2話
部屋というよりは、空間だった。床は白く、他は黒い。壁と思しきものは一切なく、広々とした空間だった。というか、広すぎる。前後左右どこを向いても地平線が見える。唯一景色が違ったのは、壁もないところに突然現れる扉くらいだ。高級そうな、というと子供じみたいい方になるが、まさしく豪邸で見るような立派な木目の扉だ。五人くらいが並んでも通れそうな横幅に、縦は四メートルはありそうだ。その扉が、軽々しく開かれた。そして外から二人、この何もない空間に入ってきた。先ほどの男と、柚だ。
「大丈夫でしたか?」
「怪我はしてません。でも特に情報も得られず逃げられてしまいました。何か聞き出せればと思ったのですが……考えが甘かったですね」
「今回は救出が第一目標ですから、いいですよ」
槙夫はだんだんと冷静さを取り戻していた。そして同時に、再び混乱に陥りかけていた。
それは一種の現実逃避だった。謎のただっぴろい空間に連れてこられているという現状、まるで自分が助けられなければならない対象だとでも言いたげな会話の内容、遅れて入ってきた二人のみるからに戦った後のようなボロボロの服装。冷静に考えればそこから導き出されるこれからの展開は容易に想像できなくもない。しかし、想像したくなかった。槙夫は一部の人が焦がれるような非現実的な世界など望んでいなかった。それゆえの混乱、つまり現実逃避である。
「あれ、西原君、大丈夫?」
幸か不幸か、そんな槙夫の様子にいち早く気づいたのは柚だった。委員長という立場のせいか、彼女は非常によく周りを見る。いや、委員長だからといってそうしなければならないということはないし、他のクラスの委員長は適当な人も多いのだが、彼女はそうしなければ気が済まない性格だったということを思い出す。
「西原槙夫ォ! お前、西原槙夫で間違いないな!」
「あ、ちょっと旭ヶ丘さん……」
柚とともに帰還した方の男が、分かりきったことを叫びながら槙夫に近づいてきた。なるべくここに居る人たちと目を合わさないようにしていた槙夫は、その声に圧倒され思わず返事をする。男のだらしない服はよれて更にだらしなくなっていた。特にジャージの袖が燃やされたように短くなっている。そこから伸びる手は煤けて黒くなっていた。槙夫がこの場所に連れてこられて二人が戻ってくる数秒間で何があったのか、考えるのを放棄している槙夫には想像つかなかった。
「俺はな、旭ヶ丘奏。どう呼んでくれても構わない! 旭ヶ丘でも奏でもかなかなでもなんでもいいぞ! であっちの表情筋が硬そうなやつが井東馨であっちの女子が松浦柚。結構な美女だ! しかしうつつをぬかすな! ああいう美女は割としたたかな場合が多いぞ! 痛い目見るぞ!」
「はあ」
「聞こえてますよ旭ヶ丘部隊長」
「松浦さんと西原君は同じ学校の同じクラスだから紹介するまでもないと思いますが」
「ああ!? 外野うるさいぞ静かにしてろっ! 見守ってろ! お前のことはなんて呼んでやろうかな! にし……まき……」
ものすごい速さで捲し立て、自己紹介を終えたと思えば次は何やら考え込み始める。奏の一挙一動がとてつもないスピードで変化していくのに槙夫は追いつけなかった。更に話しながら目にもとまらぬ勢いで身振り手振りも欠かさない。一人で喋りまくって一人で動きまくっている。まさに置いてけぼりだった。
一方で後ろの二人には少なからず意味が通じていたようで、このおしゃべりマシーンの扱いには手慣れている様子だった。
「決まった! はらまきはどむぎゃ」
「馬鹿はちょっと黙っていてくれませんか。本題に入りたいので」
あまり呼ばれたくないあだ名が決定したところで、延々と廻り続けそうな口を封じに奏の後ろから馨が頭に手刀打ちを喰らわせる。表情筋が硬いだのなんだの言われていたが、顔には多少いらだちが見えていた。本当はそこそこ短気なのかもしれない。
「痛いぞ~今のは結構来たぞ馨……脳細胞が何匹死んだか分かるか?」
「知りません」
「塩対応だなお前はー……!」
「改めまして、私は井東馨といいます」
頭頂部を押さえる奏のことを完全に無視し、馨は話を進め始めた。
「少々手荒な真似をしてすみませんでした。あなたをここに連れてきた理由、先ほどの少女の正体や彼女があなたを追いかけていたわけも、今からすべて話したいと思います。その前にひとつ……」
馨は神妙な面持ちで言い始める。これ以上現実逃避をするわけにはいかない。それだけは槙夫にも分かった。今からどんな理由が語られるのか、どんな事態に巻き込まれるのか。出来れば全部なかったことにして家で寝たい。どうすればなるべく最小限に回避できるだろうか。なるべく希望的な観測を持って話を聞こうとした槙夫の決意は、次の一言ですべて打ち砕かれる。
続きを言おうとした馨を奏が遮る。また馨の表情が曇ったがそれを見て見ぬ振りし、奏は槙夫に現実を突きつけた。
「お前に与えられる選択肢は二つ。簡単だ。俺たちに協力するか、利用されるか」
先ほどまで騒ぎ立てていた様子はなりを潜め、まっすぐな視線が槙夫を貫く。
「逃げるなんていう選択肢は、無い。どちらがいいか、決めてくれ」