6 自問自答
「…………」
会話が途切れる。この雰囲気に、勇者の怒りも少しばかり落ち着き、冷静な思考を取り戻しかけていた。勇者は己が起こした行動に、驚いていた。
普段ならば、これほどの罵倒であれば子守歌も同然であったのだ。おそらく普通の人でもそうだろうし、勇者であるのならば、なおのことだ。
が、今回はなぜかそうはならなかった。この男は、勇者といえどもまだまだ若い。その上、今までに経験した事の無い状況に置かれている。それを踏まえるのならば、仕方の無いことであろうか。
「いや、ごめ「じゃ、じゃあ私はもう行くから……」
謝る間もなく、アインは逃げるように去ってしまった。後を追いかける度胸も無く、その場に再び座り込んでしまう。
(はぁ……もう、何がしたいんだよ。俺は)
自分の感情が制御出来ない。つまりそれは、自分が未熟であるということ、勇者としての責務を果たす事が出来ないと言うことをこの勇者は理解していた。
だからこそこの男は、その長い歴史の中で、聖剣に選ばれた者の間で受け継がれてきた、勇者としての警句を脳内で咀嚼するように繰り返した。
今までに幾度となく繰り返してきた行為である。この男にとっては、日常の一部だ。
――常に完璧で、思慮深くあること
――悪を打ち倒すために全てを捧げること
感情に流されてはいけない。常に冷静であれ。勇者は、魔王を倒さなければならないのだから。魔王を倒せない者には、価値がない。
この男にとって、この言葉は生きる意味であり、それと同時に麻薬でもあった。何せこの男には、勇者であるという事実以外、何も無いに等しいのだから。
この言葉が、この男の精神を形作り、そして精神は肉体を作ってきた。幼い頃からこの警句に晒され続けているのである。魔王を倒すという目標に進まない限り、他者との接点を持つことが出来なかった。
精神を安定させ、そして自分がすべきことを警句に基づき考える。
(路銀を稼ぎ、仲間の元へと戻って、魔王を倒す。これだけだ。なに、簡単なことじゃないか。今まで通り、うまくやっていけばいい)
そのために今できることは、床が乾くのを待つことだ。勇者はそう結論づけた。
○
家に着くころにはすでにあたりは赤くなっていた。山際に太陽が隠れ、しんとした森の暗闇をより一層深くしている。勇者の頬に冷たい風が当たり、短めに整えられた金色の髪が僅かながらに揺れている。
「戻りました……」
そういいながら扉を開けるも、不思議なことに誰もいなかった。明かりもついておらず、暗い。ガラスの窓から差し込む夕日のみが部屋を照らしている。
「あのー……誰かいませんかー?」
返事はない。まさか誰もいないだなんて、そんなことがあり得るのだろうか。
部屋を見渡してみるも、特におかしなところはない。だけれども、勇者としてのいわゆる『勘』が何かおかしいと告げていた。
(空気が違う。このピリつくような不快な感覚は、忘れるはずもない。おそらく近くに……魔物がいる)
魔境で嫌というほどに浴びてきた殺気を今、この瞬間向けられている。姿は今のところ見えない。
扉の横に立てかけられていた箒を手にし、ゆっくりと奥のほうへと進み始めた。武器としては心もとないが、今近くに武器になりそうなものはこれしかなかったのだ。
部屋の中央にある、木の長い机の上に、一枚の紙きれが置いてあった。
そこに何か書いてある。文字か何かだ。
「『思い出せ』……」
奇妙な汗が頬を伝う。
これは一体、なんだろうか。誰が書いたものだろうか、分からない。何より不思議なことに、これは自分の筆跡なのだ。
次の瞬間、勇者の視界からあらゆるものが消え去った。
正確には、大質量のものが勇者の左腹部に衝突――つまり、吹き飛ばされたのだ。
吹き飛ばされながらも、勇者の視界には、見るも無残に破壊された壁と、その奥に佇む異形の姿が映っていた。
皮膚は暗く、夜の暗闇を連想させるような濁った青。紐のような、ミミズのような、おおよそ受け入れられない何かが皮膚の上を這うように絶え間なくうごめいている。
一応の四肢はあるものの、それだけだ。
魔物。ああ、なんと恐ろしいことか。
(目測からして4mほど、ボア……いや、オークタイプか。これほどのものは……見たことがない)
勇者はというと、どうやら無意識のうちに防御を行い、軽傷で済んだようだ。
受け身を取り、すでに体制を立て直している。
(ここに魔物がいるということは、ダイナーさん達は……)
誰にでも予想できる簡単な事実だ。
勇者は、あまり考えないようにした。
勇者がすべきことはなんだ?
同情することではない。魔物を殺し、魔王を倒すことだ。
思考を鈍らせてはいけない。
『魔物を倒せ』
倒す。
魔物を倒す。
魔物は存在してはいけない。
あいつは、殺さなければならない。
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