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砂漠の家  作者: 言代ねむ
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5《体調不良》後半

 気分の悪さに身悶えする他はできることもない。必然的に近くにいる彼女を眺める時間が多くなった。彼女にしても、こちらを見て座るばかりでなにをしているわけでもなく、観察対象としは面白味に欠けるのだが。

「髪が……」

 私はふと気になって彼女に手を伸ばしていた。胸のふくらみに流れかかる一房に触れようとしたのだが、届かないのが残念だった。

「ぼさぼさですね、昨日、洗って差し上げられるとよかったのですが……」

 広大な荒れ地の始まりの位置にあるため、建物の外にでると大抵はすぐに砂埃を浴びて、髪はがさがさと手触りが悪くなる。私は彼女の髪を洗う作業が好きだ。庭のハーブを摘んで作った湯で丁寧に洗って梳かすと、彼女の黒髪は艶やかにまとまりを持つようになる。その変化が楽しい。しかし彼女自身は、さほど上等ではない自分の髪を手入れすることに関心がないようだった。面倒なのか、すべて私に任せきりだ。

 自分が他人のことをどうこう云える人間だとは思わないが、彼女は生きるには不向きな人間だと思う。眠る時間と起きている時間が昼夜逆になっているために、他人が起きている昼間は眠そうにしていて、夜になると目が冴えて退屈を持て余し他人の家を覗いて歩く。手伝わなければ風呂に入ることも面倒がる。ここではかまわないのだが、料理もしないし、掃除も洗濯も繕い物もしない。庭の畑で農作物を育てることにも興味を向けない。

 他人とは生活リズムをずらしているのに、他人の手助けがなければ成り立たない生活を送る。

 私は時間があれば彼女の肌荒れに薬を塗り、眉の形を整えて、顔のうぶ毛を剃った。手入れすれば美しい顔をしているのに、彼女は洗うくらいしかかまわない人だからだ。

 いつだったか彼女の髪を梳かしたあとに、彼女の眉を剃り整えながら思いついて、私が「化粧品とドレスがここにあれば、あなたを飾れるのに……」とつぶやくと、彼女は半眼の白けた視線を私に送った。

「食事は……どうしていますか。焼いたパンはどれくらい残っていますか」

 髪の話題に反応がなかったので、続いて話しかけた。

「私のことより、自分のことを心配したら」

 冷たく提案されたので考えてみたが、それは合理的でない気がした。

「自分のことを心配しても、なにもできませんから」

 かすかに笑った私に、彼女のいらだちが皮膚の下で脈打った。その反応に苦笑いする。そんな風に、寝込んでいる間、私と彼女の間の空気はきわどくも表面的には穏やかに過ぎていった。

 一度、寝込んでから姿を見ていないペットがどうしているか彼女に尋ねた。ペットに恨みのない彼女が、水浴びをしてた、と簡単に教えてくれた。ペット自身が水を用意はできないので、おそらく私が厨房の隅に汲んでおいた皿の中でのことだろう。彼女にペットの世話は期待できないので気がかりだったが、自分で水を補給しているのならば放っておいてもしばらく生き長らえるはずだ。


 時刻は昼のようだった。寝ぼけて無意識にまた、かたわらのテーブルに腕を伸ばしていたらしい。指がはじいた器が床に落ちる軽い音で目が覚め、とっくに水を飲み干していたことを思いだす。

 宙をかすった私の手の横で、蝋燭はぽつりと黒い芯を立てて冷えている。部屋の中は窓の隙間からの陽光で仄かに明るい。彼女の姿が視界になく、椅子の座面がぽっかり空いている。彼女は眠っている時間だ。

