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砂漠の家  作者: 言代ねむ
3/6

3《帰宅意思》

 家に帰ろうと思います、と窓の外の青空を眺めながら私は切りだした。直前までイリスがペットの話をしていた、午前の食事の席でのことだった。昨日から厨房の隅や庭で小さな物音がするようになったので、ペットが帰ってきたようです、とうれしそうにしていたイリスが、なにを云われたのか理解できないという様子で聞き返した。

「……家?」

「家族が心配していると思うので」

「ご家族がいらっしゃるのですか、私はてっきり……」

 私は家をでた理由を話していなかった。

 イリスがにわかに落ち着きを失う。つまんだサラダを口に入れようか皿に戻そうか迷った挙句、皿に戻して取り皿用のパンの端で指をぬぐった。テーブルに肘をついて両手の指をあごの高さで組み合わせる。

「はい、両親と喧嘩してでてきてしまったので」

「あなたに帰る家が……」

 耳に入った内容をなぞるようにつぶやいたイリスは、恨むように湿った視線を私に向けた。すがるような、あるいは咎めることで相手をひきとめようとするような感情が見て取れた。親切な命の恩人が、私に対して初めて向ける善意以外の感情だ。

 私は申し訳なさそうに、小娘の仕種で首を傾げた。

「ごめんなさい、私がしっかりと説明をしなかったせいですね……。勘違いをさせるつもりはなかったんですけど」

 嘘だった。つもりなど、充分にあった。自分から嘘を吐かなかった代わりに、相手の思い込みを感じながら、否定せずに利用した。温かな同情を集めて床に敷いて、居心地の良い数日間の寝床をしつらえたのだ。

 私の上っ面の謝罪に、イリスの瞳が孤独に悲鳴をあげた。しかし必死に気持ちを立て直そうと、記憶を辿り思考を巡らせる言葉を吐きだす。

「そう……ですね。いま考えれば、ルナリアさんは身の回りの世話を受けることに、慣れていらっしゃる感じがしました……。路上で生活してきたような方だったら、もっと他人への警戒や抵抗があったはず……」

 瞳をかたく閉じ、告げる。

「いえ、あなたが孤独でなく家族がいるのなら幸いに思います。ただ、私としてはもう少しの間、滞在して頂きたいと思っていたので、残念ですが……」

「あなたの親切は忘れません」

 私は椅子から離れて彼の横へと回り込み、そっと彼の手を両手でとって感謝の礼とした。心ばかりの、その心さえない、安上がりな礼だ。要求されれば私の手荷物から小銭くらいを渡せるが、彼はそれを要求したりしないだろう。

「……では帰りの道筋を、羊皮紙に書いてお渡しします。道中の食料も必要ですね……」

 イリスはふらふらと立ち上がった。その様子は床に撒いた殺鼠剤を食べた鼠の鈍い動きを思いださせた。感謝の気持ちもないわけではないので、わずかばかりの同情心を発揮させ、心配するように云った。

「顔色が悪いですよ、大丈夫ですか」

「……いえ、たいしたことはありません」

 否定しつつも、青褪めたイリスは唇に手をあてている。ここまでの反応は単純に私の発言のせいとは思えない。そもそも体調が悪いのではないかと疑う。

 この男は働き過ぎなのだ。一週間を一緒に生活していてそう思った。私より早く起きて料理も掃除も庭の農作業も行い、まだ体調が戻りきっていないと信じて私の世話を甲斐甲斐しく焼いていた。夜には一度寝室に入りながらも、深夜に起きだしてひっそりと別の作業に勤しんでいるのだ。いつ身体が休まるのだろう。

