第1話『女子高生 朝霧綾』-5
日高颯太が二年一組に転入してきた翌日。
九条学院では、進路相談の目安となる秋の実力テストが迫っていた。
新しいもの好きなクラスメイト達の興味は、すでに日高から失せている。気の大人しい彼にしてみれば、日常が戻ってきただけの話だったのかもしれないが、クラス委員を務める西井香織だけは、いまだ遊び道具を手に入れた子供のようにはしゃいでいた。
「ねえねえ日高君、前の学校で部活とか入ってた?」
「ううん。僕、生徒会に入ってたから……」
「へぇ、私と一緒! 私、クラス委員と生徒会をかけ持ちしてるんだー。日高君も遊びにきなよ、会議以外の日は、だいたいみんな遊んでるからさー」
「う、うん。そうだね。また今度……」
やや呆れ顔の日高に構わず、香織は矢次ざまに質問を浴びせていく。
昨日から、ずっここの調子なのだ。そこから三歩、後ろに距離を取った場所で、綾と岬が苦笑いを付き合わせているのだった。
「……ありゃゼッタイ日高に気があるね。どう思う、朝霧?」
「はは……。別にいいんじゃない? 楽しそうじゃん。……香織は」
HR開始まではまだ五分ある。だが、いつも神崎がやってくるタイミングを考えると、およそあと十分以上は、日高は香織の質問攻めに遭うはずだった。
火曜日の今日は、クラスメイト達にも連休明けの月曜ほど、憂鬱さは感じられない。
綾に言わせれば、大輔が朝練でこの場にいない事が一番の喜びである。しかし、別段彼が嫌悪の対象というわけではない。セクハラさえなければ、大輔はあれで良い奴なのである。
「それにしてもやけに遅いね、叶のヤツ。まさか女子更衣室でも覗いてんじゃ……」
「いや、それはないんじゃない? あいつ、そういうところはしっかりしてるし」
「それってさぁ、やっぱ朝霧一筋だから? うわ、ノロケかよ!」
「いやいやいや! それはない! それはないからっ!」
綾は手をぶんぶん振って否定した。
しかし、大輔が綾以外にセクハラをしないのは本当である。
あの男、これと決めた異性にはいかなる猥褻行為も平然とやってのけるくせに、そうでない者には文字通り見向きもしない。
噂によると、大輔は先輩後輩からの告白もデートの誘いも、全て断り続けているそうだ。かといって、それでセクハラ行為が許されるわけでもないが。
だが、その誠実さが最後の一線として、綾に彼を嫌いにさせないのも、また事実だった。
もちろん、そんな本音はおくびにも出さない綾である。
「お? 噂をすればダンナの登場だよ」
「だからそういうこと言わないでよ。また誤解されるから」
岬の視線を追って綾が振り向くと、朝練を終えてきた大輔の姿があった。
しかし、様子が少し妙である。
朝から追い込んだ練習をしたせいなのか、綾は彼が殺気立っているのを感じたが、周囲のクラスメイト達が異変に気づく様子はない。
直後、綾の悪い予感は的中した。
眉間に皺を寄せた大輔は、クラスメイトを蹴散らすように自分の席まで突き進むと、机に鞄を叩き付けたのだ。
教室中が静まりかえる中、鞄は軽く跳ねて、床へ落ちた。
「おーおー、荒れてる荒れてる。グッモーニン、叶。朝っぱらから欲求不満かい?」
「朝から何やってんのよ大輔。朝練で何かあった?」
拾った鞄を机の上に乗せてやると、大輔はいかにも不服そうに、二人へ睨みを利かせた。
「……お前らも座ってろ。すぐ来るぞ」
綾と岬が首を傾げた途端、ガラガラとドアを開ける音がした。
神崎にしては登場が早い。そう思った幾人かは怪訝な顔で、教室に現れた『男』を注視した。
中肉中背でスーツをきっちりと着込んだその男に、見覚えのある生徒は皆無だった。
綾は生徒会に所属している香織に「面識はないか?」と視線を送ったが、顔の広い彼女からも、「知らない人」というジェスチャーが返ってくる。
ネクタイを着用しているところをみると、教師なのだろうか。男は眼鏡ごしに教室の対角線を見渡すと、押し殺したような声を発した。
「全員、着席」
それは、二年一組の担任神崎が、普段教室で話している日本語とはまったく違う、拒否を許さない命令だった。
