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*小説・エッセイ・散文・その他*

六月のララバイ

作者: a i o

 仏間の煤けた匂い。

 障子から射した薄青の月明かり。

 家とは違う天井の木目と、首を緩やかに振りながら風を送る古い扇風機の音。

 ひんやりとした布団に体を預けた小さな私。

 隣にはこんもりと丸い体をこちらに向けて、目を瞑ったまま子守唄を歌う祖母がいた。

 記憶の中で引き伸ばした光景は、徐々に輪郭を失いながらもまだ私の瞼に残っている。






 蒸し暑い夜のこと。

 バイトを終えて、くたびれた体の最後の力を振り絞り、かいた汗をシャワーで流したあと小さなちゃぶ台の上で光る点滅に気が付いた。


『来月の26日はおばぁちゃんの十三回忌だから帰ってきなさい』


 見事に用件だけの一文を確認して、私はスマホを枕元に放り投げた。

 進学の為に家を出て一年と少し。

 実家が遠方なので盆と正月に帰省するぐらいだが、ここでの生活にもようやく慣れホームシックにかかる頻度もぐんと減った矢先だった。

 生乾きの髪もそのまま、安っぽいパイプベッドに倒れ込むと、案の定ギシリと大袈裟な音を立てる。

 六畳一間の女子大生にしては殺風景な部屋を、橙色の豆電球が慎ましく照らしていた。


 ーー眠れないんかい?ーー


 祖母の低いしわがれた声が、気遣っていたのか呆れていたのか私にはもう思い出すことが出来なかった。









 幼い頃、共働きで多忙な両親と暮らしていた私は、隣町にあった父方の祖父母の家には少なくない頻度で遊びに行っていたため ーー小学校に上がってすぐだっただろうかーー ひとりで泊まることになったあの日も、はじめは不安よりも初めて親元を離れる誇らしさの方が勝っていた。

 両親と別れるまでは、大人達の気を惹こうと出されたお菓子を食べながらぺちゃくちゃと歳の割にこしゃまくれたことを話し、上機嫌に過ごしていた。

 だけれど、いざ両親が帰ってしまうと、先程の威勢はどこへやら借りてきた猫のようにおとなしくなったのはやはり本来の臆病な気質のせいだろう。

 私は昔からさみしがり屋で、どうしようもなく臆病だった為、よく火がついたように泣き出しては両親を困らせていた。

 古く広い家で祖父母と私、三人きり。一人っ子だったので、人数としては自宅と変わらないのに、賑やかなのはテレビの音しかなく、夜の気配が色濃くなるともはやその音ですら浮いているような気がした。

 寡黙な祖父と、普段は口喧しい祖母。

 祖父は優しかったけれど幼い子どもをあやすような器用さなどなかったし、祖母は両親には口喧しかったけれど直接私にどうこう説教をすることはあまりなかったので、私が口を開かなければただただ平らな時間が流れるばかりだった。


「風呂に入っといで」

 促されるがままに向かった脱衣場では見慣れないバスタオルがすでに用意されており、幼かった私はそんなところに自宅との違いを見つけてしまい心細さに拍車をかけていく。

 湯船にお湯を張る習慣のない祖父母の家で、そそくさとシャワーで体を清める。年季の入った風呂場の水色のタイルが妙に寒々しく見えた。シャワーヘッドから伸びる黒いホースがまるで蛇のようで私はずっと背を向けながらお湯を浴び続けた。


 年寄りの夜は早い。

 浴室から出て寝巻きに着替えると、いつもならテレビを見ている母にまとわりつきながら一日の出来事を捲し立てている時間でも、祖父母の家ではすでに布団が川の字に並べられていた。

 祖父に至ってはすでに軽い鼾を響かせている。

 私が布団に潜り込むのと同時に祖母が電気を消す。家では豆電球をつけたまま寝るが、祖父母の家ではそうではないらしい。

 両親にべったりの甘ったれの孫と、子育てを終え随分経つ老夫婦とではよく顔を合わせていたとしてもそう会話は長く続かない。

 私にとって祖父母は他人よりも気安いというだけであって、我が儘を言えるほど甘えられる存在ではなかったので、どうしても祖母に豆電球をつけてほしいとは言い出せなかった。


 冴えた目を瞬かせながら、何度も寝返りを打つ。

 線香の匂いと、障子戸に映る庭の草影。

 生暖かな風を扇風機が首を振る度送り込む。


 かえりたい。


 おとうさん。

 おかあさん。


 募る心細さが両親の面影を暗闇に探す。

 滲む視界を悟られたくなくて、がばりと布団を顔まで引き寄せた。


「眠れないんかい?」


 祖母の乾いた低い声音がそっと響く。

 横を見やると、こちらに体を向けた祖母が眠そうな目で私を見ていた。

 私は小さな声で「うん」とだけ言った。


「ばぁちゃんが歌をうたったろう」


 祖母はそう言って目を瞑り、細く掠れた声で昔ながらの泣き止まない赤子のための子守唄を歌い上げた。

 母が歌うものとは違う、いつかの昔父が聞いたかもしれないその旋律は、見知らぬ夜をみるみるうちに私に近付けていく。


 ーー なくな なくなよ いとしいこ ーー


 泣くんだろうな、そんな情けない確信を抱けば、案の定涙が次から次へと溢れ出す。


 ーー なくな なくなよ ーー


 こわい。

 ひとりはこわい。

 かえりたい。

 そばにいてほしい。

 おとうさん。

 おかあさん。


 ーー なくな なくなよ ーー


 保育園で。

 幼稚園で。

 気付けば、いつも最後まで忙しい両親の迎えを待っていた。

 ひとりぼっちになる。

 漠然とした不安を両手に抱えながら。


 薄らと青い夜だった。

 ブーンと鳴る扇風機。

 知らない天井。

 幼い私。

 祖母のどこまでも乾いた、そして、夜をくぐるような歌声。








 もっとたくさん思い出があったはずだ。

 口喧しくも、お小言はいつも私を気遣うものばかりだった祖母だ。だけれど、思い出せない。

 あの時泣きたかった気持ちは思い出せるのに、私はもう泣けない。

 その事実に泣きたくなって、私は枕元のスマホに手を伸ばす。



『了解。前日に帰るようにします。』

 母と同じぐらい素っ気ない返事を送信し、そっと瞼を閉じる。



 ーー 眠れないんかい ーー


 アナログの目覚まし時計の秒針が、夜を刻む。


 帰省する時には父にはお酒を買っていこう。

 母には餡餅を。

 変わらぬ仏間で手を合わす際は、きっとまたあの夜を思い出すだろう。

 そうして時が過ぎれば忘れてしまうのだろう。

 悲しいとも、さみしいとも言い切れない、滲んだ色がたゆたう。


 眠れない夜もあるけれど。

 いつかひとりぼっちになると、知ってはいるけれど。

 いくつもの夜をくぐるために細く、掠れながらも長く。


 ーー なくな なくなよ ーー



 泣くがままに泣いた、あの若夏の夜。

 皺の刻まれた口許が微かに奏でる、私の傍を確かに流れたひとすじのあたたかな旋律。


 遠い、歌が聞こえる










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― 新着の感想 ―
[良い点]  静けさが良かったです。語りもその追憶のイメージも。  感傷的な話は苦手ですが、地についた淡々とした語りがなんか清らかでした。  落ち着いた色合いで薄化粧したような、きれい文章だと思いまし…
[一言] 既に無くなった祖母を思い出しますね 世代が違いすぎて会話は余り続かない物の仲は悪くないんですよね
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