 まるで老いた母親が子供を心配するような言葉だと思いながら、私は口にだした。

「働き過ぎだと思いますよ、イリスさん。少なくても夜はゆっくり眠るべきです」

 イリスは沈黙したあと、疑問符で一杯にした顔をゆっくりとあげた。眉の片方にだけ、透明な石に鋭く入るひびのような歪みをのせて。

「……なぜ私があまり眠っていないことを、ご存じなのですか」

 私は親切を間違えた。

 とっさに返事がでてこなかった。なんでも答えておけば良かったはずなのに。

 遅れた答えは口の中でくぐもった。

「ああ……、音が、したから。起きているのかと思って」

 私の返事が遅れたことで、イリスが疑問を深めてしまった。青い瞳が深刻に問いかけてくる。アナタハナニヲ知ッテイルノダ、と。

 息をとめた私の瞳の動揺が、イリスの疑問に答えた。

 凍りついた顔でイリスが確認した。

「私が死体を切り開くところを、ご覧になったのですね」

 どうして、と悲鳴に似たつぶやきをイリスが漏らして、突然私の両腕に取りすがってきた。瞳がただただ私を大きく映して、今にも亀裂を走らせそうな勢いで私に迫った。

「どうしてですか……? 私はあなたに親切にしたでしょう? こんな場所では足りない物のほうが圧倒的に多い……しかし用意できる限りのものを、私にできる限りのもてなしをしました。それなのに……なぜあなたは不躾にも私の家を探って私の秘密を暴くのですか……」

 私は相手の腕をふりはらって後退った。

 ぞっとするほど悲痛にそれらは吐きだされた。イリスは怒鳴っているわけではない。むしろ高く細い声で、弱々しくすがっている。だが聞かされるこちらは糸で全身をきりきりと締めあげられているような、長い針で執拗に身体を刺されているような心地がした。

 恐怖する私の前で、不意にイリスの興奮は波がひくように収まった。生気を失って脱力する表情とだらりと身体の横で下がる腕。それがまた恐ろしかった。

 イリスがわずかな時間だけ凍りつくような視線を私に送った。

「……私の研究をご覧になってしまったのなら、あなたにここを立ち去って頂くわけにはいきません」

 そう告げて唇を噛んだ。私に貼りつけた視線をちらっと外して、目の端でなにかに低い声で鋭く命じた。

「……縄を」

 鼠のような影が床を走った。

「それから鎖を……」

 状況が飲み込めないまま、物騒な単語に反射的にイリスの脇を抜けようと動いたが、イリスの動きは私に追いついた。顔も見ないまま、私の右腕は彼の力で後ろに捻りあげられて、痛みから逃れようと身体をねじったところへ体重をかけられて、床に身体を押しつけられる。身動きをすると、容赦なく力が加えられた。私は脂汗をかきながら、石の床に頬をつけた。

 頬に石の硬さを感じながら、これは彼の反応が素早かった結果なのか、怠惰な生活に馴染んだ自分の動きが遅かった結果なのかと考える。

 抑え込まれた腕と肩がまったく動かせない。絶望的な重さで縛められている。農作業に慣れた人間の力に敵うはずもなかった。せめて隙はあるだろうか。

 とりあえず説得を試みた。

「暴力はやめてよ。誰にもあなたのことは云わないわ。私、他人のやることに興味はないのよ」

 私の口調が急にくだけたことに、イリスが一瞬訝しげな表情をしたが、平静を取り戻して質問で返した。

「それなら、なぜ人の秘密を探るような真似を?」

「眠れなくて、退屈だったのよ」

「深夜にですか」

「私、生活リズムが狂ってるの。だから、両親からは散々に嘆かれて注意されて、今回はとうとう家を飛びだすほどの喧嘩になったんだもの」

「……そんな理由で女性が一人、危険な行動を?」

「動けなくなるなんて思わなかったのよ。でも……そんなにまずい状態でもなかったのかもしれない。元々夜型だから、昼間に眠気を我慢して動いていると、頭も痛いし身体が辛くて。あなたが私を見つけたのも、昼間だったでしょう?」

