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砂漠の家  作者: 言代ねむ
5/6

5《体調不良》前半

 彼女の鎖が切れる一ヶ月ほど前のこと。

 彼の砂漠の家での生活。


 ひやりとするシーツを首にひきよせつつ、ぼんやり目を開けてまず思いだしたのは、昨日眠る前にひどい頭痛がしていたことだった。深夜に長時間スケッチをしているため、肩凝りはいつものことだった。暖炉のない部屋で身体を冷やしたのも一因だろう。だから眠って血流が戻れば回復するだろうと考えていた。だがいま、鼻の奥から後頭部の間、それから肩にかけてもやもやと痺れるような不快感がはりついている。普段より輪をかけえた疲労感に身体が沈む。

 額に腕をやったとき、ごほごほと咳き込んだ。一瞬身体が冷たくなるような恐怖を感じた。ただの疲れならさほどの問題ではないが、感染症だったら……。両手を表、裏、手首、それから腕と傷の有無を調べる。爪の色も確認して、とりあえず胸をなでおろす。

 身体をベッドで反転させて窓を見た。この住処は、元は廃墟となっていた小さな二階建ての修道院だ。貴族の屋敷でもなければ高価なガラスなどはまっているはずもなく、木の扉が閉じられたそこからは、隙間から細い光が漏れていた。夜が明けている。普段なら、昨日の夕食の残りのスープを温めるだけの、自分一人分の食事の支度を始めている時間だが……このまま意識をシーツに沈めたい。

 一人きりの同居人のことを思った。この時間なら彼女はこれから眠るところだろう。身の回りのこともその他のこともなにもしない人だから、彼女が起きる夕方には私が食事の準備をしておかないと彼女の食べる物がない。 体調の回復を祈って瞼をおろし、意識を手放した。


 次に目が覚めると、枕許に人の気配があった。唯一の同居人が、オレンジ色の薄明かりを受けて表情なく立っていた。私はあわてて反対側の窓に目をやる。窓からの光は赤く変化していた。どうやら夕方まで寝過ごしてしまったようだ。悪いことに、身体を横たえたまま反転させただけなのに眩暈がする。

「……お腹空いた」

 私を見下ろす私よりいくらか身長のある同居人が、子供のように訴えた。食事の用意ができていない。頭に響く痛みを押さえるように眉間に手の甲を置いて考えた。

「すみません……昨日の夕食の空豆のスープが一人分ほど残っていたと思うので、それと……戸棚のパンを召し上がってください」

 詫びながら、自分の声が枯れていることに驚いた。

 彼女がようやく異変を覚えたように首を傾げた。

「具合が悪い……の?」

 彼女は人見知りをする子供のように、言葉少なに尋ねる。だが声音からは、同情もその他の感情も感じられない。

 二ヵ月前に私が荒れ地で行き倒れているところを助けてここへ連れてきたときには、どちらかというと饒舌で、態度も私と同じ二十代半ばという年齢に相応しい配慮の窺えるものだった。しかしここで暮らすようになって、社会性が一枚一枚剥がれ落ちるように彼女の態度はそっけなく、飾り気なく、感情の抜け落ちたものになった。

 彼女は私と人間関係を築く気持ちがないため、手を抜けるだけ抜いているのだろう。

「はい……申し訳ないのですが、夕食は一人で取ってください」

「……」

 彼女がなにかを考えるように沈黙した。私は痛みの隙間で、斧と工具を置く場所をうっかり他へ変えていなかったかどうか記憶から確認していた。問題はなかった。

「……お風呂は?」

 ややして彼女が尋ねた。

「無理ですね……すみません、今日は我慢してください……」

 これから大量の水を厨房に運び入れ、炉の薪を調節しながら鍋で沸かし、湯を浴びるための大桶を運んでくることがまず無理だ。彼女の髪を洗い、背中を流すことも、できる体調ではない。

 そう、と彼女はまるで無関心に答えて、くるりとベッドを背にした。

 途端に、かすかに金属の擦れあう複数の音が、閉じ切れていない出入り口の扉に向かって床を這った。私は手首の下で薄目を開けて、彼女のスカートの裾から伸びる鎖が、彼女の右足首から外れていないことを確認してから目を閉じる。

 この家に鎖でつながれた彼女は、彼女を鎖でつないだ私を許していない。

 鎖をひきずる音が、足音に遅れて部屋をでた。

 彼女には私への冷めた憎しみがあり、私には孤独がある。

 彼女がここにいる理由。

 私は私の住処で彼女のとった行動に問題があったのだと考えているが、彼女は彼女で私のとった行動に問題があると考えているだろう。

 自分が天涯孤独の身の上だから、行き倒れていた彼女を見つけて、てっきり彼女も自分と同じなのだろうと思った。そうでなければ、私の他に住む人もなく、通りがかる人間もいないこんな寂しい場所へ、一人で来るなど妙なことだった。一番近くの人の住む場所まで、ここからだと徒歩で二日かかる。体調が戻るまで世話をして、彼女に行き先がないのなら、ここへ留まることを勧めようとも思った。

