第2章 トラウマ その5 ふたりの女
この男は、店に入ると中央のボックス席には、二人分のグラス、ワイン、オードブルがちゃんと用意出来ていた。
「俊ちゃん。さあ、座って頂戴。どうぞ。」
ゆかりは、右手を出して誘いのポーズをした。
「ありがとう。良いお店だ。」
この男は、キョロキョロ見渡した。
「嫌だ。そんなに見ないでよ。恥ずかしいから。」
ゆかりは、笑いながらこの男の顔見た。
ふたりは、ソファーに腰を下ろした。ゆかりは、口にタバコを咥えてライターで火をつけた。吹かしたタバコを口から白い煙りをフーっと吐いた。
「あの時ね。病院で、俊ちゃんのお母様に言われたの。ありがとうって。そしてね。もう、うちの子とかかわらないでね。って。私には、とても辛い言葉だったわ。」
ゆかりは、天井に向けて白い煙りを吐いた。
この男は、意識のないままベッドの上にいたので、こういうふたりの会話はまったく知らなかったし、また、聞かされてもなかった。
「あの後、俊ちゃんにさよならも言わずに転校しちゃったでしょう。もちろん、事件の事もあったけど、私のお父さんの会社が倒産しちゃって、夜逃げ同然で引っ越しをしなくちゃいけなくて。」
ゆかりは、この男の目を見て、タバコをまた吹かした。
この男が、一ヶ月後、病院を退院して、学校の担任の先生からゆかりの転校を知らされたが、理由までは教えてもらえなかった。その時は、事件の事が原因だとばっかり思っていた。また、ゆかりの家まで行ったが、貸家の看板が出ていたのを今でもはっきり覚えていた。
「俊ちゃん。さっき、抱きついた時言ってくれていたわよね。『探した。』って。「嬉しかった。探してくれていたんだなぁって。でもね。今だから話すけど、私から、俊ちゃんに会いに行こうと思えば何時だっていけたのよね。それが出来なかった理由があるの。俊ちゃんを殴ったあの怖い顔の男と取引しの」『あなたに二度と会わない』って。あの後、あの怖い顔の男、俊ちゃんを殺しそうな勢いだったから。高校生時代は、お母さんの実家で暮らしていたの。あの怖い顔の男と付き合いながら。そして、高校を卒業してすぐ、あの怖い顔の男と結婚したの。それで、怖い顔の男の実家がある、この隣街で暮らしているの。」
ゆかりは、タバコを2回吹かした。
この店も隣街だった。この男には、ずいぶん車で走った感はあった。
「ゆかりちゃんは、私をあの怖い顔の男から守ってくれたんだ?それで、幸せだった?今まで?そんなこと聞いてないぞ。カッコつけやがって。!」
この男は、珍しく感情をあらわにし、ゆかりの目を睨み付けた。
「あら。俊ちゃん。同情してくれるの?嬉しい限りで涙が出ちゃう。でもね。やめて!やめて!もし、あのまま付き合っていたら、間違えなく、私か俊ちゃんのどちらかが殺されていたわよ!必ず。あの怖い顔の男は、伊達に意気がってなんかないからね。何時でも『本気』だから。そこら辺の半端な不良とは違うから。それだけは、俊ちゃんにもわかってほしいの?」
ゆかりも、目を吊り上げて、この男の目をじっと睨めつけた。タバコの火を揉み消した。
「、、、、、。」
この男は、黙って顔を見た。この男顔は硬直していて、手が震えていた。
「俊ちゃん。これも私が選んだ人生なの。そして、悔いは全然ないから心配いらないわ。それに、こうやって無事に25年ぶりに会えたんじゃない。死んじゃってたら今日、再会出来なかったもの。それだけでも今、私、幸せだと思うの。」
ゆかりは、この男の目をじっと見つめた。
「でもね。その怖い顔の男も3年前に交通事故で死んじゃたわ。この店もその生命保険の一部で開けたのよ。ちょっと皮肉なものね。そう。子供もひとり、20歳の女の子。私に似た可愛い子よ。この店で働いているの。今度、会ってほしいわ。俊ちゃんの事は、すべて、話してあるから。そう、あの夏の出来事もね。」
