4《鎖》
椅子に腰かけてスカートの裾をめくる。そっと持ち上げる私の左足には、命の恩人に堅くはめられた鉄輪があって、鉄輪から伸びる細長い鎖で家の床石につながれている。礫砂漠と森の境目に建つ、誰も存在を知らないような広くて寂しい家の床石に。鎖は細いとは云っても指くらいの太さはあって、歩くには引きずるより手に持って引っ張りながら移動するのがいい。壊すには斧を何度もふり下ろさなくてはならないだろう。
まるで罪人のようなありさまだが、待遇だけは以前と変わらなかった。家主は親切で、ご飯もそこそこ美味しい。昼寝はし放題で、課せられる労働はない。鎖の長さの限り、建物の外の散歩もできる。快適と云えば快適なのかもしれない。鳥籠の鳥の快適さだ。
歩くたび、寝返りを打つたびに、足輪と鎖が鬱陶しいが、不自由になった分を償うつもりか、家主は私の身の回りの細々としたことを手伝うようになった。私が身体を洗うときには、湯を用意して背中を流すし、私の髪も洗う。布で拭って、梳かすこともする。
そんなとき、私は彼の顔を確かめる。どんな顔をしてそれらを行っているのか知りたいと思うからだ。
鉄輪の内側に、痣や擦り傷ができないようにと、私の足首にやわらかな布を幾重にも巻き直すときにも。
実際の彼は私の背中を流し、髪を洗い、私の髪を梳かしながら、人形遊びをする幼女のように楽しげだった。これが女を値踏みする視線なら耐え難く不快なことだったと思うが、彼のまなざしは清らかで人の温かさに満ちて、その心を疑いようがなかった。もし幼い娘を愛している父親が心を込めて世話をするとしたら、こんな感じだろうと思えるのだ。彼はただ、自分の側に他人が存在することを喜んでいる。
私にわかるのは、彼が私から理不尽に自由を奪った相手でも、彼を拒絶するのは愚かしい行為だということだった。
彼の抱える孤独に捕まるまいと、彼への拒絶を通せば、むしろ遠ざけたはずの孤独に襲われる。世界の果てまで広がる礫砂漠に一人残されるような心地になる。
だから私は彼の世話を素直に受け入れて、それでも悟り切れない部分で、人間的な関わりを拒絶する。
二人で住むには広すぎる建物の中にポツンと立つとき、中身を失って乾いた卵の殻に、迷いこんだ蟻の気分を味わう。砂粒が殻を叩く音を聞きながら、陽光に丸くベージュ色に透ける殻と、ぎざぎざとした割れ目の空とを遥かに見上げているようだ。胸が空虚になるのは、考える時間があり余っているせいかもしれない。ここでの日常は、やるべきことがない。
私は夜の間中、目を覚ましていて、明け方になって眠る。家主とは違って、夜中に特になにかをしているということではない。自分の家にいたときの習慣で、身体がそのリズムを刻むためだ。ここには私が蝋燭を灯してまで読むような本もなければ、書き物をする気分にもならないと云うのに。
目の覚めた夕方に、ホクロを連れて散歩にでた。私は鎖を手に歩くが、ペットの物ではない。何度か家の方角に戻って鎖をひっぱってこなくては先に進めないのだ。そうして精一杯鎖のたるみを足元に作っても、森に入るには鎖の長さが足りなかったが、自分が行き倒れていた場所にたどり着くことは可能だった。
残念ながら、イリスが最初の日に置き去りにしたという斧は、どこかに片付けられたあとで、私は鎖を切ることができない。だからこれはただの暇潰しの散歩だ。
岩場に先にたどり着いたホクロが、まるで犬がひとつひとつ匂いを嗅いで歩くように、岩や草のひとつひとつに近づいてはその感触を指で確かめている。素早く走るときは、犬ではなく大型の蜘蛛のようだが。
ホクロの存在に慣れた私は、その仕種に和む。初めこそ気味悪く思った改造生物だが、毎日視界の端に入ってくると、犬や鳥を見るような心の余裕が生まれた。イリスの命令に従うところが気に入らないが、他に害はなく、飼い慣らされたペットといった感じだ。
そのペットを、イリスは私が建物の外にでるときに必ず同行させる。見張りのつもりらしい。それから、万が一、盗賊のような輩にでくわしたら、逃げ戻る隙を作るために相手にけしかけて使うように、と。確かにどんな悪党であろうと、ホクロの姿を初めて目にしたなら動揺する。私の監視と同時に、警備も兼ねているらしい。
腕が疲れたので鎖を乾いた地面に置いて、辺りのものに戯れるホクロの姿を、足をひきずりながらゆっくり追った。地面から浮き上がったように点在する岩を二つ三つ回ったとき、鎖がつっぱったあとに急に軽くなった。経験のない感覚だった。鎖は長くなればなるほど重さが増すので、何歩か進むごとに足を蹴りだすようにするか、手で手繰りよせなくてはならない。その単調で定期的な負荷には、ここ三ヵ月の生活で慣れているが、軽くなるとはどう云うことか。
