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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

マザー・レミには愛がある 〜8年後某日〜

作者: ろん



 遠くに船の汽笛が聞こえる中、潮風でさびた巨大な換気扇が、軋みながらゆっくりと回転している。


 ハの字型の天井近くには金網張りの橋が架かっているが、その手すりに残る傷が「鎖のこすれた跡」であると知っているのは、この世に二人だけだろう。


 そのうちの一人である彼女は、ゆったりと椅子に座ったまま、腹に置いたコーヒー皿からカップを持ち上げる。


 ちょうどその時だった。


 コンコン。


「おっと」


 突然のノックに驚き、コーヒーを胸の上にこぼす。


 八年前に比べて、こちらもずいぶんと実ってしまった。街中でその膨らみ具合を遠巻きに確認した後、一度は白々しく目をそらすくせに、いざすれ違う時には名残惜しそうに凝視してくる男たちの視線にも、もう慣れたものだ。


「入っていいよー」


 うまく谷間に溜まったそれをティッシュでふき取り、ノックに返事をする。扉から顔を出したのは、銀縁の丸眼鏡をかけ、白ニットにピンクのスカートをまとった女性だ。


「社長。例のお客様をお連れしました」

「おかえり。彼は元気そう?」

「ええ、この通り」


 続いて、彼女に後ろ手を掴まれる形で入ってきたのは、髪を緑色に染め上げ、淡いチェックの服を羽織った色黒の男だった。濃い無精ひげを生やし、首には銀のネックレスをぶら下げている。


「このアマ、離せっ……!」


 ところが身をよじっていた彼も、倉庫の奥にある物を見た途端、急に大人しくなる。厳密には、広いマホガニー材のデスクの奥に腰かけている人物と、その両側に鎮座する巨大な「生物」を見て。


「り、竜……?」


 他の生物には見られない特徴を散りばめた姿は、一目でそれと分かった。短く退化した角に、口の隙間から覗く白い牙。紺色の細かい鱗で全身を覆っているが、脂肪を蓄えた腹だけは色素が薄く、ふっくらとしたカーブを描いている。


 極めつけは「筋肉の塊」と呼ぶにふさわしい四つの脚だが、香箱座りの状態でも男と同じくらいの高さがある。もし起き上がれば、角の位置は五メートルにも届くだろう。


「ようこそ、マザー商会へ。……『お久しぶり』の方が正しいかな」


 芯の通った声が倉庫内に響く。

 座り心地のよさそうな回転椅子に身を預けていた彼女が、くるりと正面を向いた。


 立ち上がったその姿を見て、男は生唾を飲んだ。

 まとめ切れないほどボリュームのある金髪に、すらりとした目鼻立ち。歳は二十代前半といったところか。前が開いたタンクトップに黒革のジャケットを重ねているが、白く豊満なバストから下のボディラインが持つ迫力は、両隣を巨大な竜に挟まれていてもまったく見劣りしない。


 凪のように落ち着いたブルーの瞳で、彼女は男の顔と、デスクに置かれた紙を交互に見つめる。


「えっと……ミカエルさんだっけ。こんな額の借金を作る天使、なかなかいないよ」

「バ、バカ親がふざけて付けた名前だ、ほっとけ!」


 名前負けの典型例のような男は、あっさりと床に組み伏せられる。


「立場をわきまえなさい。騒ぐならこの腕へし折るわよ」

「ぐっ……」


 特に華奢でもない「ミカエル」が、いかにも事務職という雰囲気の彼女一人を振りほどけないのは、反撃に転じる上で必要な関節がすべて、的確に押さえつけられているからだ。

 手足の動きに目を配るだけでなく、なるべく密着して、男が次に力を入れるポイントを直接肌で感じ取る。少しでも逃れようとする方向があれば、先回りして肘や太もも、場合によっては胸まで重ねてくる彼女の「抱擁」に、多少筋肉量で上回るだけの一般人が抗えるはずもなかった。