 ここは心が乾いて崩れていくような場所だから、私の言葉に反応さえ返してくれるのなら、寝たきりの老人だって歓迎できる。日々の生活に必要な作業の何事もしてくれなくていい。自分の身の回りのことさえ不自由な人間でいい。

 ただそこにいてくれるだけで、一人きりでここから離れられない私は救われる。

 だが体調のよくなった彼女から事情を確認してみると、彼女は彼女の生活ぶりを責める両親の怒りから、一時的に避難するために家をでたのだと云う。騙されたような気分だったが、仕方のないことだ。なにごともなければそのまま帰すつもりだった。彼女が私の研究を盗み見たりしなければ。

 私の研究は、人体の仕組みの解明を目的としている。正確に云うならば、そのために必要な下積み作業だ。師匠と共に始めた膨大な量の。

 年に二、三度、私の依頼を受けた暗い顔の老人が街から死体を集めて運んでくる。その死体の解剖とスケッチをくり返すのが私の役割だ。誰に決められたわけでもないが、そう考えている。集めたスケッチは半分は手元に残し、半分は師匠の友人の医学者の元へ送っている。老いた彼の手元に集められた解剖図は、やがて彼から彼の弟子などへと受け継がれて資料として役立つだろう。

 人体の仕組みの解明など、私一人で成しえるものではない。私が解剖図を送っている老いた医学者にも、残された時間を思えばほぼ不可能なことだ。そもそも人一人の一生で解明されるような容易なものならば、遠い昔に解明されているはずなのだ。人々の思想を支配する教会の妨害がいつの時代にもあろうとも。

 私は想像する。それは夢想とも云われてしまうのかもしれないが、いつか私より恵まれた環境に生まれる人間の中に、人の生命の仕組みを解明しようと考える人間が現れる。その人間が周囲の妨害をものともせずに研究を続け、やがて堂々と晴れがましい成果を人々に広める  早い時期でのその成功を阻むものが、推察を重ねるための正確なデータが皆無であるという事実ならば、私がその下積みの役割を買ってでる。

 だが晴れがましい未来のために私が行う作業は、人の目にはただただおぞましい。ましてや教会関係者や、熱心な信徒ならば、悪魔の所業と捉える。人間の皮膚と肉の間に手を入れることを、筋を切り離してその様子を描くことを、内蔵を並べて眺めることを、人はよしとしない。

 弁解しようとも理解されはしないが、私にしても死体に触れることが好ましいわけではない。この世に病気や怪我、老いや死があるのでなければ、メスなど持たずにそっとしておきたい。そこに答えがあると思うからこそ、死人を切り開いて腐っていく肉の匂いを嗅ぐことに耐えられるのだ。

 私の研究を覗き見た彼女を帰すわけにはいかない。養父代わりだった師匠のことが頭から離れない。教会の意向にそわない研究を町中で続けていた師匠には、教会関係者からの非難が集まり、危機を感じた矢先、誰ともわからぬ相手から路上で暴力を受け、その傷が元で亡くなってしまった。

 息を引き取る前の師匠の腫れあがった両瞼、変色した頬。切れた唇からの言葉にならないうめき声。腕も頭も腹も脚も、誰かもわからない人間たちから無数の暴力を受けた師匠の身体。

 ひとつでも――、

 内臓の傷のたったひとつでも、この場で私が身代わりになれたなら、師匠は今夜だけでも眠れるかもしれないのに――、と願って手を握り続けても、小さな痣さえ消せぬまま何日も苦しんだ末に冷たくなってしまった。

 どうして同じ人間にこんな惨たらしいことが行えるのか。

「死者は手厚く葬るべきもの。家畜のように切り刻むものではない」

 教会関係者でなくとも、人間の解剖は死者を冒涜する行為だと誰もが嫌悪する。偏見と暴力と否定と殺意と妨害から逃れるために、私は人の集まる場所を離れるしかなかった。

 それから孤独に六年が経過した。

 たとえ彼女が礼儀正しい心のまっすぐな人間であろうとも、私の研究を見た人間をここから逃すことは恐ろしかった。


 いつの間にか太陽が沈んだようで、部屋は闇に沈んでいた。身体の力を奪うもやもやとしたものにのしかかられながら、押し潰される身体で聞き慣れない音を扉越しに聞いた。初めはよくわからかったが、やがて重いものを休み休みひきあげつつ階段を登っているように思えた。ゆっくりとしたリズムだった。闇に慣れた目をすがめて扉が開くのを待った。

 やがて扉の前でしばらく音が止まり、予想通りに同居人が現れた。右手に小さな火の揺れる燭台と、左手に厨房にある椅子を持っていた。物音に鎖をひきずる音が混じっていたから、彼女だとわかっていた。