 靄のかかった重い頭を転がし、枕に頬をつけた。見張られる緊張から解放されて、一息をつく。痺れるような苦痛の奥で、疲れたな、と思った。

 なぜか物音がした。扉の向こうからだった。眠っていると思ったが、彼女のようだ。鎖をひきずる音がする。

 目を見開いた。

 しばらくして扉の影から現れた彼女が手にしていたのは、湯気の上がる木の皿と金属の杯だったからだ。

 私からのはりつく視線を頬で受け流して、彼女が二つの器を燭台を置くテーブルに置いた。

 気になって肘をついて身を起こした。金属の杯には薄茶色の湯が、皿のほうには煮崩れた空豆がごろごろとしたスープが入っている。スープを浸すパンが見当たらない代わりに、スプーンが皿にさし入れてある。なんの変哲もない、毎朝見慣れたスープだ。だが自分が最後に空豆のスープを作ったのは三日前だ。二日前にそれはなくなったはずである。

 口からようやく絞りでたのは、一言だけだった。

「……料理、できたんですね」

 衝撃的な事実だった。

 私がいつまでも不審そうに二つの器を眺めていると、彼女が金属の杯のほうを手にとって自分で中身に軽く口をつけた。かすかに眉をしかめて、そうして一口を飲み下すと、半ば押しつけるように私にさしだした。そうして私はやっと、これらが私のために用意されたものだと確信する。行動の意味もわかる。毒味なのだろう。だが保証であるべき表情に不安を覚える。

 疑念を残しつつも、彼女が飲み込んだのは確かなので、私も上半身を起こして受け取り口をつけた。独特のさわやかな香りが鼻に入る。普通に蜂蜜とミントの葉を入れたお湯のようだった。

「前から思っていましたが、ミントの味が嫌いなんですか」

 飲み物に口をつけるときの彼女の表情が、食事のたびに気になっていたのででた言葉だが、つまらない質問も気まずい質問と同じように彼女は相手にしない。だが水に手を加えることは仕方のないことだった。森を外れたこの荒れ地で手に入るのは、庭の古井戸の水くらいで、そのまま飲むには不向きな雑味と匂いがある。ハーブも蜂蜜も、ときに蜂蜜の代わりに使う塩も、匂いと味を誤魔化すために必要だった。

 次に彼女はスープの器を手にとってぐるぐると全体をかき混ぜ、息を吹きかけてから同じように自分で口にした。今度は眉をしかめずに咀嚼して飲み込む。そうしてスプーンを戻した木の皿を、無言で私が持つ金属の杯と交換した。掬いあげるように私に視線をあてる。食べるように勧めているのだろう。

 変な緊張を味わいながら、彼女の視線に促されて空豆を口に入れる。二日ぶりの食事は、味がよくわからなかった。体調が悪いことも原因だっただろうし、二日間、水すらろくに通さなかった舌が鈍くなってもいたのだろう。

 それでも空腹は感じているので、二口、三口、と口に運んでいると、塩味が感じられるようになった。不味くはないのだと思う。彼女の顔を見る。なにを考えているのかわからなかったが、瞼が腫れぼったいことに気がついた。普段なら眠っているこの時間帯に起きているためだ。

 自分以外の人間が作った食事を食べるのは何年ぶりだろう。奇妙な状況だと思った。寝込んだ私のそばには鎖でつながれた女性がいて、鎖でつなげた私のために料理を作る。

 このスープの中には、実は毒が入っているのかもしれない。彼女が口をつけなかった部分、あるいは全体に一口では効かない程度の量を。解剖のための死体の保存に使っている薬品には、毒物になるものがある。私が眠っている間に彼女が薬品箱を開けて手に入れることは可能だった。

 そうだとしても、もうかまわないと思った。ただ自分の舌がスープの味をあまり感じられないことが残念だった。

 半分ほど食べた。

「すみません、これ以上は入りそうにありません」

 断って器をテーブルに戻したが、彼女はなにも云わなかった。お湯のほうをもらって、二口ほどを飲んだ。

 尋ねたいことがあるが、彼女と会話する気力が湧かない。身体をベッドに潜らせた。

 彼女は黙ってそれまでのように私を眺めていた。

 見計らってのことだろうか。彼女は私がうとうとし始めると前置きなくぽつりと、私の母親が、と話し始めた。

「……いつだったか近所のおばさんと話してた。……うちの娘たちは、私が寝込んだときにしか食事を作らない。掃除や洗濯もそんなときにしかしてくれない。不出来な娘たちだ、私は苦労をしている、って……」