「ユツキ、あなたの仕事はもう終わってる。三ヶ月も音沙汰なかったこの人を連れてきてくれた時点でね」

「ありがとうございます」


 事実上のゴングに、ユツキと呼ばれた彼女は技をほどいて立ち上がる。

 一方、はるか年下の女性二人に見下ろされる構図だが、関節を極められたばかりの男はろくに起き上がれず、四つん這いになるのが精一杯だった。


「レミ社長。ミカエル氏にはお連れする道中、本日の件を『おおむね』お伝えしておきました」

「おおー、さすが私の相棒。なら話が早いや」


 社長がパチンと指を鳴らすと、彼女の両脇に控えていた二匹の竜がゆっくり歩き出し、そのままミカエルの横に陣取った。

 人間など一飲みにしてしまいそうな口が左右に並ぶ中、生ぬるい鼻息が彼の髪をかき上げる。


「なんだ……借金を踏み倒された腹いせに、俺をこいつらの餌にするってか。どこの組もワンパターンだな!」

「そう?」


 まだ床に手をついているミカエルの前に近寄り、社長はしゃがみ込んだ。彼女自身は無意識だろうが、その涼し気な顔に怒りを込めて注がれるはずだった男の視線は、タンクトップからはち切れんばかりに寄せられた胸の谷間と、9割がむき出しになった瑞々しい生足を前に、あっけなく散った。


「他の組がどういう対応をするのか知らないけど……うちはかなり良心的な金利だよ? 借りた物はちゃんと返そうって、十歳も年上の人に言うことじゃないよね」


 正論と誘惑に押しつぶされ、ミカエルの視線は早くも墜落する。口にこそ出さないが、それは事実上の敗北宣言だった。


「それに、あなたを殺すつもりなんてない。この子たちにはたらふく食べさせてるしね」


 そう言い放つと、まるで彼を屈服させることだけが目的だったかのように、社長はまっすぐ席の前に戻った。


 しかし、そこでくるりと踵を返す。


「でも、お灸くらいは据えさせてもらうよ」


 再び接近してくる様子もなく、彼女は腰に回していた右手を前に出した。鋭いナイフの一本でも握られているかと思いきや、そこには左手と同じく細長い指と、赤銅色のマニキュアが塗られた爪があるだけだった。


 ……錯覚か。ミカエルの目には一瞬、その右腕が大量の鱗に覆われているように見えた。


「え?」


 彼はすぐ間違いに気づく。錯覚だったのは、むしろ「普通」の腕の方だった。


 爬虫類の成長ビデオを早送りで見るがごとく、彼女の右腕は急激に膨らんでいった。ばきばきと音を立てながら、それまでとはまったく別種の筋肉が張り出してくる。拡大する爪の一枚一枚が、原形を保っている彼女の頭部より広い面積を持ち、艶やかな紺色に染め上げられた鱗は、彼女自身が着ている革のジャケットよりよほど強靭そうだった。


 さらに、その腕が竜たちの前脚をしのぐ大きさになったところで、ミカエルは彼女の爪の色がマニキュアではなく、他の二匹と同じ、純粋な赤銅色であることに気付く。


「お前、まさか……」

「そう、竜人。でも大事なのはここからだよ」


 彼らより一回りも大きな「前脚」を、社長は遠慮なくミカエルの上に振り下ろした。

 ズシンという太い地響きとともに、彼の下半身は巨大な肉塊の下敷きとなる。


「ぐ、ぐええ」

「この会社の金利が低い理由を教えてあげる。それはね……他社が担保にできない物を、私たちは担保にできるから」


 そう言った後、社長は短い口笛を吹く。確かな「命令」を受け取った竜たちは、身動きを封じられた債務者に口を近づけると、その顔を一斉に舐め始めた。


「あっ、やめろ……あああっ……!」 

「なかなか気持ちいいでしょ。その子は『マグナ』っていう名前でね、八年前までパレタ皇国の軍人だったの。いろいろあって、私がこの場所で竜に産み直した」

「産み……直した……?」


 聞きなれない言葉に、ミカエルは身悶えしながら眉をひそめた。

 わずかな隙を逃さず、もう一匹の竜がざらついた舌を首筋に差し込む。


「ひぃゃあ……!」

「その子もそう。一年前、夜道で私に襲いかかってきたから」


 社長が左手を上げると、二匹の竜は舐めるのを止めた。巨大な舌が首から上を這いまわる不気味さとくすぐったさに、息も絶え絶えに追い込まれたミカエルの身体から、やっと重い前脚が持ち上げられる。


 彼女は右手を人間の腕に戻すと、感覚を確かめるように手のひらを開閉した。


「無性竜はね、繁殖に交尾を必要としない代わりに、呑み込んだ獲物を体内で卵に作り変えるの。私はその血を引いている……と言っても半分は人間だから、この子たちに産卵能力までは与えられないけど」


