晩秋:秋の晴れ間と、ドノスティアでの弟勇者の行い・下
とんでもないことが始まってしまったその夜。
密かに、逗留している領主宅を抜け出す弟君の姿が見えた。
(見逃すわけには、いかないか)
弟君のような童子が、色町で気晴らしというわけでもないだろう。好奇心で抜け出すような分別の付かない人でもない。故あっての外出なのだろうとは思う。
だが、なんであれ、一人での外出を見逃すわけにはいかなかった。
密かに尾(つ)けていくと、弟君は北門の方へと歩いていっていた。迷いのない足取りで、人通りも絶え絶えな大通りを進んでいく。
静かな夜だった。遠くからかすかに物音が聞こえるときはある。だが、日中の気ぜわしいほどの騒がしさからはほど遠いほど、静かだった。
やがて、北門にたどり着く。当然だが、その扉はかんぬきが掛けられ、閉じられていた。夜回りの歩哨は、いまはいないようだった。
細く口笛が鳴らされる。
暗がりから現れたのは、三人ほどの人だった。
取り囲むように寄った三人を見て、私は慌てて駆け寄ろうとした。だが、すぐに足を止める。三人と弟君が、親しげに声を掛けあっているのが見えたのだ。
目を凝らしてみれば、門脇の篝火が照らした一人の顔にはどうも見覚えがある。
(……ああ、そうか)
思い出した。あれは、昼に穴掘りを頼んでいた三人の一人だ。ということは、あれは人足をしていた三人なのか。
やがて、その三人に案内されて、弟君は外壁沿いに進んでいった。
それほど歩いたわけではない。少し離れたところにそれはあった。
外壁沿いの、薄汚れた裏道に隠されていたのは、外への抜け道だった。
「――勇者殿」
そう声を掛ける。
振り返った弟君は、目を丸くして驚いているようだった。
「あれ、ローザ? ついてきてたの?」
「はい」
まさか、気づかれていないとは思わなかった。私の方も驚いていた。
参ったな、と弟君は頭を掻いた。
「ごめんね。こんな夜遅くにこっそり外出して」
「それは構いませんが、勇者殿。ここはレスカが獣払いをしているわけではないのです。早く街に戻りましょう」
「ああ、それは大丈夫。ここは人の臭いが強すぎるから、獣は寄らないよ。一応獣除けも用意してあるしね」
と笑いかけてから、ちょっと照れくさそうに顔を赤らめる弟君。
表情を見えるほどに近づいて、ようやく気がついた。弟君は、手ぬぐいを片手に素っ裸だった。
「しまったなあ、もう少し早く気づいてたら良かったんだけど。もう脱いじゃってさ」
「……何をなさる、おつもりだったのですか?」
ポカンとそのまま見やる私に、照れくさそうにしたまま弟君はうなずいた。
「いや、ちょっとね。せっかく作ったんだから入っておこうかなって。温泉に」
「は、はあ」
「あの、入っていい? 寒くって。さすがに風邪引いちゃいそう」
「あ、は、はい。どうぞ」
なぜか私に許可を求める弟君に、私はにぶい反応を返した。
そのうなずきに、弟君は笑顔を見せて、ざぶんと湯の中に入った。目を凝らしてみれば、確かにそこは、昼間に掘っていた場所だった。
「新月だから真っ暗だし、観月の楽しみはないけどね。ちょっと具合を確認したかったんだ」
「……」
さすがに、どう返していいのかわからず、しばし私は迷った。
それから、愚にもつかぬことを問うた。
「その、湯の、具合はいかがですか」
「ああ、湯加減? 野晒しだし、やっぱりちょっとぬるいかな。この方が長く入れるし、体にもいいんだけど。僕の故郷だと結構ね、みんな熱い風呂に入るんだよね」
「そうなのですか」
「うん。やっぱり、もうちょっと熱い方がいいか」
そう言った途端のことだった。
熱気が辺りへと放たれ、暗闇の中で、湿った湯が上らせる白い気配が確かに色濃くなったように見えた。ムッとした重たい空気が広がる。
それはとても自然なことで、私も当然のことであるかのように受け取ってしまっていた。
上機嫌に鼻歌などを歌っていた弟君は、ふと気づいたように声をかけてくる。
「湯気でだいぶ空気が暖まってると思うけど、ローザは大丈夫? この辺はだだっ広い分、街より寒くなってるし」
「問題ありません。近衛では、門衛としても従事していましたので」
近衛と言えど、外勤も少なくない。王室の外遊や出征の折りには、夜を徹して守衛を勤めることも珍しくない。ましてや、近衛に叙される以前の頃などは不寝番など当然のことであった。
