5 怒りの発露
湖沿いの道をしばらく歩き、勇者は、かなり開けた場所に着いた。恐らく先ほどの湖と同じほどの広さであろうそこに、ウシ達が悠々自適に寝転んだり草を食べたりしているのが見える。
なんとものどかな風景だ。
「ここは……」
勇者は、少し呆気にとられていた。そして少し、感動もしていた。空の青と、草々の緑のなんとも美しいことか。思えば旅の間、人間以外で見る生き物と言えば、魔物か野犬ぐらいなものだったのだが。まだこんなにものどかな場所があったとは。
「ほら、こっちだ」
ダイナーがせかすように勇者に呼びかけた。
「どうしたんだ。別に初めて見たわけじゃないだろ?」
「は、はい。すぐ行きます」
実は、生きたウシというのはこの勇者は初めて見るのだが、当然ダイナーは知らない。彼に促されるままに、近くにあった小屋の中へと入る。
その建物の中には、これまたウシ達がいた。
「君には、そうだな……まだウシ達に触らせる訳にもいかないし、掃除でもしてもらおうか」
「掃除、ですか」
「そう、掃除。ほら、空いてる場所があるだろ。ウシが外に出てる間に掃除をするんだ」
そう言いながら、バケツとデッキブラシ、ピッチフォークを勇者に手渡した。
「ゴミは外にためておく場所があるから、そこに。ある程度ゴミを掻き出した後は、水で洗い流して、乾燥したら外に積んである藁をしいて、仕事は終わり」
「わ、分かりました」
「ウシ達は暗くなったら勝手に牛舎に戻ってくるから、終わったら戻ってきてね。それじゃあ頑張って」
そう言うと、ダイナーは建物から出て行ってしまった。
(さてと……まずは、ゴミを出せば良いのかな?)
手探りながらも、仕事を始めることにした。
○
(えーと、後はだな……乾くまで待てばいいのか)
藁や何やらを掻き出し、備え付けてあった魔道具で水をくみ、床を洗った。目測では、恐らくあと数十分もあれば乾くだろう。それまでは、暇な時間だ。時計の針は今二時を指し示している。乾くまでは、まだ時間がある。日没までは、なおさらまだまだ遠い。
ふと、今まで旅を共にしてきた仲間の事が脳裏をよぎった。勇者の仲間達――魔法使い、戦士、僧侶の三人だ。
(……こんな所にいて、俺は良いんだろうか)
魔王を倒し、世界を救うことが勇者に課せられた使命である。今、彼はそれを放棄しているのも同義だ。責任を持ち、勇者としての使命をまっとうするのなら、今すぐにでも仲間の元へと向かうべきだ。
想像がついていると思うが、勇者というものは、とても強い。それこそ一騎当千、他を寄せ付けない圧倒的なまでの力を有している。たとえ聖剣が無くとも、裸一貫で長旅をするぐらいの芸当はこの男ならば可能だ。
だからこそ、少しばかりの罪悪感をこの男は覚えているのだった。
「うわ。ホントに働いてる」
そんな事を考えていると、誰かが背後から声を掛けてきた。声の方に顔を向けるとそこには、ダイナーの娘、アインが立っていた。
「これは……何してるの?」
「今は、床が乾くのを待ってるんだ」
「ふーん……」
そのまま、特に会話も続かないまましばらく時間だけが過ぎていく。
(気まずいな……)
「ねぇ、あなたって、あの納屋で何してたの? 服も着ないで、戻ったときには気絶してたから縄で縛っちゃったんだけど」
アインの方から話題を持ちかけてきた。
「あれは……寒かったから」
「寒かった?」
「湖に落ちて、ずぶ濡れだったんだ。ほら、ここって結構風が吹いてるし」
「そう。私はこの辺りでしか生活してないから分からないわ」
「そうなんだ……」
しかし、また気まずい空気が流れ始めた。どうしたら良いのかと、勇者は考える。ちょうど、6~7歳ほど年下の子と話す話題なんて、そうそう見つかるもんじゃない。それに言動からして、この子が勇者に対して強い警戒心を覚えていると判断するのはたやすいことだ。
「……まどろっこしい事は無しに、単刀直入に聞くわ。あなたって、何者なの? 何が目的? お父さんは騙せても、私は騙されないわ」
警戒心をむき出しにした問いに、勇者は思わず面を食らった。こんなことを直接言うとは、かなり肝の据わった子だ。それとも、ただ根拠の無い万能感に溺れているのか。
「何者って言われても、なんて答えればいいか……」
「お金目当て? あいにく、うちにはお金なんてないよ」
「いや、決してそんなことは」
「国の偉い奴らが、いるかどうかも分からない魔王を倒すためだとかなんとか言って税金をたっぷり搾り取ってるからね。実際にそれに使ってるかなんて、怪しいよ」
「そうなんだ……いや、待ってくれ。魔王がいるかどうかも分からないだって?」
「そうだよ。そいつのせいでお兄ちゃんが居なくなったんだから」
「…………」
アインの言うことを聞き、勇者は少し、奇妙な感覚を覚えた。心の内がモヤモヤするような、そんな感覚だ。勇者はこれが何か分からなかったが、これは恐らく怒りというものだろう。魔王の事を『いるかどうかも分からない』と。この子はそう言いきった。そのことが許せなかったのだ。
「何?」
「魔王は、いるよ。実際に存在してる。空想上の存在なんかじゃ無い」
勇者はアインに対して反論した。しかし、
「あーー……そういえば、自分が勇者だとかなんとか言ってたね。もしかして、そういう感じ?」
言動からして、アインはあまり信じていないようだった。
「……『そういう感じ』ってのは、どういうことだ」
「どうもこうもないよ。あんたが、頭の弱いかわいそうな人だってこと」
「なんだって!?」
驚きのあまり、思わず立ち上がる。このとき勇者は、己の感情を制御できていなかった。
「ちょ、ちょっと! 落ち着きなって!」
「落ち着いてられるか!」
感情のままに頭をかきむしり、言葉を露呈する。
「……あぁ、もう。いいか、魔王は実在して、それで勇者もちゃんと居るんだよ。そしてその勇者が、この俺だ!」
「そ、そうなんだ…………」
二人の間に、なんとも言えない空気が漂い始めた。