ゆかりは、また、天井を見上げた。意味深く。でも、この男は、何も気づかずにいた。
「俊ちゃん。奥さんは、ピアノの先生でしょう?」
ゆかりは、目を見て微笑んだ。
「えっ!ゆかりちゃん。なんで、知ってる?」
この男は、驚いた表情でゆかりの目を見つめた。
「びっくりしたでしょう?偶然にも友達のお子さんが奥さんの生徒なのよ。」
ゆかりは、最後にクスッとはにかんだ。
「へええ。そうなんだ!世間は狭いな。」
この男は、微笑んだ。
「奥さん。綺麗な方だと聞いてるわ!私とどっちが綺麗かしら?うーん。もう。考えるだけで嫉妬しちゃうわ。」
ゆかりは、露骨に嫌な顔をした。
「ねぇ。何処で知り合ったの?あーあ。聞きたいけど、聞きたくない!うーん。今の質問、忘れて!」
ゆかりは、少しだけ緊張した表情を見せて下を向いた。
「ゆかりちゃん。どうした。大丈夫。」
この男は、顔をつき出して、顔を下から除き込んだ。ゆかりは、下を向いたままだった。
ゆかりは、顔を上げたと思ったら、違う話しに切り替えた。
「そう。同窓会で、俊ちゃん、モテモテだったね。相変わらずの今も昔も。今日は、40歳のおばさんにキャーキャー言われちゃて、鼻の下が伸びてました。みっともないって。」
ゆかりは、大きな目を開いた。完全に嫉妬していた。
「あっ?でも、私も40歳のおばさんだよね。あーあ。嫌になちゃうね。」
ゆかりは、口に手をあてて笑った。
「ゆかりちゃん。同窓会の時、裕子と真理から聞いたんだけど、中学生の時、美沙子と奈緒に『ヤキ』を入れたって本当なの?そう言えば、二人とも同窓会にいなかったな?」
この男は、タバコを吹かすゆかりの横顔を見た。
「はぁ?なにそれ!冗談じゃないわよ!『ヤキ』なんて入れてないわよ。『半殺し』の間違いだわ。」
ゆかりは、さらりと交わして、ニヤニヤした。
「よりによって、俊ちゃんを好きになったなんて私の前で堂々とぬかすから。そう。あのふたりには、悪いことしたわね。今更ながら反省してます。でも今じゃ友達だちのひとりよ。だから、同窓会には、出席しないでと。私が頼んだの。ふたりは、出席したいと泣いていたけどね。だって、俊ちゃんが初めて出席するって聞いたから。」
ゆかりは、笑いがらタバコをふかした。
「えっ!何で自分が出席するの知ってるいるの?」
この男は、また、驚いた表情でゆかりの目を見た。
「だって、幹事には、俊ちゃんが出席するときは、連絡しろ。と言ってあったから。」
ゆかりは、さらっとあさっての方を見て逃げた。
「ゆかりちゃんといい、生徒会長といい、私の出欠の確認をして、同窓会に出席してるんだ。」
この男が、やるせない気持ちになっていた。
「俊ちゃん、わかっている事だけど、今日、同窓会に出席した女子のほとんどはあなたが出席するの知っていたからね。だって、30歳の時の同窓会の時とくらべて、今回の同窓会は女子の出席が5倍に増えたって幹事が言っていたもの。」
ゆかりは、目を白黒させた。
「へええ。裕子と真理も言っていたけど、私はそんなに人気があったんだ。勉強もスポーツも音楽も駄目だったぞぉ?」
この男は、不思議そうにゆかりを見た。
「そうね。俊ちゃん。鈍い人だから。すごくイケてました。あなたのロングヘアー。笑顔。匂い。なんと言っても歌がうまかったよ。それに、みんな平等に優しかったもの。女の子は、みんな好きだったのよ。」
ゆかりは、この男の目を見て微笑んだ。
