2《蝋燭》
私が目を覚ましたのは翌日の正午頃だった。部屋にひとつきりの窓は、灰色に変色した古い木製の戸で閉じられて、細い光を隙間から落とすばかりで視界は薄暗かったが、周りの空気が暖まっていた。
長く眠っていたはずだが、体調は寝起きにしてはひどいものだった。昨日はなんとか動いていた身体の節々が、硬く鈍い痛みを訴えていた。起きようとすると、疲労が生乾きの糊のように身体とベッドの間にべりべりと貼りついていた。
起き上がろうとする努力はすぐに放棄した。そのまま身体を休めることにする。
目が慣れてくると、ベッド以外に家具のないがらんとした空間が浮かび上がってきた。
昨日、この部屋に案内されたのは、夕食を終えてすぐのことだった。
元が十数人が共同で暮らすための建物だったせいだろう。二階の一部は天井がないそうだが、部屋数には余裕があるという話で、その部屋の一つに物置きからベッドを運び入れてもらった。ベッドと云っても簡素な作りの木製の台のようなものだが、そこに急ごしらえの藁のマットを敷き、シーツを重ねて寝床が完成した。藁はよく乾燥していて温かく、寝心地は良い。
シーツにくるまっていると、命の恩人が入口の扉をノックして入ってきた。
「どうですか、身体の具合は」
タマネギのスープに薄切りのパンを浸したものを、木製の皿に入れて運んできたところだった。指ではつまめないふやけたパンを掬いあげるために、スプーンがつけられていた。ベッドの上でそれをもらった。
イリスは窓を砂が入らない程度に開いて部屋の明るさを調節したあと、気がねなく一日ゆっくり寝ていてください、と春の陽光のような温かな声で云う。私は素直にその言葉に甘えることにする。
「それとも、動くことが辛くなければ、先にお湯をご用意しましょうか。身体を洗ったほうがさっぱりしますから」
提案した彼は腕まくりをして、砂埃の汚れが身体に残る私の部屋に、身体を洗うための湯を運んだ。私がスープを食べている間に、人が座れるほどの幅がある浅い桶を床に置いて、厨房の鍋で沸かしているのだろう、熱湯と水を何度も往復して注ぎ入れた。手をさし入れてかき回し、お湯の温度を確かめてから、私にリネンのシャツと身体を拭く布を渡した。それから空になった食器と私の使ったシーツをまとめて抱き抱え、部屋をでていった。
お湯からはローズマリーの香りが漂っていた。手のひらで掬いあげると、かすかに色がついている。単純に水を沸かしただけではないのだろう。服を脱いて、腰まで湯に浸かった。一緒に用意されていた小さな桶で髪や肩に湯をかけながら、布でこすって全身を洗い終え、水分を拭き取ったときには香りが肌に移っていた。
途中で扉のノックがあった。私が湯浴びに時間がかかっているので、扉越しに心配された。同じ理由で両親にも注意されたことを思いだした。
借りたシャツを着て、新しいシーツを敷かれたベッドで、また一日眠った。それからまた一日を。
目を閉じると、自分を取り囲むように鬱蒼とした木々のシルエットだの、風に飛び散る黄色っぽい砂と岩だの、洗い流したはずの土埃の匂いだのが甦ったが、目を開くと、清潔でやわらかな白いシーツや、温かな食べ物や、病人を気遣う男の顔がそばにあり、風の音が遠くにあった。
そしてまた目を閉じると、両親の自分を責め立てる声が甦った。
心細さと、胸をなでおろす安心との間を、靄のかかる頭で、揺れるように行ったり来たりした。
三日目に歩き回れるようになった。
身体を慣らすために軽く動くことを勧められた。大切な研究道具のある地下の部屋以外は見てもかまわないという話だったので、建物を一通り見てまわることにした。
ずっと部屋にいたので、広い景色が見たくなった。
天井が崩れているという二階の二部屋は、日光が全面に注ぐのでテラスのようになっていた。床は天井の木材が落ちて、それが足場を確保するように隅に集められている。これ以上崩れないよう、修理した跡が隣の部屋との間の天井にあった。
半分崩れて危うい様子の壁に触れないように近づくと、鍬をふるって庭の畑を耕すイリスの姿を小さく見ることもできた。その庭の囲いの向こうの荒れ地、いや礫砂漠と云うのだろうか、それが一階から見たときと同じようにどこまでも広がって、空との境目が黄土色に染まっていた。視界の右端に入る森もまた、どこまでも続いて人の造った建物の一つも見えない。自分が行き倒れていた場所を岩の形から探すが、どこだかよくわからなかった。
