2 変態に間違われまして
勇者は藻や魚を怖がりながらも、何とか小屋が近くにある岸へと泳ぎ着くことができた。下を見ると、全身の皮膚や毛に泥や水草がいくつも絡まっていて、簡単には取れそうになかった。
このままでは、魔物と見間違えられてもおかしくはない。それほどまでに異様な姿だ。早いところ、何か文明的なもの、例えば服とか、最悪局部を隠せるものなら何でもいい、用意しなければ。
だが、他人の目を気にするよりも重要なことがあるということを、この男はすぐに理解することになる。
濡れた皮膚が乾くにつれて、体温をどんどん奪っていく。長いこと魔境で活動していたせいか、季節というものを長らく実感することはなかった。だが、今の季節は冬だ。生き物は体を休め、しんしんと降る雪がそれを覆い隠す。そんな時期だ。
幸いなことに、雪は降っていなかった。しかし、風は吹いていた。聞いた話によると、遠くの地にいる山の民は風を、特に冬場の、雪つぶてを伴ったものを死の象徴として恐れているらしい。この風は、それに匹敵する――と、この男は考えた。事実こんなところで倒れたなら、物理的にも社会的にも命の危機である。
震える体をさすりながら、一番近くにあった小さな小屋へと入った。人様の家に勝手に入るのはいかがなものかとも考えたのだが、今は緊急事態だと自分を納得させる。
自分の身長の倍はあるだろうという大きな扉を開くと、中からまず最初に獣の匂いが漂ってきた。
(しまった……)
この小屋は人が住む家ではなく、動物が住む納屋だったのだ。当てが外れてしまった。人の気配はしない。代わりに馬がいるだけだ。もし人がいたのなら、自分が勇者であることを明かし、服を一着、なんなら暖かいスープかミルクでも貰おうと考えていたのだが――
(だめだ、もう限界!)
寒さに耐えかねたのか、この男はあろうことか馬の隣に積まれた藁の山に突っ込んだのだ。暖かいには暖かい。だが、馬がつぶらな目でこちらをじっと見てくる。いくら馬とはいえ、さすがに恥ずかしい。
「あぁ、あんまり見ないでおくれよ……」
当然馬に伝わるわけもなく、尻尾を揺らしながら抗議するかのように変わらず見てくる。馬からしてみれば、こんな寒い日に、いきなりベッドに知らない人間が潜り込んで来たのだから、いらだつのは当然だ。
ブシャァッ!!
今度は思い切りつばをかけられた。すでに全身は濡れているというのに、さらに顔面がずぶぬれだ。水と違ってぬるぬるしているし、なにより臭い。
(なんて日だ…………)
今日は不幸続きだ、とこの男は思った。今日起こったことといえば、いきなりこんな田舎に飛ばされ、水の中に叩き落される。寒さに耐えてここまで来たと思ったら、つばを吹きかけられる。確かに、不幸といえる。
ふと、頭に一つの考えがよぎった。
(そういえば、なんで俺ってこんなところにいるんだっけ……)
至極まっとうな疑問だ。人は自分が何をしているのか、していたのかに多大な注意を払う。もしそれが重要なこととなら、なおさらだ。勇者がしていたことなら、なおさら重要だ。
(たしか今日は……街から出発して、魔境の中にある……魔王の根城に向かってたんだ。その後は……魔物に出会ったんだっけか。だめだ、記憶があやふやだ。なんでかわからないけれど、思考がまとまらない。疲れてるのか?)
ほんの数時間前にしていたことについて考えをめぐらすと、なぜか頭に霧がかかったようにうまく考えられなくなる。
(多分、魔物に出会ったのは確実だろう。なら、そいつにここまで転移させられたのか……?
だったら、急いで戻らなければ――――)
その時、納屋の白い大きな扉がギィーという音を立てながら大きく開かれた。そこには15、6ほどの、オーバーオールを着た女が立っていた。
その手には長い柄の先が5本に分かれた、ピッチフォーク、つまり藁に刺すやつが握られている。
「誰かいるの? 出てきなさい!」
おそらく、扉が完全に締まり切っていなかったのだろう。それか、入るところを見られたかだ。
ここは、潔く出るべきだろうか? しかしそうすると、お年頃の女の子の前に我が息子をさらけ出すことになってしまう。それは勇者としていかがなものか。
いや、それでも、ここは正直に出るべきだ。この男は愚かにもそう考えた。やめておけばいいのに。
「やぁ、お嬢さん。ちょっといろいろ事情が――「きゃぁっ!!、へ、変態だっ!!」
黄金色の藁と、体毛が何とも言えないコントラストを生み出している。そして彫刻のように鍛え上げられたその肉体が、水にぬれたおかげで光沢を増していた。確かに、これは変態といっても過言ではない。
「お父さーーん!! 納屋に、納屋に変態が!!!」
ピッチフォークを胸に抱え、長い髪を揺らしながら納屋から駆けて出て行ってしまった。
このままでは世界を救うどころか、お縄についてしまうだろう。はたして、この男は無事に誤解を解く事ができるのだろうか。
……いや、これは誤解でもなんでもないだろう。