第1話『女子高生 朝霧綾』-6
綾が自室で目を覚ますと、枕元の時計は午前零時を回ったばかりだった。
日本家屋然とした朝霧家の、二階にある洋室六畳間、そこが綾の『城』である。
遊び盛りの年頃にしては、普段は意外にこざっぱりとした部屋ではあるが、かといって、そこに女らしさが皆無というわけでもない。どちらかといえば大人びた、彼女らしいといえば彼女らしい、そんな部屋だ。
目をこすって半身を起こすと、ベッドの周囲がいつもより少しだけ散らかっていたが、綾は特に気にしなかった。
几帳面な彼女にしては珍しいことだが、学校での嫌な出来事が、就寝前の整理整頓をおろそかにさせたのだろう。
「………あーあ、やっちゃった。思いっきり夜じゃん」
開口一番、綾は失敗を嘆いて額を押さえてしまう。
結局、あの後大輔とはろくに話もしなかった。
そればかりか、保健室に行った日高はいつの間にか早退していたし、英語の小テストはヤマが外れ、岬と一緒に再テストを受ける羽目になるなど、とにかく散々な一日だったのだ。
さらに、話はここで終わらない。帰宅してからも、綾の不幸は続いたのだ。
道場での稽古にも今ひとつ身が入らず、最近では珍しく同席していた祖父に集中力不足を見咎められ、彼女はこっぴどく説教を喰らった。
挙げ句の果てにふて寝をして、このザマである。
稽古の後にシャワーを浴びて、ベッドに潜り込んだまでは覚えていた。ただ彼女は、そこから七時間近く眠りこけていたらしい。
当然、夕食など食べていない。綾がTシャツごしに腹部へ手を当てると、自分でも情けなくなるような空腹感がこみ上げてくるのだった。
ところで、白仙の継承者である朝霧綾は、これまでダイエットとは無縁の人生を送ってきた。
いくら食おうが食うまいが、体型にほとんど変化が起こらないのだ。
となれば、自然に食べたいだけ食べるようになる。普段からよく食べる綾にとって、空腹には我慢が利かない。
それは数少ない、彼女の欠点のひとつだった。
就寝時刻の早い朝霧家では、夜間の騒ぎはなるだけ避けたいところである。
特に台所の隣には祖父の部屋があるので、こんな時間に自ら進んで料理をするような愚は冒すまい、と綾は思った。
こういう時は近くのコンビニに行くにかぎる。かといって、玄関から出ていこうとすれば、築数十年を数えるこの家の床板が、断末魔のような軋みをあげるに決まっている。
仕方なく、彼女はいつものように、二階の窓から特殊部隊のよろしく部屋を抜け出すのだった。
そうと決まれば、早速行動である。
髪をゴムで纏めると、綾はパジャマ代わりにしているスウェットをチノパンに穿き替え、Vネックの七分丈シャツを着る。それから、机の横に置いてある『夜間脱出用』のスポーツシューズを手にとると、彼女はやっと窓を開いた。
「うっわ! さっむ!」
とんでもない冷気が吹き込んでくるのを、綾は思わず窓を閉めてシャットダウンした。
季節は秋口といえども、山間部に位置する蛇穴市の冬は、すぐにやってくる。夜の寒さを舐めてかかったことを後悔してから、綾はとりあえず何か羽織る物を探す事にした。
そしてここで、彼女は奇妙な事に気が付いた。
部屋の中が、妙に散らかり過ぎているのだ。
寝る前にむしゃくしゃして暴れてしまったのか、そういった記憶は曖昧だったが、とにかく服や鞄の中身までが、カーペットの上に散らばっている。
面倒だから帰ってきてから片付けようと、まだ少し眠気の残る頭でプランを立てかけたその時、またしても綾は、“奇妙な物”が壁に掛かっている事に気付いた。
「――、あれ? こんなの、いつ買ったっけ……?」
部屋の壁には、先週買ったお気に入りのブルゾンが掛けてあったはずである。
だが、制服に並んで壁に掛かっていたのは、ブランド物のロングコートだった。
コートはまだ新しく、着込まれた形跡はない。サイズを見る限り、どう考えても彼女の物としか思えないのだが、いかんせん本人に買った記憶がない。
さらに考え込もうとして、彼女はふと、心当たりに行き着いた。
「ああ、父さんか。そういえばこの前、プレゼントがどうとか言ってたっけ」
実は先週、十七回目の誕生日を迎えたばかりの綾である。しかし、父親の幸四郎はちょうどその日、急な出張が入って彼女を祝う事ができなかったのだ。
たしかにその後で、父からプレゼントがどうのメールがあったのを、綾は覚えていた。
