厳冬:破綻・下
弟君の説得に失敗し、失意のまま迎えた翌朝。
朝食の場にレスカの姿があった。それも健やかな姿で、血色の良ささえ窺える顔色で、である。
弟君が付きっきりで看病し(私とカストロによる手伝いの申し出は謝絶された)、結局何もできず隣室で寝泊まりすることになった私は驚愕を隠せなかった。
レスカの様子から、数日の逗留は覚悟していたのだ。これもまた勇者の力なのか。
私が声を掛けるよりも先に、レスカは深々と頭を下げた。
「迷惑をかけました。伏してお詫び申し上げる」
「いや、こちらこそ、お前の不調に気づいてやれなかった。済まない」
私が頭を下げて返すと、レスカはなにやら珍妙なものでも見たかのように、まじまじと私を見つめた。
「どうした」
「貴女が人に気を遣うなど、物珍しいこともあったものだと思うてな」
「失敬な」
と私が咎めると、しかしレスカはくすくすと笑う。袂(たもと)で口を覆う仕草がどことなくあどけなく見えるが、あるいは、これが年相応の振る舞いなのかもしれない。
思わず不気味に思ってしまったほど、彼女は機嫌が良かった。
「体調はもう問題ないようだな」
「無論。強行軍は覚悟しておる。遠慮はいらぬ、遅れを取り戻して余りあるほど急ぎ足で行ってよいぞ。ありがたくも勇者殿が拙僧を朝まで看てくれておったでな、これまでより調子が良いぐらいよ」
レスカは「弟君のことを思えば、いま少し起つのは遅らせるべきではあるが」と但し書きをしたが、今すぐにでも出て構わない風な威勢の良さを見せていた。
そんな彼女の様子に、私は幾分引け目を覚えながら伝えた。
「……その、旅路についてなのだが」
不甲斐ない話ではあったが、弟君との交渉決裂を私は素直に話した。
レスカは表情を一変させ、神妙な面持ちで聞いていた。
「私は、どうしていいか、わからない」
王権派である私が、鋭く対立する王院派のレスカに弱音を吐くことなど、本来はあってはならないことだ。
だが私は一晩、まんじりともせずに思い悩み、それでも解きほぐしえなかった葛藤まで正直に話していた。
「勇者殿がどうして西に行きたがっているのかがわからん。だが、あそこまで言っておられるのならば、その希望は叶えるべきなのだと思う。しかし、立場が許さない。だから説得しないといけない。だが、説得の言葉は届かなかった」
「ふむ」
「私はもうどうしていいのかわからないでいる。お前は此度のこと、どうすべきだと思う。お前の意見を聞かせてほしい」
吐き出しきった思いだった。
レスカとて私と同じように難しい立場のはず、明確な答えなど期待できない。それでも、共に旅を進めてきた彼女の意見が聞きたかった。あるいは、共に悩んでもらいたかったのかもしれない。
だが、私の思いとは裏腹に、レスカの返答は明瞭だった。
「院は勇者の道を妨げぬ。西に行きたいとの仰せなら、従うのみよ」
思いがけない返答だった。思わず、ぽっかり口が開いたままになってしまったほどに驚いてしまった。
意外かと問うレスカに、私は素直にうなずいた。
「ドノスティアの一件は、王院も頭を悩ませていると聞いた」
「違いない。各司教区からの支援を求める声に頭を悩ませているであろうな。ただちに勇者を我が元に派遣せよと、何を勘違いしたか、下らぬことを言い立てる者すら出ておる始末」
他人事のような口振りであった。どこかあざけるような、いい気味だと思っているかのようにさえ見えた。
どう解して良いものかとまどう私を見やり、のぞき込みながら、レスカは言葉を続ける。
「王院にはさまざまな人がおってな、平たく言うと、教団を宰領するのを生業とする者と、教えを生き道とする者がおる。互いに意見が異なるゆえ、院が割れることもしばしばよ。中には勇者の行いに疑義を唱えておるような不信心者もおる」
だが、とレスカは音吐に力を込めて、言う。
「だが、院は、勇者を妨げることを絶対にせぬよ。なんのための教団か。たとい世俗に染まれども、心ある人はそのことを決して忘れぬ」
一枚布を接いで作られた僧服の袂に手を入れ、レスカは一枚の紙を取り出す。
「貴女にはぶつくさ言われたものだったが、行った甲斐があった」
手渡された紙を見れば、そこには第三司教区のレンブラント司教の署名と印があった。署名と印だけで、他には何も記されていない。
