第1話『女子高生 朝霧綾』-2
「叶君、一限休むってー」
保健室から戻ってきた香織は、同情の念を禁じ得ない様子だった。
私立九条学院が誇る千載一遇の変態、叶大輔の意識は――、今世紀最大の偉業達成まであと少しというところで、朝霧綾のハイキックによって、昏倒を余儀なくされた。
なお、大輔が気絶直後に発した「品苦ヶ島々……」という謎の諸島名が、その場に居合わせた男子一同の冒険心に火を点けたことは、いうまでもない。
さて、南棟二階に位置する二年一組では、定時を越えても始まらないHRに生徒達が困惑していた。
担任の神崎は婚期を焦るあまり、最近は精神不安定である。教え子達は日頃から、彼女の奇行には目を瞑るように訓練されていたが、この時ばかりは休み時間よろしく、それぞれ談笑に浸っていた。
かくいう綾もその例に漏れず、香織や他の友人と話し込んでいる。
「大丈夫かなぁ。叶君、綾のキックで首が上下逆さまになってたよー?」
苦笑いする西井香織の横で話を聞いていた、やや背の高いショートヘアの女子が、八重歯をキッと覗かせた。
「西井は甘い。アタシが朝霧の立場なら、速攻半殺しで警察に突き出すね。だいたい、朝霧もやり方がヌルいんだ。アンタは腕っ節が立つんだから、いっそ病院送りにすりゃいいだろ」
「岬。大輔がその程度で懲りると思う? アイツ、ターミネーターよりしつこいんだよ……」
机に突っ伏す綾は、むしろ先程の騒ぎで妙な噂が流れないかと心配だった。
綾に岬と呼ばれた女子生徒は、大輔と同じく特待生として九条学院に通うアスリートだった。彼女もまた、全国に名を馳せるほどの陸上選手で、本名を鷹山岬といった。
綾の机の正面に仁王立ちした岬は、すらりとした背丈の割には薄い胸を張る。
「いじいじすんな。アンタ、ただでさえ赤髪で目立つのに、そんなんじゃ今日来る転校生に引かれても知らないよ」
「……なんか、大輔もそんなこと言ってたけど。岬、もしかしてその人見たの?」
「ああ、見た見た。背は小さかったけど、男子……」
言いさしたところで、黒板横のスライドドアが壊れんばかりに開口した。
「おはよう! おはよう! おはよーッ!!」
まるで今が定時だと言わんばかりに入ってきたのは、もちろん担任の神崎である。
彼女はいそいそと教壇に上がると、黒板に何やら大きく漢字を書こうとしていた。だが、あまりに低い背と短いリーチのせいで、手が上まで届かない。見かねた最前列席の男子が、そそくさと彼女を手伝った。
「はいー。みんな座ってーッ! HR! HR始めるよーっ!」
これがむさい男性教師の号令ならば、生徒の動きも緩慢としたものだったろう。
しかし、いかんせん相手は子供。そう判断せざるをえない外見と精神年齢を備えた担任へ、配慮するだけの寛容な心が、彼女の教え子達にはあった。
無論、ナメているが故の優しさ、である。
十秒も経たないうちに訪れた静寂に、神崎は「日々の指導の賜物ですね」と、自信満々の笑顔で鼻息を荒げた。それが生徒達の哀れみだと気付かないのが、彼女の美徳である。
「えーと。今日は皆さんに新しいお友達を紹介します。ささ、入って入って!」
楽しそうな神崎にせかされて、ドアをくぐってきたのは小柄な少年だった。
学院指定の制服が間に合わなかったらしく、少年はクリーニングしたばかりの綺麗な他校の制服で、教壇に上がった。緊張気味に持ち上げた頭は、高校二年とは思えないほど童顔だ。
「……あの、初めまして。日高颯太です。よろしくお願いします」
少年は見た目に相応しい、声変わりも終わっていないようなソプラノだった。途端にクラスの女子の半数が色めき立とうとするのを、神崎が両手を広げて抑制する。
「はいはいはーい。みんな静かにね。色々質問とかあると思うけど、今は時間が全くないのよ。どうしてなのか、私にはこれっぽっちも分からないけどねッ! あ、日高君?」
「はい」
「君の席は朝霧さんの隣だから。ほら、一番後ろの赤い髪の子よ。校内は適当に案内してもらってね。じゃあ日直さん、あとお願いねー。私、今から朝ご飯食べなくちゃいけないの!」
生徒達は満場一致で眉間に皺を寄せながら、教室を後にする神崎を見送った。
一限開始まで残り三分。転校生への洗礼で知られる質問攻めも、時間がなくてはどうしようもない。そう考えたクラスメイト達は、とりあえず日高を構いはしなかった。
当の日高は、慣れない新クラスの人込みをかき分けるように進み、最後列の窓際で担任に呆れる綾の隣に、鞄を下ろした。
「よろしく、……えっと、朝霧さん?」
「あ、うん。よろしくね日高君。名前、べつに呼び捨てでいいよ」
初対面の人間に『髪』の事で敬遠されなかったのは初めてだったので、綾は思わず、自分でも意外な返事してしまう。普段の彼女なら、考えられないことだった。
背が高い、髪も赤い。これだけ条件が揃っていれば、大概の人間は綾を不良と思い込む。偏見を持たず話しかけてくる日高のようなタイプは珍しい。
だが、近くで見ると、やはり奇異には映るのだろう。
珍しそうに赤髪を眺める日高に、綾は前髪を指でつまんでみせた。
「あぁ、『これ』? 地毛なんだ。家系はずっと日本人なんだけどさ。あはは、変だよね」
空笑いである。
本音を言えば、綾はこの赤髪の事を、身長の高さより気に病んでいた。
視覚は人間の重要な情報収集器官である。ゆえに外見が中身の判断材料になってしまうのは、ある意味正しい事なのだと頭では分かっていても、これまで受けてきた誤解や中傷は、タフな彼女にとっても軽くはなかった。
ところが、教科書を机に詰め込んだ日高の反応は、またしても意外なものであった。
「そう? 綺麗でいいと思うけど。朝霧さんは背も高いし、格好いいから羨ましいな」
「あー。それ、微妙に褒め言葉になってないところがつらいかなぁ。……でも、ありがと」
今度は綾も本当の笑顔を返す。基本的に、彼女は気遣いの出来る人間が好きなのだ。
「分からない事があったら言ってよ。校舎の案内ぐらいならできるからさ」
「うん。ありがとう」
「教科書とか持ってきた? 授業中、困らない?」
「大丈夫だよ。授業内容も、前の学校とほとんど変わらないから」
たったそれだけのやりとりで、綾はなんとなく、日高と良い友達になれそうな気がした。大輔とは違うこの転校生との微妙な距離感が、彼女には新鮮だったのだ。
クラスメイト達はそんな二人のやりとりを静観していたが、それはすぐに羨望や嫉妬に変わっていった。文武両道の進学校として名高い九条学院においては、学生達の青春成分は常に不足しがちなのだ。
…………もっとも、彼らがその鬱憤を晴らす前に、保健室から舞い戻った大輔が、日高と談笑する綾に目くじらを立てて、「浮気だ! 不倫だ!」などと、喚くのが先だったが。
そうして、一限開始のチャイムが鳴り終わって五分も経った頃、ようやく現国の教科書を抱えた神崎が、口元に海苔を付けたまま教室に現れたのだった。
「さぁ、みんな。一限、はーじめーるよーッッ!」
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