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ザ コース オブ ライフ TEARS OF THE SUN  作者: やましたゆずる
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舞台に立って その3 サックスを手にして

この日、この男がマンションに帰ったのは、午前3時を過ぎていた。玄関を開けると居間に明かりがついていた。


「お帰りなさい。外は寒かったでしょう?早く中に入ってください。暖かいから。今晩も飛田さんの所ですか?」

この男の妻が、ほろ酔いのこの男の目を見た。よっぽどの事がない限り、この男が帰って来るのを眠い目をこすりながら、必ず、起きていたのである。


「ありさ。冷たいお茶くれないかな?」

この男は、妻の名前を呼んで質問を無視して上着を脱いだ。


「ねえ。サックスの演奏、明日、するから。」

この男が、キッチンに立つ妻の背中に呟いた。


「ええ?なんだって?」

妻は、お茶を入れてた手を止めて、振りかえってこの男の目を見た。


「明日、サックスを吹く。向こうは、自分の事知らないし。」

この男は、椅子に座って、妻の目を見た。


「なんで?なんで?」

妻は、ビックリして大きな目を丸くした。小走りにお茶を手にこの男の前に立った。


「どうしてそんな話になったの?」

妻は、この男にお茶を出してたずねて、この男の前に座った。


居酒屋サムライでレジェンドのオーナーの大森との話を細かく説明した。


「あなたのサックスなら間違えなく受け入れてもらえるわ。レパートリーもみんなが良く知っている曲で、女性には特に受けがいいもの。でも、そんな場所があったんだね。灯台もと暗しってこういう事なんでしょうね。」

妻が、この男を見て微笑んだ。


「飛田のおごりで、初めてレジェンドに入った。店の大きさ、キャストの数、質も一流だよ。それに、店の真ん中の舞台には、下着姿の外国人がポールダンスを踊っている。」

この男は、最後にニヤけた。


「あーあ。あなたには、ポールダンスの外国人が一番記憶に残ったみたいだね。ふふん。楽しかった訳だ。いい歳をして、このエロじじいが。」

妻が、右手をあごに乗せて大きな目を細めて微笑んだ。


「、、、、。」

この男は、無言で妻の目をまっすぐ見た。焼きもちなのか、からかっているのか、読み取れずにいた。


「あなた、脳梗塞に倒れてから、サックス、1年以上触ってないんじゃない?大丈夫?まぁ、あんまり、心配してないけどね。」

妻は、微笑んだ。


「サックスを再び手にするのを夢見て厳しいリハビリやってきたかいがあったわね。明日、音楽教室のレッスン室、空いてるから使っていいよ。少し、音出ししていけば。」

妻は、テーブルの上のさっき飲んだこの男のお茶の残りを一気に飲んだ。


「遠慮なく借りるから。ありがとう。」

この男は、妻の目を見て、笑った。


「手のシビレや麻痺はなくなったんでしょ?手術してから1年経つものね。」

妻は、この男の目をまっすぐ見た涙が目から流れた。


「うん。大丈夫だ。シビレも後遺症もない。サックスは握れるはずだよ。感覚は忘れてないよ。」

この男は、妻の目を見ると微笑んだ。


「さっき、レジェンドのキャストと話をしてたら、自分の生徒の事、思い出したよ。キラキラした目 をしていた。キャストもあの頃の自分の生徒達もね。」

この男は、天井をなにげに見上げた。


「ねえ。そう言えば、今日、偶然にもあなたの一番最初の生徒だった、篠田さん、教室に見えたわよ。」

妻が、突然、思い出したかのように。この男の顔を見た。


「篠田さんが?」

この男は、その名前を聴いてビックリして妻の目を見た。


「篠田さん。ますます、綺麗になっちゃて。話は、あなたにまたサックスの指導をお願いしたいって事だった。直接、話をしたいって。言ってましたよ。」

妻が、この男の目を見てうなずいた。


「そうか。篠田さんが。」

この男は、少し考えて妻の目を見た。


「あの頃の篠田さん、あなたに、ぞっこんだったものね。ウフフ。」

妻が、この男の顔を見て笑った。


「今度、連絡あったら、篠田さんの連絡先聞いておいてよ。歯医者にこっちから行けばいいんだな?」

この男は、妻の顔を見た。


「もう、聞いてあるよ。」

妻は、微笑みながらこの男の目を見た。



午後になって、この男は、妻の経営する音楽教室をたずねた。妻に、教室Bを使うように言われ、教室のドアを開けると教室の真ん中に譜面台とこの男のサックスホーンが置いてあった。この男は、1年ぶりに自分のサックスホーンのケースを開けた。そこには、ゴールドに輝いたソプラノサックスがあった。何時ものように黒いストラップを首にかけて長さを調節した。サルマーのマウスピースにバンドトレーンのアンファイルドカット2.5のリードをつけてまたバンドトレーンの金のリガチャーで固定した。この男のソプラノサックスホーンは、国産メーカー、ヤマト楽器の特注のカスタムだった。ネックにマウスピースをはめて、これを本体に差し込んだ。そして、ストラップをつけて両手で持ちサックスホーンを構えた。