足首を確認するが、鉄の足輪ははまったままで変化がない。ではなにが起きたのかと、そこから鎖を目で追って気がついた。最初に回りこんだ岩の前後で鎖が二つに離れていた。
ホクロを放って戻り、鎖の端を拾いあげた。たまたま他よりひどく錆びていた鎖の輪が、岩の鋭利な部分にこすれて割れたようだった。
私は平地に伸びる鎖を眺めた。柔らかな土を踏むようには残らない足跡の代わりに、硬い地面には私が歩いた道筋を鎖が示している。その先には古い修道院の外観がある。ここからすぐ逃げだせば、森を抜けた先の街にある我が家へ帰れるだろうか。
イリスの家とは逆方向に進むなら、ホクロが戻ってイリスに異変を教えるだろう。ホクロが指で駆け戻る時間と、イリスが異変を知って駆けてくる時間。身体が自由ならば、追いつかれる可能性はまずないが、いまの私が逃げるには、もっともっと時間が必要だ。
足輪は鍛冶屋で外してもらう他ないだろう。二メートルほどの長さがある鎖をひきずって、鍛冶屋のある街までたどり着かなくてはならない。ゆっくり歩くならともかく、走るとなると、どうしても足首には擦り傷が生じる。加えて、足輪と鎖の重み。この左足にどれだけの負担となるだろう。街に入る前に森を抜けなくてはならないが、来るときには二日かかった森だ。疲れた私が休憩をとる間に、彼は私に追い着くのではないか。
ホクロを殺してしまえばどうだろう。見回せば土と岩の大地。辺りには岩から剥がれて生じる小石があるばかりで武器にはならないが、岩に叩きつけたらどうだろう。体重をかけて何度も足で踏みつければ、潰してしまえるのではないか。
それで通報はなくなる。私はイリスが自分で異変を察知するまでの時間で、より遠くへ逃げられる。いや、私は帰るための森の道順を知らない。着のみ着のままで、食料もなく、夜道に明かりもなく、正しい道もわからずに逃げ切れるのか。追いつかれたら、彼は私をどうするだろう。彼は逃げだしたペットを、斧を持って追いかけた。彼の秘密をにぎって逃げだす私は――。
ああ、違う。私が逃げるために殺さなくてはならないのは、ホクロではなくて……。ホクロではなくて……。
暗い思考に気分が悪くなって、その場に座り込んだ。手に入れたチャンスを生かすためになにをするべきか、よく考えなくてはならない。
いや、やるべきことはわかっている。自分にどこまで実行可能なのか、ということが問題なのだ。
砂よけに口を袖で覆って、深呼吸をする。
なにを不安になっている? もともと私は薄情な人間ではないか。友人や知人を模倣して、ありふれた人間のようにふるまって生きてきた。それでもどうしても自分のことが格別に一番で、他人に無関心な人間だ。
必要なことだ、やれる。非情なことだ。でも私は、自分を邪悪な人間だとは思わない。用意された場所で必死に生きている内にこうなってしまったのだ。――だから今度も。
私は心を決めた。
自己確認を済ませたならば、準備に取りかからねばならない。そこらで乾いて生える草をむしって、切れた鎖をつなぐことにした。
水の少ない地域に生える草は、苦労して成長するためか繊維が丈夫だ。三重に巻いて結ぶと、きれいにつながった。ふってみても支障はない。しかし左右の鎖を捻るようにすれば、ぶつりと切れるはずだ。これでイリスを欺き、必要なときに鎖を外せる。
つないだ部分が目立たないかと、歩いて確かめる。大丈夫だった。つながって一本として動いている限り、輪のひとつひとつに目は行き届かない。草の枯れた色合いも、まだらな錆び具合に紛れて丁度良かったようだ。
一応、予想より強度がなかったときのことも考えて、つないだ部分をつかんで戻ることにした。家の中に入ればそうもいかないので、念のために予備の草も袖口に入れる。
ホクロが私の足元に近よってきた。
「内緒、ね」
私はホクロに口をよせ、念を押した。手首から先があるだけに見えているホクロの身体には、実は手首の上にごく小さな目がふたつ並んでいる。いぶかっているのだろう。私を中心に半円を描くように、横歩きで移動している。私が鎖に細工をしたことを見ていたはずだった。ホクロの目の上には耳がある。見落としそうなほどのふたつの穴がそれで、私の言葉を聞く。
ホクロの知能はおそらく犬程度のものだ。イリスが普段ホクロに与える命令の単純な内容や、建物の中での行動から考えてそう思う。ホクロが私のとった行動の意味の正確なところを理解して、イリスに伝えることは不可能だ。
それとも私の前では能力を隠し、主のためだけに発揮するということはあるのか。私はいまとても危険な状態でありはしないか。
「お前、本当はどれだけのことができるの」