ゆかりは、小学5年の頃からこの男を追っかけるようになった。小学生の頃から女子の間ではリーダー的存在であった。家はお金持ち、勉強もスポーツも出来た。逆に男子のアイドル的存在だった。憧れの的だった。ゆかりのピアノは、素敵だった。ショパンやベートーベンも軽々と弾いていた。それと容姿端麗であった。そんな、ゆかりが遠くからこの男を見ていたとは驚きだった。中学生になるとこの男に近寄る女子がチラホラ出てきたらしい。そんな時に仲間といっしょにそういう女子をいじめた。中学3年になって、初めてこの男と同じクラスになった。毎日、教室でこの男の姿を見ているだけで心が張り裂けるくらいに好きになっていた自分に気づいた。そして、『あの夏休み』があった。
「俊ちゃん。私、あなたを今でも好きです。愛してます。私の初恋で、私の初めての男。一日も忘れた事ないわ。そう。今日、無様なところ見せちゃったね。みんなの前であなたに抱きついて泣いたもの。だって、あなた卑怯だわ。サックスホーンなんて吹くんだもの。あなたの歌も素敵だけどサックスホーンも最高ね。噂でね。あなたがサックスホーンをやっている事知っていたわ。いつか、聴かせてもらおうと思って楽しみしていたら、今日、いきなりなんだもの。ビックリしちゃた。今までに聴いた事のない素敵な音だったわ。あれじぁ、世の中の女共は、コロッといっちゃうわ。今日、その中のひとりに私もなっちゃったね。サックスプレーヤーだって、私は、知ってましたわよ。」
ゆかりは、タバコを右手で持って最後に微笑んだ。
「俊ちゃん。ワイン飲める?」
ゆかりは、テーブルの上の赤ワインを手に取った。
「あっ?うん。」
この男は軽く返事をした。
ゆかりは、ワインのコルクを『スポッ』と開けて、ふたりのグラスに注いだ。ふたりは、軽くグラスを重ねて『乾杯』を初めてした。ゆかりはグラスの半分くらいを口にした。この男はと言うと、息を止めてグラスの中のワインを一気に飲み干した。
「あらあら。」
ゆかりは、空になったグラスにワインを注いだ。
しばらくして、ゆかりがこの男の顔をじっと見つめて、涙声で。
「俊ちゃん。ねぇ。奥さんには悪いんだけど、今少しだけ、あの頃に戻させてもらえないかしら。」
ゆかりは、この男の目を見た。ゆかりの目から涙が流れた。下唇を噛んでいたのか口から血が出ていた。この男は、それを見て、ゆかりの隣に座り肩を抱いた。ゆかりは、この男の胸のなかで泣いた。あのふたりの夏休みの最後の日に殴られ気絶したこの男をにしがみついた時のように泣きくずれた。
「ゆかりちゃん。今日、君に会えてよかった。私も今でも愛している。奥さんはいるけど、君に対しての気持ちは今でも変わらないよ。」
この男は、ゆかりの耳元で囁いた。ゆかりの肩を『ぎゅっ』と抱きしめた。ゆかりの鳴き声は、さらに大きくなった。
実は、20年前にゆかりと怖い顔の男と結婚した事は、風の便りで知っていた。それに怖い顔の男が交通事故で死んでいたのも知っていた。この男はそれを黙っていた。そして、ふたりの気持ちとは裏腹にゆかりと後戻りは出来ない事も心の中で決めていた。
しばらくして、泣き疲れたゆかりが顔を上げた。
「ちょっと、化粧直してくるね。」
ゆかりは、ずーっと、席を立った。
しばらくして、化粧を直して戻ってくるとこの男の隣に座った。
「25年ぶりの再会を祝って、ふたりで飲んじゃおう。いいよね。」
ゆかりは、泣いたせいか目が真っ赤だった。この男も先ほどのワイン一気飲みのせいで顔や目は、真っ赤だった。ゆかりは、その様子を見てクスッと笑った。
この男にとって今日、いままで長年付きまとっていた、ゆかりとのトラウマが消えた瞬間であった。それからのふたりは25年間の空白を埋めるべく沢山の話をした。まるで、あの夏の日のふたりに戻ったように。
午前4時を過ぎて、ゆかりがお酒に酔ってソファーに寝ている、この男の上着のポケットから携帯電話を取り出した。そして、着信記録を確認してボタンを押した。