温暖な北部にほど近いこの地域の、それもまだ秋の頃である。ましてや、温泉なるものから暖気が上がってきているのだ。たとえ夜を徹して番を務めたとしても、さほどのこともない。
かつて東の森林帯へと親征があった折りなどは、形式的に「王の威光を恐れて『違え人』は森からさえ出られなかった」という事実を得るために、夜の森林にあって、夜を徹しての監視に当たったものである。
あれは凍えるような晩冬のこと、襲撃と寒さで幾人もの団員が喪われた。
親征のあったその地は私の郷里だった。すっかり変わり果てた郷里。人里があった跡すらまばらだった。故郷ゆえに下働きの身ながら先導の一人を任され、そうしてそこでの活躍が認められて近衛へと入団が認められたのだ。
「違え人」らが夜を徹して鳴らし続けた鐘楼や鼓の音と共に、どこか懐かしく思い出される凄惨な思い出を、私は首を振って振り切る。
弟君はどこかのんびりとした口振りで声をかけてきた。
「でも、寒いだろうし、もうちょっと近寄る? ってダメか、僕はこの格好だし」
「は、はあ。確かに」
正直、気にするほどのものではないと思うが、本人が恥じているものへ口を挟むこともないだろう。年頃というのは、あるものである。
少しだけ離れた位置で、私は目線を外したまま弟君との会話に応じていた。
「……うあー」
「ど、どうされました」
「あ、ごめん。伸びてただけなんだ。いや、やっぱりいいね、温泉」
見えないだけに、一挙一動に反応してしまう。
暗闇の中、こうして街の外で過ごすというのは、さすがに慣れたことではない。まして、警戒するのは私一人なのだ。
自然と顔が強ばってしまう。
「……そんなに緊張しなくても大丈夫だよ?」
「いえ、しかし」
そんな風に察して言う弟君に、私は当惑した。
「やはり、郊外ですから」
「この近くには誰もいないし、何も近づいてきてない。安心して構わないよ、本当にね」
「……それは、勇者としてのお力ゆえの断定なのですか?」
思わず、不躾に問いかけてしまう。途端、ハッとして、弟君に顔を向けていた。
勇者としての力を問うことは、勇者パーティにおいては禁句だったと言っていい。かつての勇者の中には、その力ばかりを求められることにほとほと疲れ果て、王国との関係を絶った人もいたと伝え聞くのだ。
だから、勇者としての力が見えても、そのことには触れないでいた。特に、あの雨中の川渡りがあってからは。
そのことは、私自身が自らレスカとカストロの二人に言い含めていたことだったのに。
「そうだね」
だが、弟君はいつものように、なんでもないかのようにうなずいた。
白い湯気越しに、夜闇越しに感じられる気配には、動揺の色は見られなかった。
「勇者の力ってどんなものか、説明しろって言われると困るんだけどね。食べるってどういうこと、寝るってどうやるのって訊かれてるみたいでさ。でも、まあ、そんな感じのことができるみたいだよ。自然とか、人とか、いろいろなものが見えるし、いろいろなものに影響できる」
「なるほど……」
「だから、この温泉も、本当はもう少し地中深くにあったんだけど、あんまり掘らなくてもいいように少し上に昇ってきてもらったし、いまも少し熱くなってもらった。前も、川に頼んで上を通させてもらったりもした」
想像を絶する力に、私はめまいがするような思いだった。
そうか、そんなことまでなしうる、それが勇者なのか。改めて、レスカが「理」外の人だと言っていたその意味が、痛感させられる。これはあまりに隔絶している。
だが、弟君は、
「まあ、勇者の力としては、小手先の技なんだけどね」
などと言う。
「小手先ですと……?」
「うん。そりゃあ便利だけど、勇者に必要な力ってこういうのじゃないでしょ?」
お茶はすぐ作れるし追い炊きもできるけどね、と弟君は気楽に言う。
「今回も、これだけ旅が遅れてるってのに無理言ってきたから、ちょっと強引な手で打開してみたけどさ、これで同じような無理を言ってくる領主が出ないようにってね。でも、これも結局、小手先だよ」
私は絶句するような思いで、その陰を見つめていた。
かすれた声で、問いが、漏れ落ちる。
「でしたら……」
「うん?」
「でしたら、我々の力など、そもそも必要ではなかったのではありませんか……」
これほどの力を持っている人に、我々付け人の補助など、本当に必要だったのだろうか。
だが、弟君は強く否む。
