第2章 トラウマ その1 音楽嫌い
赤間川 俊が小学生の頃の話です。
正直言うと、音楽とは何か頭の中で理解していなかった事にすべてが始まります。ちゃんと誰かが詳しく教えていれば、この男の音楽そのものが変わっていたかも知れません。だから、二年生くらいから学校の授業にはほとんどついて行けなかった。音楽は嫌いで、授業のある日は憂鬱だった。
音楽教室の五線譜の黒板、訳のわからない外国人の肖像画、机代わりの鍵盤がところどころ鳴らないオルガン、すべてが嫌いだった。この中でも一番嫌いだったのが、音楽教師、塚本先生、年齢38歳の女教師だった。それは、この男が30歳で奥さんのありさに会うまで変わることはなかった。ただ、音楽を聴く事。歌を歌う事は大好きだった。6年生になると音楽の授業にレコード観賞の時間が出てきた。クラシック音楽が特に好きだった。毎回、音楽の授業は、レコード観賞ならいいのにと思っていたくらいだった。また、歌に関しては、よく賞をもらうくらい上手かった。
そして、小学6年生の秋の出来事であった。この男は、この時点で音符は、まるっきり読めずにいた。10月に行われる運動会での6年生だけによるプログラム『鼓笛隊』があった。そう、6年生全員で楽器を演奏して、グランドを練り歩くものだ。
夏休みが終わって、すぐくらいの音楽の授業での事である。
「さて、みなさんには、運動会で『鼓笛隊』をやってもらうわよ。去年は、先輩だった6年生がやっていたの見てたでしょう?今年は、今、6年生のみなさんがやります。」
塚本先生が、教壇の上から生徒の顔を見た。教室は、ざわざわ感が残っていた。塚本先生は、2年生から6年生までこの男の音楽の授業を受け持っていた。
「それでは、自分はどの楽器をやりたいか?希望をとりますね。楽器は、大太鼓、小太鼓、ビオリラ、ピアニカ、リコーダーです。希望しない人は、リコーダーになりますよ。やってみたいと思う人、手をあげてください。」
塚本先生は、教壇の上から、生徒の顔を見て微笑んだ。
この時、この男は、大太鼓希望に手を挙げてしまう。何故なら、大太鼓は、叩いているだけで簡単そうに見えたからだった。そのひとつに、リコーダーが吹けなかったという簡単な事実もあったからだ。
「はい。それでは、大太鼓の希望者、手を挙げてください。」
塚本先生が、教壇の上から生徒の様子を見た。
「はい。」
この男が、真面目な顔をして、高々と左手を挙げた。教室内から、クスクスと笑う声がした。
「赤間川君。あなたね。音符もろくに読めない人に、大太鼓が叩けると思って。リコーダーも吹けない癖に。わかってんの?冗談辞めてよ。」
塚本先生は、この男をにらめつけ、言い聞かせると言うより、ののしりに近い言い回しだった。
教室は、笑いの渦と化した。この男が、その中心にいた。左手で頭をかきながら、クラスのみんなに笑顔を振り撒いていた。この男は、勉強も出来ないし、スポーツもイマイチだった。それに、音楽も。でも、クラスでは、人気者で中心的な存在だった。特に、女子からの人気は絶大だった。なぜなら、イケメンで可愛く無敵だったからだ。そして、残念ながら、この男の『鼓笛隊』は、その他大勢のリコーダーに決まった。
運動会までの期間、音楽の授業は、『鼓笛隊』の行進曲の練習になった。なかなか、リコーダーを吹く事が出来ないこの男と、クラスで勉強が出来なく、やっぱりリコーダーが吹けなかった前島君にクラスで勉強の出来る女子の『真理ちゃんと裕子ちゃん』が放課後残って指導してくれいた。
「ねえ、全然わかってないでしょう?いくら、私達が教えても無理じゃない?ふたりとも覚える気ないものね。」
真理が、口を尖らせてふたりを睨んだ。
「、、、、、。」
この男と、前島は何も言わず、下を向いた。
「この音符は、『ド』リコーダーの穴はここね。この音符は、『レ』リコーダーの穴はここね。」
裕子が、手を添えた。その時、前島君のリコーダーから唾がタラリと床に落ちた。
「あっ。もう、汚いなぁ。嫌だ。」
裕子は、目を丸くして露骨に嫌な顔をした。
「ちきしょう。」
前島が、怒った目で裕子を睨めつけた。
基本から丁寧に教えてくれた、真理ちゃんと裕子ちゃんだった。しかし、運動会の2日前でもこの男と前島君は、リコーダーを吹く事が出来なかった。そして、運動会前日に、この男と前島君は、塚本先生に音楽室に呼び出されていた。
「ねえ、とうとう駄目だったか?」
塚本先生は、大きな目を開いてふたりの顔を見た。
「、、、、、、。」
この男と前島君は、先生の顔も見れずに下を向いた。
「ねえ、真理ちゃんと裕子ちゃんには、感謝しないとね。毎日、放課後遅くまで、あなた達に付き合ってくれたんだから。」
塚本先生は、ふたりの顔を見て微笑んだ。
「昨日ね。苦情があったの。みんながちゃんと吹いている時にデタラメに違う音で吹かれるとこっちまで釣られて間違えてしまうって。ねえ、どうする?どうしようか?」
塚本先生は、ふたりの目を見た。
「、、、、、。」
この男と前島は、先生と目があった後は、また、下を向いた。
「お願いね。ふたりは、明日の本番では、吹かなくいいから。指を動かしているだけでね。うん。それでいい。」
塚本先生は、また、ふたりの目を見た。
「、、、、、。」
この男と前島は、先生と目があった後はずっと、下を向いたままだった。
「ねえ、わかった? 黙ってないで、何か言ってよね。」
塚本先生は、困った顔をして、ため息をもらした。
「、、、、、。」
ふたりは、下を向いて顔は、最後まで上げなかった。
「赤間川君、あなたは、歌がうまいから、来年の卒業前の合唱コンクールでは、ソロパートを任せるつもりでいるから。先生、期待しているわね。」
塚本先生が、顔を上げたこの男の目を見て微笑んだ。
「それにくらべて、前島君はね。」
塚本先生は、困った顔をして、顔を上げた前島君の目を見て頭をかかえた。前島は、口を尖らせて天井を見上げた。
ふたりは、音楽室を出ると階段を下りた。教室まで荷物を取りに行って、校門を出て、無言で下校した。ふたりの肩にあたる風は、まだ暖かかった。
この男は、51歳になった今日でも、前島君とは付き合いはあった。結婚はしていた。5年前に精神病を患って、警察沙汰になった事もあった。それからというもの病院との入退院を繰り返していた。気分の良いときは、この男の所にも顔を出していた。それに、薬の副作用とか生活習慣病で、現在の体重130キロの巨漢であった。昔の面影は、ギョロっとした目だけで、右手の震えは止まる事はなかった。
そして、小学生最後の運動会は無事終わった。リコーダーの指を動かしているだけの『鼓笛隊』の行進に加っただけのこの男と前島君だった。
リコーダーを教えてくれた、真理ちゃんと裕子ちゃんに『ありがとう』と一言も言わずに卒業してしまった。それが、心残りになってしまった。
この時のこの出来事が、この男の心の傷なってしまった。それが楽器を自らやることはなかったのであった。『トラウマ』になった。30歳の時、今の妻のありさにピアノを習い始めてある程度、譜面が読めるようになり34歳でサックスホーンを初めて触る。