男の言葉に、あえて反抗的な態度をとるような者はいなかった。彼らの中で、一番血の気の多い叶大輔が、誰よりも先に着席していたからだ。そして、それが余計にクラスメイト達を不安にさせた。
「誰? あのオッサン。教育実習ってわけじゃなさそうだけど。朝霧、知ってる?」
「いや、記憶にないけど……」
香織が知らないような学校の教員を、綾が知るはずもない。耳打ちしてきた岬へ、綾は素直にそう返す。
全員が着席するまでの数秒の間に、男はさも当然のように教壇へ立っていた。
「……今日から非常勤でこの学院の教師を務める事になった、山崎だ」
「…は?」
「なんだそりゃ?」
「イミわかんねー。神崎ちゃんは?」
すぐさま生徒達が反応するのを、山崎は片手を上げて制止した。
「君らが驚くのも無理はないが、私も昨夜急に連絡を受けたものでな。事情を詳しく説明されたのは今朝方の事だ。
とりあえず、落ち着いて聞いてほしい。実は――、
―――昨夜、担任の神崎教諭が交通事故に遭われ、入院された」
今度は、騒ぎが起こらなかった。
二年一組の生徒にとって、神崎は交通事故などというイベントとは、最も縁のない人間である。
ショックを隠せない綾も、ただ息を飲むばかりだった。そうしている間にも、山崎は表情を一切変えないまま、淡々と言葉を並べ続ける。
「現在、神崎教諭は市外の病院で治療を受けている。絶対安静なので、生徒諸君は見舞いその他について、軽率な行動を控えるように。教諭が戻るまで、このクラスは私が担当するが、詳しい事は追って説明する。以上だ。日直、後は頼む」
それだけ言って、山崎は職員室へ戻っていった。
二年一組の混乱と動揺は、そこから始まった。
「……何だいアイツ? 言いたい事だけ言って、出ていきやがったね」
藪睨みの岬が舌を出していると、後ろからやってきた大輔がこれに続いた。
「見た目通り、ナメた野郎だぜ。朝練にも顔を出してきて、神崎ちゃんが戻ってくるまで、奴が剣道部の顧問も兼ねるとかホザいてやがった。くそったれが、偉そうにしやがって」
「なるほどね。あんたはそれで機嫌が悪かったわけか」
混乱によって教室が騒がしくなるほどに、綾は逆に落ち着きを取り戻した。
つまり、先ほどの山崎の話を整理すると、神崎は不慮の事故に遭ったが、一命は取り留めており、学園に復帰するだけの余地もある、のだろう。
四十人教室のあちこちで、グループ分けされた雑談がはじまった。そのほとんどすべてが、神崎を案ずるものや、彼女の事故によって起こるであろう、実力テストの範囲変更に関する話題だった。
だがそんな中、どのグループにも属さず、教室の隅で少女漫画を読みふける生徒の姿もあった。
眼鏡を掛けた、その痩せぎすの男子生徒を見咎めたのは、岬だった。
「こんな時まで漫画読んでるよ、アイツ。一体、どういう神経してんのかね?」
「ああ、町田君の事? 別にいいじゃん。人に迷惑掛けてるワケじゃないんだし」
岬のオタク嫌いは、実はこれが初めてというわけでもなかったが、綾はなだめるように言ってやる。
すると、自分以外の男の話題が綾の口から出たことで、今度は大輔が露骨に主張しはじめた。
「おい綾、町田はやべえぞ。きっと『小宇宙』って書いて『コスモ』って読むタイプだ」
「あたしの記憶が確かなら、あんたこの前、現国で『地球』って書いてあったのを『テラ』って読んでたよね? 大輔?」
「ぎ、義務教育だから……」
「じゃあ、やり直してくれば?」
萎縮する大輔に寒い視線をくれてやり、綾はもう一度、町田の方を見た。
二人の言う通り、町田は人から積極的に好かれるタイプではないだろう。いかにもインドア派な外見に加えて、彼のオタク趣味が人避けの原因になっているのだ。
しかし、その程度の理由で他人を好き嫌いしないほどには、綾は大人だった。
思えば彼女も、並々ならぬコンプレックスの持ち主なのである。大多数の人間と異なる性質を持つ、という事は、それだけで印象に不快感が混ざりやすいものなのだと、彼女は知っていた。
「――ど、どうしたの? 日高君。大丈夫?」