「何かあった折りには使えと渡されたものである。その名義で、いかなる命も行いうる。猊下のお力を借りれば、いささかの暇は得られよう。冬至に間に合わぬとて構わぬ、公都の公院の抑えは案ずるな。王院にも口出しはさせぬ。いかな不信心者とて、猊下の言葉には逆らえはせぬ」
「お前、まさか、此度のことを予見していたのか……?」
「それこそまさかだ。そんなことができる者などおらぬ」
レスカは笑みを見せて否んだ。「猊下のご厚意よ」とそう言う。
なんにせよ、レスカの意見はわかった。だが、割り切れない余りが、私の頭をよぎる。
「……お前は昨日、勇者殿を止めていたな。西は駄目だと。ならば、あれはなんだったのだ」
「あれか。そうさな、拙僧とて、行かずに済むのなら西になど行きとうない。行かねばならぬと思うただけで肝がすくむわ。拙僧でこの体たらくである。『理』に敏(さと)い勇者たる弟君ならばなおさらのこと、辛い旅路であろうよ。思わず止めてしもうたわ。気弱と笑えばよい」
「それは、どういうことなのだ――」
これだ、と思った。
これが、私やカストロがわかっていない、と言われたそのことなのだ。思えば、レスカも言っていたではないか。私とカストロはわかっていないのだと。
私の問いに、レスカは少し思わしげな表情を見せた。
「どういうこと、か……。どう言うて良いかわからぬ。これより西は魔境よ。そのことがわからぬ者に説明するのは、難(かた)い」
「頼む。教えてくれ。もはや、わからないままでいていい問題ではないはずだ。私はそのことを、知りたい」
「そうか……」
つと天井を見上げたレスカは、そのまま語る。
「何があるとは、言えぬ。何が起こるかもわからぬよ。拙僧もな。だが、確かに、『理』の澱が西を埋め尽くしておる。おびただしいほどの積年の穢悪(あいあく)がはちきれんばかりになっておるのだ。その祓除(ふつじょ)に弟君は向かわれるのであろうよ」
「『理』の、澱?」
「としか言えぬ。思えば勇者召喚そのものが、祓除なのであろうな」
正直、レスカの話は理解できなかった。だが、弟君は何かとても大切なことをするために、西に行かなければならないのだということは、わかった。
そして、それゆえに、レスカは弟君の西行を助けるだろうことも、わかった。
ならば、次に訊くべきこと、知らねばならぬ事柄もわかる。
「――貴族派は、どういう立場を取っている」
どこへともなく姿をくらましていたカストロは、間もなく遅参した。そんな彼に、私は単刀直入に問うた。
くはは、とカストロは思わず笑いを漏らしていた。
「それをお訊きになるか」
「済まない。だが、聞かねばわからん」
「いや、なに、良いことではありますぞ。思えばローザンヌ殿は、そうして訊くことが少なすぎたのでしょう」
敵対する派閥の人間に「あなた方は何を考えているのだ」と訊くなど、恥知らずにも程がある。だが、それでも知らねばならないと思ったのだ。だから訊いた。
くつくつと笑うカストロには、しかし、あざけりの色は見えなかった。
「貴族派はいつだって中立。国の舵取りは王権派と王院派にお任せしている。しかし実際のところ、すべてを動かすのは我々なのですよ。我々官僚が国を動かす。どのような状況であれ、我々は国を回せるのです」
強い言葉だった。そこには確かな自信が垣間見える。
「であれば、冬至に公都に着くかどうかなど、有り体に言えばどうでもよいのです。日取りが変われば、そのときはそのとき、それ相応の応対をすれば良いだけのこと」
「そうなのか……」
意外な話だった。もっとも強く弟君に翻意を促していたのはカストロだったが、彼自身には利害がないというのだから。
しかし、カストロは付け加えた。
「ただし、それもあくまで、王権派と王院派という舵取り役が見えるがゆえでもあるのです。いま、状況は混乱して、事態は勇者殿の手中にあると言っていい。この状況を好ましく思わない向きもいるのは、否定しがたい事実ですな」
「そうか……」
「しかし、大方は、事態の推移を見ている。事態を動かそうとはしておりませぬ。むろん、冬至の祭りを望んでいる大公殿の意向もありますが、それはあくまで王国と公国の問題であって、王権派の領分。我々にはさして関わりのない話ですな」
私は謝して、考え込んだ。
政治面で考えれば、貴族派はどうなっても構わないと考えている。王院派は元々、勇者の行動を妨げぬよう働きかけてきていた。共に、勇者殿の西行を妨げるつもりはないわけだ。
