸の奥底から滲む。
けれど私は行かなければいけない、この暗い水底には彼がいるから。
スウと息を吸い込んだ。
潜る決意をした途端、ざぶんと背の高い波が遥か頭上から降ってきた。
目の端に真っ黒な鯨のヒレが、躍動感と共に映った。
衝撃を感じた。
まるで大きな流れに持ち上げられるように、考える間も無く上に引き上げられる。
真っ青な空の上から降り注ぐ真っ白な光が、私を塗りつぶすように包んでいく。
目が覚めた。
だが、先ほど海に潜ろうとして波にさらわれた時と違い体が重い。
鉛のようとはこのことだろう。
頭の先から、足先まで神経がぼんやりしているようで、おまけに動かすと痛みが伴うのだ。
ひどく苦労しながら瞼を開くと光が見えた。
なんの変哲もない、いや私の自宅のものじゃない。ボロいアパートより幾分か上等な白い天井が見える。
匂いも違う。
ぼんやりしながらも周囲の様子から私はそこが病院だと感じた。
そしてそれは正解だった。
すでに私が目覚めたことに気付いて、看護師さんは医師を連れてきていた。
私は死にかけていたらしい。
生死を彷徨ってから5日眠り続けていたという。
大学の合宿中で、海を見に行く途中に船から海に落ちたそうだ。
その時のことを私は全く覚えていない。
不安になって記憶の欠落医師に問いかけるが、老人のような低い掠れた声しか出なかった。慣れているのかあっさりはっきりしない私の発音を聞き取った医師の話では、事故の前後を忘れてしまうは珍しい話ではないそうだ。
珍しくなくても、一瞬でも本当に自分自身のことを名前も含め全て忘れていたことは、本当に恐ろしい経験だった。
しばらくするとポツリポツリと頭が目を覚ましてきたのか記憶の映像が頭の中に浮かんでなんとか名前を思い出して自分が大学生で、過程は思い出せないけど死にかけていた事を受け入れた。
「もう、本当に心配したんだよ!」
同大学の友人と名乗る彼女が涙目でこちらに訴えてくる。
涙目なのは私が彼女の名前を言えなかったせいだ。そして多分、言葉に違わず心配してくれたんだろう。
親しい、人なんだと思う。
今の私にはどうしても、実感がないせいでしっくり来ないのだけども、彼女の瞳が言葉が、全てあたたかなのだ。
きっと彼女はとても優しい人なんだろう、私にとってもしかしたら大切な人なのかもしれない。
そう考えるとなんだか申し訳ないのと、なんだか居た堪れない気持ちになっていた。
まるで全くの他人の取り分をとってしまったような気持ち。まあその他人は記憶の失う前の自分だから、きっと多くの人は共感できずに首をかしげるんだろう。
まるでかつての自分が遥か彼方にいってしまってような、一度死んで生まれ変わってしまったような心もとない感情が今の私を支配している。
それでも、事故前の自分に申し訳なくてもほんの少しだけ彼女に対してあたたかな感情を抱いてしまう。
けどきっとそれくらいなら、許せるはずだ。
一通り、私が思案している間に文句と心配の言葉を浴びせられると彼女は気が済んだようで、微笑んだ。
名前は教えてくれなかった、きっと思い出すでしょってあっさり言われてしまった。
そして彼女はちょっと独特なくぐもった声で笑うと少しだけ力が抜けた様な顔で言葉を紡ぐ。
「でも、あんたらしいよね。描きかけの作品を一晩枕元においたら目が覚めるとか」
作品?
改めて彼女の言う枕元を見たが何もない。
見舞いに来た彼女は私のその様子に心底おかしいというようにくつくつと笑い、私の真上に近い壁を指差した。
私は、体を起こせないまま顎を突き出すようにして真後ろの壁を見た。
あまりにも性急な動き。自分でも何かに突き動かされているようだった。
間抜けな姿勢になっても絵が入っているらしい額縁の端しか見えない。
彼女はまた、さらにくぐもった声で笑うとイスに乗ってその絵を下ろしてくれた。
決して焦れしているという動きではないけど、なんだかとてももどかしかった。
そうして、ガタガタと音がして、それが近づいてくる。
彼女はそっと私の膝の辺りにそれを支えながら乗せてくれた。
青より黒が際立つ海の中。
大きな存在感のある生き物が、輝く水面を目指して泳ぐ、絵。
しかし、主役である生き物の身体はうっすら青く色づくだけで、なんだかとてもアンバランスだった。
鯨以外にも、所々塗り残しがあることから、描きかけだと一目でわかった。
それは鯨だった。
まるで生きていないかのような淡い色彩しか持たない、幻想みたいな鯨だった。
しかしうすらとして居ても、躍動感は感じ取れる。
そのクジラは、光をめざして飛翔しようとしている姿をしていた。
海の中は暗く、夢の中のあの海が唐突に頭をよぎる。
ああ、夢の鯨は、絵がこんな風に未完成だからあんなふうに鳴いたのか。
生まれたいと、一つの作品として、生きていたいとあんなに泣いていたのか。
そうして、私を海へ、そしてその光の先に連れていってくれたのか。
顎から滴り落ちるほど涙を流す私に、彼女はしょうがないなあといって、笑いながらティッシュで顔を拭う。
「元気になったら完成させてね」
優しい彼女の声と一緒に、海鳴りの音と鯨の声が響いた気がした。
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