第1話『女子高生 朝霧綾』-1
第一話 『女子高生 朝霧綾』
「――相済まぬ、チチを揉ませて頂きたい」
月曜日、午前八時二十五分。
登校中の朝霧綾を軽快に呼び止めたのは、慇懃無礼なセクハラだった。
「……今のは聞かなかった事にしてあげる。だから消えて」
朝のHRにはまだ時間がある。低血圧で寝起きが悪く、毎朝遅刻ギリギリを攻める綾にとって、非常に稀な登校といえるだろう。だからこそ、彼女はいつもより寛大でいられた。
「恥ずかしがるなよ、綾。都会じゃ誰でもやってる。ただのスキンシップだ」
だというのに、背後に立つ曲者は、どこををどう勘違いしたものか、マイペースを崩さない。この男のよく通る声のせいで、周囲の注目を集めすぎるのは、いつもの事だった。
「あのさ、大輔。ひとつ教えてくれない? どうしてそう毎回毎回、殴られるのが分かってて、あたしにちょっかいかけてくるわけ? あんた、もしかしてマゾ?」
「ああ。真性のな」
「否定してよ、お願いだからさ……」
呆れて振り向く彼女の真後ろに、見慣れたクラスメイトの顔があった。
ごついバッグを肩から提げているが、中身の重さを感じさせない爽やかな印象の青年。
「……あたし、あんたの外見は詐欺だと思う」
この青年、名前を叶大輔という。
長身痩躯の優男。言葉の上ではそう綺麗に当てはまってしまうのが、綾には腹立たしい。いや、そう思っている女子生徒は、彼女だけではないだろう。
実際、大輔は目鼻立ちもすっきりとした好青年であるし、部活の剣道では全国クラスの使い手でもある。入学から二年目の秋学期、そろそろ主将も務める事になるはずだった。
そんなだから、大輔は入学当初から先輩同輩問わずモテていたし、本人もそれを鼻にかけるような真似はしない。
……ところが、天は彼に余計な才能をも与えていた。
この男――、とにかく下品で、そしてエロいのだ。
結果、大輔は一年でも同じクラスだった綾に、初対面で尻を撫でるという通報案件に及んだ。――挙げ句、生涯で初めて女子に、それも素手で失神KOを喫してしまった過去をもつ。
しかしそれが妙なきっかけになって、彼は何かと綾に言い寄ってくるようになっていた。
「それで? 今日は朝練なかったわけ?」
「おう。神崎ちゃんは、朝のうちに転校生の案内するからー、とか言ってたな」
綾と大輔の担任である神崎は、背が極端に低い三十路の女性だが、見た目だけでなく中身まで小学生と相違ない。そんな彼女は、剣道部の顧問も務めていた。
「転校生? 先生、金曜のHRでそんな事言ってたっけ?」
「いや、言ってねえ。朝練の事も、昨日の夜にいきなり連絡があったんだよなぁ」
「あいかわらず行き当たりばったりな部活だね……。ま、あたしは関係ないからいいけど」
綾はのんびりと、秋空を見上げた。
海に面した蛇穴市に吹く風は、今日も潮の匂いがする。
観光地として有名なわけでもない。いたって平凡なこの街は、周囲を山で囲まれる形で陸の孤島になっている。
特に目を見張るような娯楽施設があるわけでもない。かといって、隣町に移動するだけで車でゆうに二時間以上、という絶望的な交通便の悪さを誇るのだ。健全な若者ならば、将来的に定住するのは遠慮したいところだろう。
綾と大輔が通う私立高校九条学院は、山間に位置していた。
九条学院は蛇穴市に存在する唯一無二の高校だが、前述した通り、いかんせん交通が不便である。
しかし、そんなデメリットをもろともせず、県外からも通学する者は絶えない。
その理由の一つが、広大な敷地を贅沢に使った運動部の充実ぶりだった。もちろん、指導者も一流どころが揃っている。
有力な生徒は次々に推薦で入学し、成績を残して有名大学へ進学していく。
なにを隠そう叶大輔も、そんなハイスクール・トップアスリートの一人なのだった。……悲しい事にに、同時に彼は超高校級の変態でもあったが。
「おっはよーっ!」
のびのびした声が聞こえた次の瞬間、綾はスポーツバッグを掴んでいた右腕を、何者かに組み付かれてしまう。声の張りと腕に掛かるその重さに、彼女はもちろん覚えがあった。
綾が落ち着いて綾が視線を下ろすと、自分の胸の位置にショートボブの頭が揺れていた。
「……朝からテンション高いなぁ。おはよ、香織」
「一日の始まりだからねー、気合い入れないと授業耐えられないよー」
トレードマークである大きな瞳で綾を見上げてくるのは、クラスメイトの西井香織だった。
香織はこの通り、小柄な見た目にそぐわない有り余る元気でもって、クラスでは学級委員長も務めている。明るく人当たりのよい彼女の性格は、比較的大人しい綾には羨ましい。