つまり、予定を変えられないというのは王権派の主張に過ぎない、とも言える。私が思っていたよりも、事は単純だったのだ。
「何をお考えです、ローザンヌ殿」
とカストロが私に問いかける。
「よもや、西に行くなどと考えているわけではありますまいな」
「……勇者殿の要望なのだ」
「だから、本国からの命令を無視すると? それは無茶が過ぎる」
カストロは「やれやれ」と小さく嘆息した。
「ローザンヌ殿。言ったでしょう。貴女は貴女の立場を考える必要がある。いや、もっと言えば、王権派の立場だけを考えて動くべきなのです。そうであればこそ、諸々の事情に通じていない貴女が旅の先導役に選ばれたのだと自分などは思うのですよ。下手に三権の駆け引きなど考えず、方々の都市の事情など考えず、王権派のことだけを考える者であればよいと」
「ふむ。なるほど。良い推理であるな」
と黙って聞いていたレスカが合いの手を入れる。「この直情径行の石頭がどうして選ばれたのかと思うておった」などとさえ言う。
その手酷い論評にカストロもうなずいてから(そんな場合ではないが、私は密かに傷ついた)、私への意見を続けた。
「それゆえ、貴女が『都合のいい手駒』でないとなれば、貴女は王権派に切り捨てられる。仮に西行したとしましょう。大公は面目を失い、その怒りは勇者召喚を取り仕切る王権派に向かう。責を負わせるべき勇者が去ることを思えば、そうならざるを得ない。そうなれば、王権派は貴女を犠牲として俎上(そじょう)に載せるだけです。貴女は近衛としての身はおろか、公職から逐われるかもしれない。勇者の旅の友として、処刑こそ無いとは思われますが……」
「そうか。それは知らなんだ。貴女はそこまで難しい立場にあるのか」
驚いたように言ったレスカは、同情の目を向けてくる。
「自分はそんなローザンヌ殿を見るのが忍びない。旅路の友が難癖付けられて処断されるところなど、見たくはないのですよ」
「拙僧も、貴女が苦境に立つ姿など見とうないが」
とうなずいたレスカは、珍しくおどけたように言う。
「なに、心配召されるな。近衛を逐われたならば、院に来られよ。拙僧が召し抱えてやる」
「レスカ殿。真面目な話ですぞ」
「拙僧も真面目に言うておる。ならばカストロ殿は、路傍に迷うたローザンヌ殿を見殺しにするのか」
「まさか。そうなれば、自分だって南都騎士団に迎え入れる用意はありますよ」
「そうであろ、そうであろうよ」
私を傍観者にして、私の話が進行していく。その様を、私はただただ呆然と眺めていた。
だが、不意に、カッと腹の底が熱くなった。二人が私を思いやっているということが、急に染みた。
長い旅路にあって、少しは心を通わせたかもしれないと、そういう思いはあった。でなくば、こんなにも明け透けに物を訊けたりはしない。だが、ここまで思ってくれていたのか。
その気持ちを冷ますかのように、王都からの使者の言葉が浮かび上がってくる。彼らは私の家門を脅しの材料に使っている。武門であるがゆえに、それほどの不名誉は家を潰すことと同じこと。そのことは変わらない。
王都へと到った幼子の頃の私を預かってくれた人たちに、恩を返せぬどころか土を付けることになる。
それでも、少しだけ、心が軽くなった事実は、確かに私の心に残っていた。
「もしローザンヌ殿が身命を賭して勇者殿に従うというのならば、自分も手伝いましょう」
そう言って、カストロは翻意した。
そして、付け加える。
「それにしても、ローザンヌ殿の勇者殿への肩入れは並々ならぬものがありますな」
「拙僧も思うたわ。よくぞそこまで覚悟した」
肩入れと言われ、そうかなと首をかしげる。
弟君のような童子に重責を負わせ、その挙げ句に兄まで奪った。そんな私にできることは、私もまた責を負うことぐらいだと、そう思うのだ。
そのことを二人に伝えると、二人はなぜだか、少しだけ笑った。
「なるほどなるほど。ようやくローザンヌ殿の心底が理解できましたぞ」
「これはまた、あるいはこの心得違いは不憫なものでさえあるな」
そう言って笑いあう二人に、どういう意味なのか訊ねたが、言を左右にしてついに答えを教えてくれることはなかった。
私は頃合いを見計らって、一人で弟君の元へと向かった。一人の方がよいと、レスカとカストロの勧めだった。
「勇者殿を翻意させられるのは、貴女以外にいない」