ちなみに、現在朝霧家の大黒柱である朝霧幸四郎は、白仙の継承者ではない。
彼は長子であるにもかかわらず、赤髪ではなかったからである。しかし、こういった事例は過去にも何度かあったらしく、綾の祖父も特に気にはしていなかったそうだ。
帰っているなら声ぐらい掛けてくれればいいのにと、一瞬スネかけた綾だったが、ふて寝していた自分が言えた義理でもないかと思い直す。ノックもなしに部屋に侵入した事は、このプレゼントで帳消しにしようと決め、彼女は遠慮なくコートに袖を通した。
「ひゅー、やるね父さん。ピッタリだ。もしかしてこれ、オーダーメイドかな?」
女性にしてはかなり体格の良い方なので、服を選ぶのに何かと不便をしがちな綾である。
彼女は子煩悩が過ぎる父親に、少しばかり心配が湧いたものの、これはこれで素直に嬉しかった。
準備が整ったところで、再び窓を開け放ち、綾はようやく家を抜け出した。
なるだけ音を立てないよう、彼女は屋根伝いに塀へと飛び移り、そこから家の前の道路へ着地する。
我ながら大したものだと、綾はたった今降りてきた、二階の窓を見上げて思う。
小雨の降る夜空には、月も星も出ていない。
閑散とした住宅街の雰囲気も相まって、吹き抜ける風の冷たさが鋭く肌に突き刺さる。
コンビニまでは、歩いて十分ほどである。自転車に乗ればすぐの距離だが、別段急ぐ理由もないので、綾は夜の散歩を続ける事にした。
それにしても、今夜はやけに静かである。
野良猫一匹見つからない。最近近所に引っ越してきたご近所の、飼い犬の夜鳴きもない。
否、それ以前に出歩いている人間の姿がない。不気味なまでの人気のなさだった。
そんな事を考えていた綾の頬に、小雨に混じって大粒の水滴が当たりはじめた。
「うーわ、最悪……」
せっかくお気に召したコートがいきなり濡れてしまうのは、いかにも憂鬱だった。だが、道のりはすでに折り返し地点に差し掛かっていたので、傘を取りに戻るだけ無駄骨である。
仕方なく、綾は本降りの中を強行していった。
明滅する外灯の光は視界を悪化させ、背景にある暗闇を一枚絵のように縁取っている。彼女が足元の水溜まりを蹴散らして走っていくと、ほどなくして最後の曲がり角が見えてきた。
「はー、ようやくゴール……」
濡れそぼった赤髪を掻き上げようとした綾は、その時――、
暗闇の中に、何か、“光るもの”が、見えた、気がした。
聞こえたのは、――ざきん、という音。
とっさに体が反応したのは、普段の稽古の成果などではない。完全な偶然にすぎなかった。
瞬時にステップバックした綾は、一瞬前まで己がいた地面に突き立つ『異物』を見た。
「ちょっ、か、刀っっ!? な、何よこれ、なんでいきなりこんな物が飛んでくるわけ?!」
アスファルトに突き刺さって鈍い光を放つのは、拵えも立派な、抜き身の日本刀だった。
禍々しい乱れ刃紋に、雨粒が這っている。長さは二尺九寸以上、綾は知る由もなかったが、それは野太刀に分類されるものだった。
心臓が恐ろしい早さで鼓動するのを、綾は自覚した。
こんな時代錯誤な武器を使うのはもちろんのこと、これほど重量のある物をあのような勢いで投擲するなど、およそ正気の沙汰ではない。まして人間に投げるなど、もってのほかだ。
もし、あのまま棒立ちを続けていたら、間違いなく朝霧綾の胴体は串刺しだったろう。
そこでようやく、外気の寒さとは無関係に、綾の全身から冷や汗が吹き出した。心臓はフルポンピングしているのに、体中から熱が抜けていく。
それでも、彼女は気づいた。
刀が飛来した闇の先に、何かがいる。
外灯はずれの暗がりから、真夜中の襲撃者は音もなく現れた。
「――ハズレかよ。さすがに黙って殺られちゃくれねえか、朝霧」
聞き覚えがあり過ぎるその声に、綾は思わず自分の耳を疑った。
「あいかわらず、フザけた頭をしてやがる。髪型を変える前に、色の方をなんとかしやがれ」
全身が黒く見えるので、着ているのは学生服だろう。
長身痩躯に細面。まともな女なら、まず一度は振り向いてしまおうか、という優男である。
ただしその眼には、『彼』が試合の時にしか見せない、本物の殺気があった。
「な、何考えてんのよ! あんた……ッッ?!」
新たな刀を構え直す襲撃者は、まぎれもなく綾の友人、叶大輔の顔をしていた。
第一話 終
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