 ……信じたくない。信じたくないが、この女社長が竜人である証拠を見せつけられた以上、今の部分だけが作り話である可能性は低い。


 ミカエルは改めて、一年前に社長を襲ったという男の変わり果てた姿を見つめた。正当防衛の結果として彼女の「子ども」にされる未来を、いったい誰が想像できるだろう。


 獅子を彷彿とさせる金色の髪に、幼さを残した端正な顔立ち。もはや果実の域といっても差し支えない胸に、ホットパンツから大胆にさらけ出された太もも。一年前、男が社長に近づいた目的は容易に見当がつくが、そんな汚れた魂すら彼女の腹の中に置いてきたかのように、竜の瞳は深く透き通っていた。


「でも生息数が少ない竜の中でも、この種はかなり希少みたい。特にこの子たちみたいに『元・人間』の個体は知能も高いから、卵も高値で取引されてるの」


 純粋に興味深い内容に、ミカエルも最初はへえ……と声をもらす。竜人が実在した事実に加えて、この若い女性が異形たちの母であることを理解するのに、彼もかなりの時間を要したようだ。


 しかし、社長はそこでぱったりと言葉を止める。沈黙が長引くにつれ、ミカエルの表情は徐々に青ざめていく。


 ついに、その説明が他人事ではないと悟ったらしい。


「ふふ……気づいた?」


 砂時計型にくびれた腹を妖しくさすりながら、社長は一歩ずつ距離を詰めていく。


「待て。さっき、俺を殺すつもりはないって……」

「殺さないよ。ただ、ちょっと生まれ変わってもらうだけ」


 薄っすら微笑みを浮かべ、彼女は一枚ずつ服を脱ぎ始めた。


 髪留めを外し、黒いジャケットを床に滑り落としてから、やや汗ばんだタンクトップに手をかける。相手を獲物とみなした以上、恥じらいもなく肌を晒すことが最上級の威嚇だと知っているような振る舞いは、案の定、ミカエルを震え上がらせた。


「わかった、金は返す! 1.5……いや、2倍でどうだ!」

「ユツキ、どう?」

「信頼できませんね。今日だって隣国に高飛びするところを引っ張ってきた訳ですし」

「3倍! 3倍払うぞ!」

「10倍」


 社長が口にした数字は、北風のように三人の間を吹き抜けていった。聞き違いに一票を投じるがごとく、ミカエルは何度も目を瞬かせる。


「10……?」

「難しい?」


 パサリ。

 脱ぎ捨てられた上半身最後の布が、彼にその他の答えを許さなかった。タンクトップの内側に閉じ込められていた湿気が、とどめとばかりに男の顔を撫でる。


「い、いや……払う! 払うに決まってる!」

「おっけー、10倍ね。もし逃げ出したら……あなたには今度こそ、私の『赤ちゃん』になってもらう」


 強烈な母性を放ちながら目の前に並ぶ二つの双丘は、ミカエルの側にいる「彼」がかつて、自身の肉体と引き換えにようやく拝んだものだが、それを幸運にも五体満足で見られたところで、ミカエルに鼻の下を伸ばしている余裕はない。

 何しろその鑑賞代は、落ちたタンクトップの下にある借用書に記されている金額の、十倍だ。


「でも……そうなると俺、払い終わる頃には90歳とか……」

「ふうん。足が四本になるのと、どっちがいい?」


 撤回のチャンスを窺うような独り言も、あっさりと一蹴される。


 その後、桁が一つ増えた新しい借用書を渡され、ミカエルは事務所を後にした。とはいえ「念押し」と称して竜たちに三十分近く全身を舐め回されたため、扉をくぐる頃にはすっかり足腰が立たず、借用書を入れた防水ファイルを腰に巻かれた彼は、アスファルトに黒い染みを作りながら、這いずるように出ていった。



――



「レミ社長、お疲れ様でした」

「あなたもね」


 扉を閉めてしばらくの間、張りつめたような沈黙が流れる。社長は豊かな胸を露わにしたまま仁王立ちとなり、ユツキは秘書らしく体の前で手を重ねたまま、真剣な眼でお互いの顔を見交わしている。