 彼女から家族の話を聞くのは二度目のことだった。一度目は、両親がいて帰るべき家がある、とだけ。彼女に姉妹がいることを初めて知った。

「ねえ……どうなのかしら。そうじゃないと思う私の頭がおかしいのかしら。……あなたは、私の母親は不幸だと思う?」

 彼女もまた眠気を感じているのだろう。裏返した指で口もとを隠して欠伸をひとつ洩らした顔は、魂を削りとられたような、感情の抜け落ちたものだった。

 彼女は私にどんな答えを期待しているのだろう。それともこれは単に彼女が恋しい家族を思いだすための、答えなど必要のない他愛ない一人言なのだろうか。

「さあ、私には……夢物語のような……ただただ、幸福な話に聞こえます……」

 私はずぶずぶと眠りに落ちた。


 頭痛とめまいが消えたのは、彼女からスープを受け取った二日後のことだった。いつもなら眠っている昼間に動いたために疲れたのか、彼女はあのあと丸一日姿を見せなかったが、気がつくと枕許のテーブルには、水と食べ物が載るだけ載せられていた。食料庫に残していた覚えのある干し林檎とショウガの蜂蜜漬け、それから胡桃が一つの皿に山盛りになり、眠る前に半分を食べ残した空豆のスープは再び器に満ちていて、さらに料理が一品増えていた。

 アーモンドミルクでやわらかく煮た小麦の粥だ。蜂蜜と少量の塩で味付けされている。もちろん、私が作ったものではない。卵も牛乳も手に入らないこの荒れた土地で作るなら、一番病人に最適な料理だろう。消化しやすく、栄養も多い。彼女にそんな気遣いができたことが一層私を驚かせた。だがその気遣いが私に向けられたことが、もどかしいような、歯がゆいような、単純に喜べない奇妙な居心地の悪さを残した。

 礼を伝えようとしたのだが、昨日の夜に一度だけ現れた彼女は、私が寝ぼけているうちに私が減らした食物と水を補給して、さっさと部屋をでていってしまった。行動の急変の理由はわからないが、正直、眠るときには誰もいないほうが自分を繕わずに済むので心身が休まった。

 そうして起き上がって歩ける程度に回復した私は、まず五日ぶりの湯浴びの準備を厨房で始めた。袖をまくって庭の井戸から水を汲み、炉の鍋で沸かす。時間は正午頃だったが、物音で眠りから覚めた様子の彼女が、厨房の入口に髪に寝癖をつけてひょっこり姿を見せた。

 普通に立ち動いている私を、ちょっと驚いたように見つめているので、笑って声をかけた。

「少し待ってください。先に私が身体を洗ってしまいますから、そのあとで新しく湯を沸かして、あなたの髪と背中を洗いましょう。それとも夕方まで眠っていますか」

 普段なら先に彼女に湯を使うのだが、寝込んだあとの汚れた身体で彼女の入浴を手伝うのは気が進まなかった。

 彼女は質問には答えないで尋ねてくる。

「……スープとお粥の味、どうだった」

「美味しかったです」

 お礼の言葉を云い逃していたこともあって、あまり考えず即答した私に、彼女が軽蔑に目を細める。

「嘘吐き。味なんてほとんどわからない体調だったでしょう。あなたのそういう偽善的なところ、嫌いだわ」

 どうやら記憶をたどって正確に答えるべきだったらしい。安易なお世辞を反省する。

 だが内容がどうであれ、そっけない態度に慣れた私には会話というだけで喜ばしい。体調不良が原因の憂鬱は、体調が戻れば回復していた。浮かれた私は答えなど期待しないで云った。