見下ろして云った。答えなど期待していない問いかけは、自分でも寒気がするような、ざらざらとした気味の悪い声になった。ホクロは私を見つめて、じっとしている。
自分の心が真っ黒になっているのを感じた。
「……まあ、いいけど」
私は薄く笑ってホクロに背を向けた。鎖を拾いあげ、古い修道院の外観を遠くに眺める。
「帰ろうか、ホクロ。イリスがきっと食事を温めて待ってる」
呪文のように心が同じ内容をくり返している。一人ならば私は逃げられる、食料と明かりを持ちだして、ゆっくりと帰り道を探すことができる。
「お帰りなさい」と厨房に私を迎え入れたイリスは、無表情に無言といった愛想のない私を、いつものことと気にする様子もなく、いそいそと炉に向かって、火を調節するべく私に背を向けてしゃがみこんだ。鍋の中を覗いて、薪の位置を変えている。部屋に染みこんだ薪の匂いに、暖かさが加わっていく。
よく働く、男にしては小柄な背中をぼんやり眺めながら、これが私の家族ならどうだろう、と思った。連絡も入れずに家を空けて、ようやく家に戻る娘をどんな顔で迎えるだろう。
両親はおそらく、イリスのようにやさしい挨拶など投げかけはしない。家をでてから、すでに三ヵ月が過ぎている。自分勝手な真似をした娘への怒りは心配に、心配は私の身の上に不幸が起きたのかもしれないという哀しみになっているだろう。私が戻れば哀しみは安堵ののちに家族を不安にさせた怒りへと戻って、私は怒鳴られながら家に迎え入れられるのだろう。
こんなに長く家を空けるつもりなどなかったのに。
鎖を拾い直す私を、ホクロが私の足元で見上げていた。口を持たないホクロがなにか云いたげに見えるのは、私が自分の心を相手に映しているのだろうか。主以外の人間に従うのかどうかもわからない相手を、視線でその場に押し留め、私は肩幅よりも長さを取った鎖を両手ににぎり、足音を潜ませイリスの背に近づいた。
ふり向かないことを祈った。
両腕に力を入れた瞬間、なぜこんなことになったのだろう、と私の意識は浮遊した。
自分の計画の不備を徹底的に追求しないのは、私の悪いくせだ。どうしてそうなのかと考えるなら、私は結局、私の運を信じていて、特別な幸運に恵まれない代わりに、最悪にもならないと思っているのだ。
ずっとそうだったから、これからもそうだろうと思っている。それが私の甘い見通しで、いつか生きていることを後悔するほどの事態が起こるなら、手を抜いた分の代償として仕方のないことなのだろう。
だがそのときには、私の中の空虚さが後悔の穴を埋めて私を慰める。
イリスに助けられた日、私は疲れ切った身体が乾いた土の上でじりじりと干からびていく感覚に、街で石畳の模様のようになっていた蛙を思いだした。誰にも顧みられず干からびて貼りついた命。私はのろのろと死んでいくかもしれないことが惨めで恐ろしかったのに、いざ助かってみれば、ここに存在しない自分を半ば望んでいた。
あのまま死んでいたら楽だったのに、と。
私は空虚で他人への感謝を知らない人間だ。
……知らない、はずだ。
だが私はイリスの背後で両腕を下ろした。脱力して、私は再び腕を上げることができない。
皿をとるためだろう、立ち上がって移動するイリスがすれ違いざまに何気なく、私の顔に目をとめて手を伸ばした。
「ニキビが治ってきましたね」
私は殺人を試みようとした相手に急に触れられてびくりとする。
イリスは特に不審も抱かず、私の頬を親指でなぞって云った。
「ラベンダーの煎液が効いたようでよかった。不規則な生活が身体のストレスになっているのなら、湿布だけでなく、薬草茶も飲むとよいかもしれませんね」
あなたに軟禁されていることがストレスだ。
「それともカモミールのほうがお好きですか。庭で育てたものが、そろそろ収穫できそうです」
やさしげに云ってくれるが、私があなたを殺そうとしていることには気がつかないのか。
「りんごに似た香りが安らぎますよ。ルナリアさんの部屋に飾りましょうか。カモミールは花が美しい」
気づかれても困るのだけれど。あなたキレると怖いし。
泣きだしたくなった。
私の行動はいつも、計画らしい計画を立てないために軌道修正ばかりだ。穴だらけなのはわかっているから、失敗したときのために、予め最悪の事態を想像しておく。最悪が現実になったときに、取り乱すことだけはないように。
けれども現実は、いつもふたつもみっつもましな事態しか連れてこない。
覚悟するよりふたつもみっつもましだから、投げだすことも自棄になることもできずに、私はその場に取り残されるのだ。
さまざまに浮かぶ思いの、軽いものも重いものも口にだせず立ちすくむ。
私の現実が、昨日洗ったばかりなのに髪が砂だらけですね、とやわらかく笑う。