翻意という言葉に疑問を覚えたが、信頼されて任されたことはわかったから、私はうなずき、部屋へと向かったのだった。
弟君は、夜を徹した疲労など見せず、旅支度をすでに済ませていた。
「勇者殿」
決定を伝えようと声を掛ける。
そんな私を見据えながら、弟君はしみじみ語った。
「ローザたちには世話になったな」
「……は?」
「そのことには本当に感謝してるよ」
でも、と弟君は続けた。
「パーティはここで解散にしようか」
驚き言葉を失う私を前に、弟君は言葉を続けた。
「レスカは、やっぱり西に行くのは厳しいだろうしね。ローザとカストロの二人には立場がある。僕が西に行く以上、パーティを解散した方が、まだいいかなって」
「勇者殿」
と再び声を掛ける。だが、弟君はこちらに構わず話を続けた。
「解散したって、ローザは苦しい立場だけどさ、僕にできる限りのことはするから。本当に苦しくなったら頼って」
昨日できてしまった壁の、その向こう側から話されているかのような、そんな遠さを感じる。
このままでは、本当に、ただお一人で去ってしまう。その事実が私の中で厳然と立ち塞がった。
幻視だろうか。見えるような気さえしている。ただ一人、西へ、大地に大きな亀裂の入った西北の、「違え人」が跋扈(ばっこ)する大地溝帯へと向かう姿が。
その姿は、同じく「違え人」の跋扈する東部森林帯で消息を絶った兄君の後ろ姿と重なって見えた。
その姿はどうしようもなく、悲しくて、悲しくて。何よりも私がたまらなく嫌だった。許せなかった。
「だから、ここに正式に宣言する。勇者パーティは――」
ぞわりと肌が粟立つような感触。この宣言はいけない。
どうするかなんて、決めていなかった。ただ、西行に賛成する旨を伝えるだけ。そんなつもりだったのだ。こんな風に話が進むなんて、思いもよらなかったのだ。
だが、私はどうにかしなければいけない。宣言を言わせてはならない。
また、レスカに直情径行だなんだと言われて、さぞ馬鹿にされることだろう。家のことはどうするのだ。何も考えついてはいない。
だが、それでも私は、感情が迸(ほとばし)るままに、動いていた。物音が響きわたるほどに騒々しく早々に。
「――ローザ?」
「勇者殿」
三度の呼びかけは、ようやく届いた。
私はただ、伏して、額(ぬか)づいていた。対面して届かぬのならば、伏して言上するしかないと、そう思ったのだ。
「レスカとカストロは、西行を良しとされました」
「え、そうなの?」
「はい。私も、異存はありません。西行に同行いたします。公都へは、早急に書状を送りましょう」
私の懐には、王国から信認された印がある。王権派へと勇者のお二方の動向を報告する密書を送る折りに使う封印だ。
この印で封蝋された文であれば、大公も受け取らぬことはないはずだ。王国からの密書なのだから。冬至の祭りの延期を伝えることは、できるのだ。
それは、私の権限でできる行いではないけれど。
「ですから、解散など、ゆめ申されますな」
伏したまま、ただ返事を待つ。
頭を上げれば、もう弟君はいないのではないかと、そんな恐れさえ、私の中にはあった。そんなことをする人ではないと知っているはずだが、それでも。
それほどに、弟君の宣言は、私をおびえさせていた。幼子が親から見捨てられることを恐れるかのように。言上する声が、震えていたかもしれないほどに。
やがて。
頭を上げれば、弟君は傍らに居て、そっと肩に触れていた。
「……ごめんね」
と語りかける言葉に、壁を挟んだような距離は、もうなかった。
「そこまで覚悟させるつもりじゃなかったんだ。ごめん、焦りすぎだった」
「勇者殿。覚悟など……」
「ローザは、自分のことだけじゃなくて、家に泥を塗る覚悟をしてまで、僕に賛成してくれたんだよね」
見透かされていた。これも勇者としてのお力か。
私はうなずくこともできず、固唾を呑んでただ弟君を見やっていた。
「うん。そっか。わかった」
弟君も私をのぞき込むように見やる。
「なんとかするよ。大丈夫、ローザも、レスカも、カストロも、ローザの家も、なんとかする。勇者だから、なんとかできるよ。約束する」
だから、と改まって、弟君は言った。
「お願いするよ。僕は西に行く。だから、付いてきてくれないかな?」
私はかすれた声で、返事をした。
(次話「冬至:世界の危機と、兄弟勇者」に続く)