久しぶりに息を吹き込んだ。そして、その音にはブランクを感じなかった。スムーズに心に染みるような綺麗な音は、間違えなくこの男の音だった。一音一音を確認するようにスケールを吹いた。指の動きや感触を確かめた。そして、この男は、吹くのを突然止めた。


「ねぇ。ありさ。なんか、キィの感触が違うんだけど何かいじった?大分、滑らかなんだけど?」

この男が、教室の隅で練習を見ていた妻にたずねた。


「ウフフ。やっぱりいいね。あなたのサックス。心に染みるわ。実はね。4ヶ月前くらいにこんな日が来ると思い、黙って、オーバーホールしておきましたよ。私の知り合いの腕の良い職人にやってもらったから安心してね。」

妻が、この男の顔を見て微笑んだ。昔の音楽仲間に腕の良い技術者がいたのだった。


「ええ。フルメンテしてくれたんだ?音色も少し変わっているよね。それよりもキィタッチがすこぶる滑らかになったよ。演奏が楽になったよ。ありさ。ありがとう。」

この男は、ニコッと笑って、妻に向かって頭を下げた。


「結構、費用かかったんじやない?」

この男が、妻の目を見た。


「うん。かかった。でも、音楽教室の経費で落としたから。それとお友達価格だったから。心配しないで。」

妻は、この男の目を見て微笑んだ。


「いいね。これ。14年物なのに新品になったよ。良い再スタートが切れそうだな。」

この男が、金色に輝いたサックスを見つめた。


「ねえ。俊ちゃん。私のお願い聞いてくれる?」

妻は、珍しく、この男を名前で呼んでこの男の目を見た。


「俊ちゃんもこのサックスと同様に生き返ってください。そしてまた、この音楽教室のサックスの指導者で帰って来てください。お願いします。それと、あなたには、待っている生徒さんがたくさんいるから。篠田さんみたいにね。」

妻は、この男の目をまっすぐ見た。すると、妻は、この男に抱きついて、唇を重ねた。ふたりは、しばらく動かなかった。無言が続いた。


「ありさ。心配かけたな。自分は、もう大丈夫だ。1年前までは少しだけ悪い事が続いたからな。ゆかりの病死。それと、自分が脳梗塞で倒れ再起不能と診断がくだされ立て続けだったからな。でも、また、一丁やってやるか。サックスホーンに自分は救われたな。なんと言ってもありさのおかげだよ。34歳の誕生日にサックスホーンをプレゼントしてくれたんだよね。」

この男は、また、サックスホーンに語りかけながら顔を上げて妻の顔を見た。


「それじゃ、レジェンドでは、2曲、演奏する。レジェンドには、ピアノがない。それにカラオケに乗せてじゃカッコ悪いし、そう、サックスホーン1本でやる。チークタイムには、『ファーストラブ』。エンディングには、『粉雪』。を演奏する。」

この男は、妻に告げるとサックスを握った。


「うん。いい曲ね。私も好きだわ!せっかくなら、ピアノの伴奏したかったなぁ。」

妻は、この男の目を見て少し残念そうな顔をした。


「ありさ。今度、頼む時が絶対あるから、楽しみにとっておいてね。」

この男は、妻に笑顔を見せた。


妻のありさは、ピアノ、この男は、サックスで昔、ライブをやったりしていた。また、コンテストで優勝もした。ありさは、若い頃、有名なバンドに席を置いて活動をしていた。美人トランペッターで人気があった。赤間川ありさ。年齢は50歳。現在、 自分で法人を作って音楽教室を経営している。


音楽教室の前の遊歩道は、買い物帰りの主婦、犬を連れた散歩の老人、子供連れのお母さんらが立ち止まって教室から漏れて聞こえてくる、この男の吹くソプラノサックスの音に耳を傾けていた。少しだけ、肌にあたる風が冷たい年が明けたばかりのすっかり暗くなった、日曜日の夕方の街。遊歩道の水銀灯がぼんやりと冷たい歩道を照らしていた。



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