綾の背後で焦ったような香織の声がしたのは、その時だった。
「あ、えと…。な、なんでもないんだ、ご、ごめ、ん」
「そうは見えないよ、ぜんぜん」
窓から吹き込む風は冷たい。……にもかかわらず、日高は額にびっしりと冷や汗を浮かせ、青い顔で椅子にもたれかかっている。どうも気分が優れないらしい。
香織はしきりに彼の背中をさすっているが、はっきりいって逆効果に違いなかった。
「ちょっと転校生、すごい汗だよ? 骨でも折れた?」
「茶化すのはあとだよ岬。日高君、保健室行こう。気分悪いんでしょ?」
「う、うん……。ごめん、朝霧さん」
「いいから」
香織に背中をさする手を止めさせて、綾は日高を立たせてやった。わかっていた事だが、隣に並ぶと日高は綾よりもかなり小柄だった。十五センチ近い身長差のせいでうまく肩は貸せないが、それでも綾は岬と一緒になって、彼の背中を支えにかかる。
しかし、これが面白くないのは、白けた眼で事の成り行きを傍観していた大輔だった。
「保健室くらい一人で行けるだろ。なに甘えんてんだよ、日高」
「……なにそれ? あんた、本気で言ってんの?」
やけに棘のある大輔の物言いに、綾も言葉がきつくなる。
「なんでお前がキレるんだよ? 動けないほど辛いわけじゃねえだろ。なぁ、日高?」
額の汗を拭った日高は、大輔に言われるがまま、背中を支える二人の手から離れてしまう。
「おいおい。無茶はイカンよ、転校生?」
「そうだって。べつに男とか関係ないから」
「ううん、叶君の言う通りさ。一人で大丈夫だから。鷹山さん、保健室は一階の端だよね?」
保健室の位置を確認した日高は、岬の否定がないのを肯定と取り、ふらつきながら教室を出て行く。明らかに無理をしていたが、小柄で大人しい日高は、体も態度も大きな大輔に威圧感を感じていたのかもしれなかった。
「行っちゃった……。本当に大丈夫かな? 日高君……」
「西井、気にしても仕方ないって。それよりも一限は英語の小テストだからさ、出そうなトコにヤマ張ってくれない? アタシ、あんまり自信なくってさ」
いなくなった日高の代わりに、香織の背中を両手で押すと、岬は自分の席へ戻っていく。気の強い彼女にしては珍しく、何かを恐れるような、逃げるような足取りだった。
窓際で腕組みする大輔は、せいせいしたように鼻を鳴らした。
「ほらな、やっぱ一人でなんとかなるじゃねえか。……あん? なに睨んでんだよ。綾?」
「…………言わないと、解かんない?」
「さあな、わかんねえよ」
根が真面目な性格なので、朝霧綾は困っている人間を放っておけない質である。
だから、その程度の常識もない人間には腹が立つ。
たとえ友人であろうと、だ。
赤い前髪の隙間にみえる綾の目は、はっきりと怒っていた。
「……あのさ、大輔」
「だから睨むなって。なんだよ?」
「あたしは、あんたの事はそれなりに認めてるし、友達としては良いヤツだって思う時もあるよ。けどさっきの態度はなに? 部活とか、先生の事でイライラしてるのは分かるけどさ」
「俺はべつに……」
「あたしはあんたのそういうとこ、絶対好きにはなれないから」
多少ストレートに伝えた方が、こういう機微に疎い大輔のためになる。
それ以上の文句は続けず、綾は小テストのヤマ張りに悪戦苦闘するクラスメイトの輪の中へ入っていった。
教室は、まだ騒がしい。
「……くそったれ」
誰にともなく悪態をついた大輔も、バツが悪そうに自分の席に戻っていく。
転校生と担任の入院。突然の出来事が立て続けに起こったせいで、クラス中が浮き足立っていた。
……少なくともこの時点では、クラスメイト全員がそう思っていたはずである。
窓から覗く快晴は、秋らしく穏やかだ。陽気に当てられて、勢いを取り戻した二年一組の面々も、一限目が始まる頃には、普段通りの気持ちに切り替わっているだろう。
だが、この日、綾のグループに生まれた亀裂は、ついに消えはしなかった。
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