電話の先に女性が出た。
「夜分遅くすいません。お宅の旦那様と同級生だった。真鍋と申します。同窓会の二次会で隣街の私が経営するお店で飲んでいたのですかが、赤間川さん、だいぶ酔って寝てしまったので、迎えに来ていただけませんか?」
ゆかりが、電話した先は、この男の妻、ありさだった。
「わざわざ、ありがとうございます。大変申し訳ありません。ご面倒おかけしますが、私が行くまで宜しくお願いいたします。すぐ、行きますので。」
ありさは、ゆかりから店の場所を聞くと、車の鍵と上着を持って玄関を飛び出した。
午前4時を回っていた。ありさは、絶対に寝ずにこの男の帰りを待っていた。車を走り出した。あたりはまだ真っ暗だった。ヘッドライトが冷たいアスファルトを照らしていた。ありさも『女の感』という鋭いものを持っていた。少し、ゆかりと話しただけで、この男との中は怪しいと思いながら車を走らせた。まず、この男が寝込むまで酒を飲むとは考えにくいからだ。
「俊ちゃん。奥さんの元へ返してあげるね。悔しいけど、今は、私の男じゃないから、ばーか!」
ゆかりは、寝ているこの男の顔に自分の顔を近づけて口を尖らせた。
40分くらい経った頃、ゆかりのお店のドアが開いた。
「あっ。こんばんは。電話をもらった。赤間川ですが。」
ありさは、ソファーに座って背中を見せてタバコを吸っていた、ゆかりに声をかけた。
「はーい。」
ゆかりは、タバコを灰皿に置いて、ドアの方に振り返った。
「うわ。綺麗な人。」
ゆかりは、心の中でつぶやいた。
「どうぞ。寒いから中に入って頂戴。」
ゆかりは、ありさに向かって、右手をだして誘い入れた。
「奥様ですか?遠くまでお迎えすいません。ここの店主の真鍋ゆかりと申します。ご主人とは、小中学校と同級生なんですよ。奥様。素敵なご主人で幸せですね。同窓会では、昔と同じように今ではおばさんになった女子達にモテモテでしたわよ。さあ。ご主人は、こちらで寝ていますので。」
ゆかりは、ありさの顔をジロジロ見ながら手を指した。
「本当にすいません。ご迷惑をおかけします。ありがとうございました。私、赤間川の家内の『ありさ』と言います。
ありさは、ゆかりと同じく、ゆかりの顔をジロジロ見た。
ありさは確信をもった。テーブルの上には、二人分のグラスとオードブルしかなかったからだ。高そうな赤ワインがだいぶ無くなっていた。そして、ゆかりだけが吸った同じ銘柄のタバコの灰皿がポツンとあった。
「ねぇ。こんなところで寝てないで!起きなさいよ。」
ありさは、大声で両手で、この男の体を揺らした。
「うわ。」
この男は、突然に妻の顔が目の前にあったので異様な声を出した。
「うわ。じゃないわよ。バカ!まだ、夢を見ているんですか?ゆかりさんとイチャイチャしていたんでしょ?あーあ。いやらしい。あーあ。みっともない。」
ありさは、この男の顔を睨めつけた。
ゆかりは、ありさに今日のふたりの事はバレたな。って思った。また、この男とありさのやり取りに心の中で笑っていた。今日は、ありさに勝ったと。それをタバコを吸って冷静を保った。
この男が、ようやく起きたところで、ゆかりは、冷たい水を2つテーブルの上に出した。
「ありがとうございます。」
ありさは、ゆかりに向かって頭を下げた。ふたりとも出されたお水を一気に飲んだ。
「奥様。今度、ふたりで飲みにいらしていださい。いや、お一人でも歓迎するわ。」
ゆかりは、ありさの耳元で囁いた。ありさは、ゆかりの目を見れずにいた。
ホロ酔いのこの男を助手席にねじ込むとありさは、ゆかりに挨拶もそこそこに車に乗り込むと隣街の自宅へと車を走らせた。少し、東の空がしらみはじめていた。冬の星座がとても綺麗な夜空だった。外吹く風はものすごく冷たかった。