 彼女は私の足のほうからベッドを回りこんた。扉は少し開いたままだ。彼女の足の鎖が一階から伸びているので、どの部屋も彼女が入っている間は閉め切ることができないのだ。

 そうして窓を背にして、私が燭台を置いている小さなテーブルに自分が運んできた燭台を並べて置き、枕許に椅子をよせてそこに腰を下ろした。

 私と彼女の間で蝋燭の淡い光が互いの顔を照らした。

「……ルナリアさん、どうしたんですか」

 私は蝋燭の光がまぶしく、腕を裏返して遮りつつ、首を彼女へ向けた。彼女が好んで私のそばへくることはない。不可解な行動に戸惑った。

「……見にきた」

「私を?」

 困惑して聞き返す。答えは返らなかったが、否定の仕種もなかった。

「いまは話し相手に、なれそうにありませんが……」

 自分でも半信半疑で云ってみるが、女は冷ややかなまなざしで私を見下ろしている。

 さらに言葉を重ねようとして咳き込んだ。のどの奥が干上がっていた。もがいてシーツをつかみ、海老のように背を丸める。左手の親指と他のすべての指の関節で、のどを絞めるように気管を押さえた。

「……すみません、が、ルナリアさん、水を……、汲んできて、もらえません、か……」

 目頭で涙を絞り、乱れた息の下からようやく漏らした懇願は、彼女の耳にはまるで入らないようだった。変化のない瞳の温度が私の胸に伝わった。手のひらに落ちた雪が形を失うように、私の困惑は急速に収まった。

「……私の苦しんでいる様子が見たいのですか」

 私の静かな問いかけに、静かな瞳で彼女は答えなかった。


 胸の底にひとつきり残って灯っていた蝋燭の炎が吹き消され、途端に闇がふくらんだような心地がした。

 リズムを崩したように下手に吸い込んだ空気がのどを刺激し、私は激しく咳き込んだ。額を枕に埋め、目尻から私は彼女を睨みあげた。

「私が死んでも、その鎖を切る道具は手に入りませんよ」

 乱れる呼吸の間から、単語を必死に吐きだして私が伝えたのはそんな言葉だった。

「鎖を外す手段があるのですか。そうでなければ、あなたは鎖につながれたまま飢え死にです」

 呪いの言葉だと自覚した。ひどい雑音交じりだが、聞き取れないはずがない。私の目を見て理解できないはずがない。

「見殺しにするなら、あなたには準備が必要です」

 顔色を変えない彼女の瞳に、自分の見苦しさが映ったような気がした。咳が静まり、呼吸が整うにつれて、急速に冷静になっていく。

 彼女には私を恨む理由がある、という事実がすとんと胸に落ちてきた。

 私は緩慢な動作で仰向き、頭を枕に沈めて姿勢を正した。胸の上で両手を重ねる。

「……ルナリアさん」

 穏やかな声が作れたことに安堵する。

「私はしばらく眠ります。……水はあとで自分で汲んでくることにします」


 一眠りしたあと、一階にある厨房によろよろと降りて水瓶を覗いた。汲み置きの水は濁りのある不快な味だが、普段のように沸かして味と香りをつける気力はない。木製の杯に汲んだそのままをその場で飲み干し、新しく汲み直した一杯を右手に下げ持ち二階へ運ぶ。私のあとをついてきていた彼女が、左手で壁を頼りながら歩く私をぼんやり眺めている。私を助ける気はない。だが邪魔をする気もないようだ。彼女のどういった心理が、そんな行動をとらせるのかと考えることは、なにも得にならない気がしたから、しなかった。


 ベッドの中で丸一日が経った。夜中に目が覚めるたび、こちらを覗き込む彼女の顔がそこにある。私は考えていた。こうして私を助けることも止めを刺すこともない人間に観察されて一人苦しみ続けることは、果たしてこの上ない不幸なのかそうではないのか。

 私は彼女の行動を残酷だと思う。だがもし彼女がここに存在せず、そう、私が体調を崩したのが彼女が私の元へ現れる以前だったなら、それは現在の状況より幸福なことであったのか。

 私は目を閉じ、この部屋に彼女が存在しないと想像してみる。誰もいないのだから、水を汲んできてほしいという私の希望は叶えられない。私は一人眠り、一人目覚める。目に入るのは見慣れた天井と石を積んだ壁、耳に入るのは荒れ地を削る風の音。私の咳を聞く者はなく、私がここにいることさえ誰も知らない。

 ――なんだ、たいしたことはない。それは私のここでの六年間の日常ではないか。誰にも知られずに死んでしまうのだとしても、以前なら当たり前と覚悟したことだった。

 そう考えるなら、いまの状況だって世界を呪うようなものではない。私は不幸の底に沈んではない。私が苦しんでいることを少なくても彼女が知っている。私が死ぬなら、彼女だけがそれを知る。

 私は意識を現実のほうにひきよせ、枕元のテーブルに置いた杯をつかんだのだが、既にそれは軽かった。シーツから伸ばした私の腕の動きを彼女が目で追っている。彼女が私のそばでとる行動はそれだけだ。

 水分がほしかったが、飲み干した杯に水を満たすために一階まで降りることは、いまの私にはとてつもなく億劫だった。なにも食べていないせいだろう。体調が悪化している。我慢するわけにもいかないトイレに行くのがやっとだ。






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