そんな香織は地元出身で、綾とは中学以来の親友だ。
香織は綾の腕にしがみついたまま、自分を挟んで隣を歩く大輔を一瞥した。
「ああ、叶君? いたんだ? おはよー」
「よう委員長。相変わらずガードかてえな」
やる気のない挨拶を交わすのは、いつもの事である。この二人、どうにも反りが合わないのだ。
「まーた、綾にセクハラしようとしてたんでしょー?」
「誤解すんな。可愛いおなごを愛でるのは、平安時代から続く日本の伝統作法だ」
「今じゃそれ犯罪なの。いい? 綾の胸もお尻も、君の為にあるわけじゃないんだからね? 『これ』は私の物であって、叶君との共有財産じゃないのー」
言いながら、香織は綾の胸を鷲掴みにした。
「な、ななな何すんのよッッ!」
「あ、ごめん。でも私悪くないよ? 綾のスタイルが良すぎるのがダメなんだよ」
異論はない、と頷く大輔に、貞操の危機を感じ取り、綾は思わずバッグで胸元を隠していた。
ボディーラインの起伏に乏しい香織と並べば、朝霧綾のスタイルが抜群なのは、一目瞭然である。
一般的な女子高生としては、綾はかなり背の高い部類だろう。春先にあった身体測定では、高校入学時に百七十センチもあった身長を、さらに七センチオーバーしていた。モデル体型、といえば分かり易いだろうか、手と足も、体のパーツがとにかく長いのだ。
それでいて美人とくれば、当然大輔も放ってはおかない。
それもアイドル的な可愛らしさではなく、朝霧綾は切れ長の眼と美しい鼻梁をもつ、精悍な顔つきをしているのである。
しかし、綾が人から注目を集めやすいのは、スタイルや顔のせいばかりではない。
「毎回思うんだけど、やっぱり綾って目立つよねー。髪、真っ赤なんだもん」
「きっとこの赤い髪には、すげえエピソードとかあるんだよな。多分、レディース時代の……」
「あのさ大輔。何度も言ってると思うけど、『これ』、地毛だから。あと、あたし不良経験はない」
九条学院に向かう登校中の生徒達。その中で、大輔と香織が綾を簡単に判別できたのは、彼女の最大の特徴である“赤髪”が目印になっていたからだった。
小、中、高と、この頭のことは学校側から色々と言われてきた綾である。しかし、彼女の祖父も同じく赤い髪をしているので、その都度写真を見せて、周囲の誤解を解いてきた。
この赤い髪とモデル並みのスタイルが、朝霧綾をいつも有名人にする。
ところが、綾が大輔と同じく異性からもてはやされているかといえば、そうでもない。
「綾はキレイなのに、なんで彼氏作らないのー?」
学院に続く長い坂を登りながら、香織は常々思っていた疑問を口にした。
「コイツのせい。全部コイツが悪い。この剣道バカのせいで、あたしの高校生活は全部パー」
こめかみを押さえて愚痴をこぼす綾を、大輔は不思議そうな顔で見ている。
入学初日に起きた大輔の告白劇は、綾の放った肘打ちによって、あっけなく幕を降ろされた。…………が、事件はそこで終わらなかったのだ。
元々、剣道の特待生として入学した大輔を、見た目はただの女子高生に過ぎない綾が、文字通りぶちのめした事は、すぐに学院中の話題になった。
しかし大輔の方も、その後は剣道で本来の力を発揮して、今では公式試合無敗の看板を掲げるまでになっている。彼はまだ二年だが、すでに次期オリンピックに向けて、国の強化指定選手にも選ばれているらしい。
ここまで事実が、生徒達の中で大輔=無敵、それに勝った綾はもはや超人、という短絡思考を生んでしまい、朝霧綾は特に男子から敬遠されるようになってしまったのだ。
そんな綾の憂鬱を知ってか知らずか、原因を作った張本人は、どこ吹く風といった様子だ。ゆえに何度殴られても、彼は一向に懲りる気配はない。
これで叶大輔が、根っからの悪人だったなら、彼女も気兼ねなく警察に突き出してやれるのだが、困ったことにこの男には、良いところもちゃんとある。
だから綾は彼に絡まれても適度に無視するし、反撃にも手心を加えるようになっていた。残念ながら、大輔がそれを汲んでセクハラを抑える気配はないのだが。
いつの間にか、女子二人よりもやや後ろを歩いていた大輔は、
「なぁ綾。俺、考えたんだけどな、スカートはもっと短くていいと思うんだ」
腰高の尻をしげしげと眺めると、おもむろにそこへ手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
ここまで読んで下さった読者様、ありがとうございました。
感想・レビューなど頂ければ幸いです。
この後も、お楽しみ下さい。