この広大な景色の中にいる人間は、どうやら二人だけ。よく発見されたものだと思った。私はそれなりに運に恵まれているらしい。
森の中を二日、助けられてから寝て過ごして三日。今日で五日目だ、と思った。
二階の別の部屋に入って、無造作に重ねられた木箱を見つけた。開けると薄い蜜色の蝋燭がぎっしりと詰まっていて驚いた。指をさし入れ、掬いあげて落とすと、カラカラと軽い音がした。指でならして、数を数える。二箱あるが、どちらも中身は蝋燭らしい。一般家庭の備品としては考えられない量だ。ここから一にぎりほどを持ちだして売れば、街の安宿で十日分程度の宿泊代に当てることができるだろう。これだけの量があるなら黙っていくらか頂いてしまおうか、とも考えが浮かぶ。
……金はいくらか荷物の中に残っている。切羽詰まった理由がないなら、無理に盗むこともないだろう。とりあえず思い止まって、高価な消耗品がこれほどの量で蓄えられている理由について考えてみた。
副業が生産者。副業が商人。それともお金持ち。
どれもピンとこない。こんな人気のない場所に住んでいて商人はありえない。清潔ではあるが質素な身なりの家主がお金持ちとも思えない。生産者というなら、材料はどこにある? 窓から再び庭を覗いてみる。イリスが変わらず畑を耕している庭では、巣箱らしきものは、ひとつ、ふたつ。材料の蜜蝋を集めるためには大量の蜂の巣箱が必要だが、ふたつきりのようだ。ここで蝋燭を生産しているとは思えない。
すると普通に買い集めたことになるが、この量……この家の住人は、夜中に明かりの必要ななにかしらの作業を長時間行っているのか。研究者と云っていたから、なにかを書き留めているのかもしれない。個人の道楽に近いものを想像していたが、費用をかけて設備を徹底させているなら、もっと腰をすえた真剣なものなのだろう。
木箱を両手で閉じた。のどの奥からむずむずとせりあがるように欠伸が起きたのを、手の甲で押さえた。
さて、ここからが問題だ。夜になって互いに笑顔で「お休みなさい」とそれぞれの寝室に分かれたのだが、ベッドに入ってすでに何時間も経つのに眠れない。
私の生活リズムは何年も前から昼夜が逆転しているので、体調が回復したいま、柔らかな寝具の中にいようとも眠気がやってこない。努力がストレスになってきたので、貸された部屋を抜けでて、夜中に他人の家を散歩するはめに陥った。私をだらしがないと叱りつける父親が、それ見たことか、と調子づく。燭台の蝋燭は消してしまっていたので、火をもらうなら厨房まで行かなくてはならないが、寝つけない間に目が暗闇に慣れてしまっていて、歩くことに支障はなかった。廊下には明かり取りの窓からかすかな月光もある。
だが私は出歩くべきではなかったのだろう。
そうして退屈に唆されるまますべての部屋を覗いて歩いている内に、見ず知らずの私を家に泊めてくれたやさしい他人が秘密にしていたであろう事柄を、偶然にも目撃してしまう。作業に没頭する他人は、こっそり地下室を覗いている人間がいることに気がつかない。
私は他人にさほど興味のない人間だったので、そっと足音を忍ばせ寝床に戻った。秘密は暴かれるべきだとも、咎められるべきだとも、思わなかった。翌日には普段と変わらぬ様子の他人がテーブルをはさんで食事をとる。私は秘密について触れることはなかった。
どの道、ここに長くは留まらない。私は知らないふりでここを立ち去るつもりだった。
この家の唯一の住人である他人は私の感覚からすると異常なほど親切で、いや一般的な感覚からすればとても親切というのかもしれないが、ともかくその他人は家に居てなにをするでもない私に笑顔で食事を与え、寝る場所を貸し続けてくれるのだった。私にとって重要だったのはそれだけで、彼が私に隠していることについてはどうでもよかった。
彼はどうやら、私を身寄りのない哀れな浮浪者だと思っている。
奇妙な日々は、誤解と思いやり、無関心と良識の欠如で成り立ち、平穏な日々が一週間経過する。そろそろ退屈を感じるようになってきた。最初の三日間ですでに体調は回復しているのだ。立ち去る頃だろう。
今日で九日目。
家では昼夜の逆転した怠惰な生活を反省なく続ける娘に爆発していた両親の怒りが、娘の九日間の不在で静まり、心配に変わっているだろう。私には帰る場所が出来上がった。