「嫌いではないところなんてあるんですか」

 少し考えてから彼女は答えた。

「……あなたの、恩着せがましくないところは、好きだわ」

 硬直する私に、彼女はごく静かに続けた。

「自分が命を助けたのだから、とか、自分が世話をしてやっているからお前は気楽に生活していられるんだ、とか、あなたは一度も云わないから」

 私は突然、恐ろしさに震える心地になった。ややして危うい橋を渡り終えたような安堵を感じた。思いがけず自分へよせられていた好意の理由が不確実なものであったからだ。

 私は心にこうと決めて彼女が評価したそれらを口にしなかったわけではない。ふりかざすように使うつもりこそないものの、なにかのはずみで口にしていたかもしれない、これからもなにかのはずみで云ってしまうかもしれない、そんなたまたまが重なった結果だった。

 私はどんな顔をしていたのだろう。彼女が私に近よってきた。私より背の高い彼女は身を屈めて私の顔を覗き込んだ。

 互いに互いの考えていることを表情から探ろうとしていた。言葉を使ったほうが早いのだろうに。

 彼女の青い瞳は暗く沈んで光を感じられない。のろのろと死んでいくような気配がする。鎖につながれた自分の未来に、すっかり嫌気がさしているのだろう。

 先に探りあいを放棄したのは私だった。投げだしてしまうほうが楽だったのだ。

「私は、たまたま機会がなくて云わなかっただけですよ……」

 諭すような口調で、彼女の瞳に負けないくらい暗い微笑を返していた。

 ぴりっと彼女の瞳に静電気のようなものが走った。眉をひそめて彼女が云った。

「なぜそんな云い方を?」

「……事実だからです」

 幻滅されるなら、早いほうがよかった。曖昧にほほえむ私に、彼女の瞳が怒りで生気を帯びていく。

「あなた変。どうして責めないの? どうして最初からあなたを助けなかったのか怒らないの」

「あなたこそ、どうして途中で私を見殺しにするのをやめたのですか」

 当然とばかりに彼女は頬を膨らませた。

「気が済んだからに決まってるじゃない。あなたを許していないからとりあえず放っておいたし、一人でどうするか知りたかったから眺めていたし、放っておく私になにを云うか興味があったから側で聞いていた。そのあとは、あなたに水や食べ物をあげても……」

 あきらめてください、と私は彼女の言葉尻を遮って懇願した。

「私のことを許さなくてもいいので、ここから逃げだすことをあきらめてください」

 私は彼女の左手をとって両手で包んだ。彼女が変な顔をしている。困惑と嫌悪の混じるその瞳。私でなくてもここを誰かが通りがかれば鎖を異常に思うわ、と呻くように非難する彼女を、私はなだめるように説得を続けた。

「……あなたは自力で生きるには向かない人です。けれども私はそれを補うことが苦痛ではありません。あなたもここにいることを望んでください。私はあなたがどんな生活を送ろうとも、ご両親のようにあなたを責めません。ここにいてくださるなら、私はあなたが生きていてくれるだけでいい」

 口にだしてみると、矛盾ばかりに感じていた自分の気持ちに納得ができた。私は彼女に自身のことすらなにもできない人間でいてほしいのだ。そうであるほうが彼女をここに留める正当な理由になり、私が丁寧に世話をすることで、彼女の心理に、なにがなんでも逃げだす必要はない、という枷をかけることができる。

 私は彼女の手を強くにぎり、彼女を縛る呪いの言葉を吐き続けた。後退りする彼女の足元で、つないだ鎖が重い音を立てる。

 とても素晴らしいことを閃いて私は云った。


「ああ、そうです、あなたと私で家族になりましょう。ここを誰かが通りがかったら、あなたを私の妻と紹介するのです。誰かが行き倒れるならまた助けて、お年寄りなら私たちの親として、幼子なら私たちの子供にして、皆で家族になりましょう」










《終わり》


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