 だが、およそ五秒を経て、先にユツキが限界を迎えた。

彼女が小さく噴き出したのを機に、二人は堰を切ったように笑い始める。


「レミちゃん、ひどいよ。10倍なんて無理に決まってるじゃん」

「……完全に買い言葉だった。私も、ユツキが『この腕へし折る』なんて言うとは思わなかったよ」


 緊張がほぐれ、そろって白い歯を覗かせる二人。

 ユツキは眼鏡を浮かし、目尻に滲んだ涙を指でぬぐってから、改めて口を開く。


「それでも、ちゃんと見逃してあげる辺りは流石だね。ただ賭けてもいいけど、あの人絶対に全額払わないよ? この際、本当に『天使』にしてあげればよかったのに」

「……その案は思いつかなかった。さっき言ってくれればよかったのに」


 確かに竜の名前が「ミカエル」だったところで、その命名に不審感を抱く人はいないだろう。

 床に落としたタンクトップを拾い上げながら、レミはクスッと笑う。


 しかし、すでにユツキの関心は別の物に移っていた。彼女はタンクトップの下にあった古い借用書を、目にも留まらぬ速さで回収し、迷いなく自分の鼻に押し当てる。

 それを見たレミは引くというより、自らの迂闊さを嘆くように首を横に振った。


「……やられた」

「はあ、レミちゃんの匂い」


 目を閉じて堪能しているユツキをよそに、レミはタンクトップに頭を通す。

 彼女が視界を失う一瞬をついて、ユツキはその紙を胸ポケットに入れた。


「それはそうとさ……『マザー商会』っていう会社名、やっぱり変えない?」


 (おそらく本人にとっては)思ってもいなかった要求に、ユツキは目を丸くする。


「どうして? 私はすごく気に入ってるよ?」

「どうしてって……それにそのマークも、私はあまり……」


 レミはユツキの左胸に輝くピンバッジを指さした。どこぞの宗教画に描かれていそうな「聖母」を象った社章も、彼女が考案したものだ。


「だーめ。レミちゃんは私の女神様なんだから」


 ユツキはニットをたくし上げ、ピンバッジにそっと口付けをする。


「それに……顧客との窓口になっているのは私だよ。こういう『外面』くらい、私が決めてもいいでしょ?」


 その主張には、レミも頭を掻くしかなかった。社長席のデスクに腰を置き、長い脚を組む。


「ユツキ、変わったよね」

「何が?」

「うーん、全部。昔はもっとひかえめな子だったからさ」


 語気を強めたわけでもないのに、その一言で空気がピリつく。


「……ごめん。気に障っちゃったかな」

「ううん。とても魅力的」


 組んだ脚の上で頬杖をつき、彼女は微笑む。たまに債務者の前で見せるそれとは似て非なる、心からの笑顔だ。

 その瞬間、ユツキは自分が罠に掛けられたことに気付く。


「……ずるい」

「ごめん。『いけるな』と思って」


 伏し目がちに言い残したレミの顔を見て、ユツキが胸が高鳴るのを感じた。突然ペースを上げた心臓に命じられるまま、彼女の正面に立つ。一転して上目遣いになったレミの頬がほんのり赤みを帯びていることを、この距離で見逃せるはずもない。


「レミ、今日はもうお仕事ないよね」

「うん……それが何か?」

「んっ」


 少し皺がついた彼女のタンクトップの裾を、ユツキは固く握りしめる。

 あまりにもシンプルな意思表示に、レミは堪らず笑みをこぼした。


「今着たばかりなんだけどな、これ」

「……どうして着たの?」


 愚問、と言わんばかりにレミは首を傾げたが、すぐにユツキがそれを分かって聞いたことを悟ったらしく、結果、彼女はより顔を赤らめる羽目になった。


「だって、イチからが良いじゃん」

「……うん」


 糸が解けたように崩れてくるユツキの身体を、レミが優しく抱き止める。今後、ユツキがどれだけ身を鍛え、優れた格闘術を身につけようと、竜の血を引く彼女の引き締まった肉体には及ばないだろう。太ももと胸を貝合わせのように重ねてから、二人は両手の指も絡ませる。


「レミ。愛してるよ」

「うん、愛してる」


 ところが最後の一ヶ所を重ね合わせる刹那、ユツキはせっかく組んだ左手をほどいた。

 相手を失ったレミの右手が寂しげに空中をさまよう中、その手は胸ポケットから用無しとなった紙切れを取り出し、どこかへと放り投げる。


「……何?」


 その無用な詮索を、ユツキは水音でかき消した。



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