「私は余計な世話を焼いたと、そういうわけですか」

 剣呑な響きに、こちらの緊張が増した。答えを間違えれば彼をいっそう逆上させてしまう。平静を取り繕った。

「いいえ、多少余力が残っていたと云うだけ。助けられたのは間違いないわ。あなたの気づかいに迷惑はしなかったもの」

「それなら私は落ち込まなくてすみますが、……恵まれた話ですね。家族も頼る相手もない私には羨ましいばかりです」

 よく通る澄んだ声で、突き放すように淡々とイリスは話す。聞かされるこちらは肝が冷える。

「ねえ、私はあなたのしていたことに触れなかったでしょう? あなたしていることを他に知らせようと思うなら、夜だろうとすぐに逃げだしたと思わない?」

 私の弁解に、口調にいくらか余裕を取り戻してイリスが云う。

「残念ですが、丁度話し相手がほしいと思っていたところなのです」

「……あはは」

 ジョークらしいので、渇いた声で私は笑ってみせた。

 そして私は息を飲んだ。イリスに向けられていた注意が、強引に目の前にひきよせられる。そこに縄と鎖ををひきずって「ホクロ」がいた。

 なぜ一目でそれと理解できたのか。説明するにもつまらない理由だ。その小さな身体にひとつ、小指の爪ほどの目立つ黒子を持っていたからだ。

 悪夢のようだった。

 ホクロは、切り落とされた人間の男の右手にしか見えないからだ。それが親指の付け根に黒子を持ち、手首のいくらか上の切断面に金属のカバーをつけ、蜘蛛のように五本の指で動いている。器用に中指と薬指の二本に鎖と縄を巻きつけて重たげに引きずりながら運んできた。

「ホクロ、こちらです」

 イリスの声でホクロが私の脇に移動する。縄と鎖が鼻先を通っていく。

 私は恐怖に唇を震わせて、かすかに笑うしかなかった。イリスの秘密は、死体を切り裂くだけではなかったらしい。こんな生き物まで造っていたのだ。死体を生き返らせる古代の呪術師のように。

 イリスは石の隙間にナイフを斜めにさし込んだ。私の首のすぐ横だった。柄のアカンサスの葉模様で、彼がいつも腰のベルトに下げていたものとわかる。

 動かないでくださいね、と彼は云った。頭の後ろがざわっと泡立った。動くとあなたの首が切れます。彼はまるで親切を行っているかように、やさしい声で私の耳に囁いた。

 あなたの話相手になんてなれない、と私はつぶやいた。石の表面のようなざらついた声になった。他になにが云えたと云うのか。

 イリスが首を傾げたような気配があった。

「あなたにはわからないことでしょうね……ただ他人と言葉を交わす、というだけの何気ない行為が、ここの生活では年に数度しかかなわない。私の研究のための死体を、金とひきかえに運んでくる人間の他はいない。私にとって、あなたとの人間らしい会話は半年ぶりのことでした」

 疲れ切った老人のように笑うのを背中で感じた。

 私がナイフを避けつつ必死に首を巡らせる背後で、イリスは私の両手に、手早く器用に縄をかけた。職人の手業のようだった。

「ルナリアさん、このホクロが逃げだした原因は私にあるのです。あなたがここにいらっしゃる……二週間くらい前でしょうか、私が独りでいることに耐えられなくなって、日常的に当たり散らすようになったので、耐えかねて逃げだしたのです。私が投げつけた物で、ホクロは打撲と骨折を負っていました。痛みを感じるんですよ、こんな生き物でもね。私に造られた生き物は、定期的に私のメンテナンスを受けなければ弱って死んでしまいます。それをわかっていても、ホクロはあのときの私から逃げだすほうを選びました。私の精神は限界まできていたんでしょう。私は斧を持ちだしてあの岩場まで追いかけていましたから。……私の説明、わかりますか。理解できます? 意味の通らない話し方をしてはいませんか?」

 つらつらと喋っておきながら、最後に同じ調子で尋ねてくる。イリスの声は夏の汲み置きの水のようにやわらかに生温い。

「あなたは朦朧としていて覚えていらしゃらないようでしたが、私はあの場所に斧を置いたままです」

 黄土色の乾いた固い土が地面を覆っていた。大きいものは子供の背たけほどの高さがある岩が、水に浮く大粒の泡のようにあちこちに見え隠れした。子供が隠れて遊ぶのに適しているような場所だった。葉の細い雑草が、中年男の薄毛のようにまばらに生えていた。

 あの岩の間に、ぽつんと斧が放置されている景色を想像した。なんだか奇妙にメルヘンだった。

「そうした場所で、思いがけずあなたを見つけました。声をかけて揺さぶったとき、反応があってうれしかった。うれしかった。死体ではなく、生きているのだとわかって。どうしても助けたかった。その乾いた口からもっと声を聞きたかった。私の話に言葉を返してもらいたかった。あなたを助けなければ、私が死んでしまうところだった」

 イリスの声に再び興奮が戻っていく。

 私は彼を、私が興味のない他人の心を、甘く見ていた。



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