「いや、そんなことないよ。本当に良くしてもらって、助けてもらってる。必要ないなんて、そんなことないよ」
「しかし……」
「実際、僕なんて最初は半病人だったし。さすがに兄さんも一人だったら無理ゲー……じゃなかった、どうしようもなかったと思う」
だからね、と弟君は言う。
「ローザもさ、力不足を恥じる必要なんかないんだよ」
私は目を見開いた。
白い闇を裂いて、弟君は現れた。裸体の中で、胸元に光る見慣れないペンダントがまず目に入った。
「それは、どういう……?」
と私が問いかけるよりも先に、弟君は「あっ」と大きな声を上げた。
「うわ、ごめんね。普通に上がっちゃって。いま着替えちゃうから」
慌てて足下に畳まれていた服を着始める。
てへへと笑う彼は、どこからどう見ても年相応の童子の姿だった。
「脱衣所に誰か女の人が待ってるなんて、普通は無くてさ。つい普通に上がっちゃったよ。無意識って怖いねー。ほら見てよ、雪まで降ってきたからさ、そっちに思わず見入っちゃってさ」
「は、はあ」
「あ、ローザも入りたい? 入りたかったらどうぞ。覗いたりしないから安心してね。近くで待ってるよ」
「あ、いえ、自分は、領主宅で水浴びをさせていただいた分で十分ですので」
めまぐるしく展開する話に目を回しながら、私は先程持った疑問をただただ抱えているしかなかった。
「せっかく良い感じの温泉なのに。もったいない」
「は、はあ」
「でも、まあ、もう時間も時間だし。帰ろっか」
追い打ちをかけるように、弟君は言葉を結んだ。
「次は兄さんと合流してから、みんなで入りに来ようね」
私の心がガタガタに揺さぶられたその夜は、それだけで終わらなかった。
夜明け方に届いた王国からの命令書には小さな添え書きがあり、曰く――仲秋に兄君が森にあって「違え人」の襲撃に遭い、その行方を見失ったと。
その報が本当に小さく書き添えられていたのだった。
(次話「厳冬:破綻」に続く)
【晩秋の夜明けと騎士の蔑み】
ドノスティアで再び勇者が奇跡を顕現させた翌日、それも黎明のことである。仮面を付けた二人の男が密談していた。
勇者パーティの旅路の報告を受けた貴族派の連絡員が、声を潜めてささやいた。
「しかし、カストロ殿」
「なんですかな」
朝早くにあってもいささかも変わらず、常のごとくにこやかに応対したカストロ。
その愛想の良さに心を許したかのように、連絡員は口元をゆがめて言葉を続けた。
「勇者の行いは過ぎたものであると、南都では語られているのは存じておられるか?」
「春先には特にそう話されていたとか」
カストロは正しいリズムでうなずく。その相づちに乗せられて、連絡員は口を滑らかにする。
「今回のドノスティアでの振る舞いも、王国の統治を乱すもの。南都での語らいも声高になろうもの」
「なるほど」
「この際、適切に対処したとして、非難する者などおりますまい」
連絡員はさらに声を潜め、カストロに語りかけた。
「あなたこそ、勇者足るべき人。南都は正しい道に戻ることに、異存などありませんよ」
その誘いに、カストロはやはり愛想の良い顔を崩さぬまま、否んだ。
「せっかくのお言葉ですが、自分は付け人の任を拝領しております。任務を果たすことを許してくだされ」
貴族派は為すべきを為し、王国を動かす実務を任された者どもである。時に事なかれ主義と揶揄されることはあれど、己が任を果たすことを美徳とする。
それゆえに、カストロのこの言葉に連絡員は、さらに言葉を重ねることはできなかった。
南都騎士団がドノスティアに置いている拠点から出たカストロは、表通りに出る前に仮面を外套の内に直した。
明け方とはいえ、人目に付く格好は避けるべきだからだ。
大通りには、曇天から落ちる淡雪が作った水溜まりが灰色の点々を作り、重々しい曇天の空を映すかのように薄暗く暗鬱としていた。
それに引きずられるかのように、やれやれとカストロは重いため息をついた。
あたかも貴族派の思惑であるかのような口振りで、こちらを使嗾(しそう)しようとした連絡員が、誰の息の掛かった存在であるか、いろいろと詳しいカストロはよく理解している。
だが、事なかれ主義的な貴族派には、物事が平坦であることを良しとする傾向があるのも事実である。
機を窺い事を為せば、あの連絡員が言うように、勇者召喚事業が本来の「正しい道」に戻ることを良しとするだろう。
今度のことで、そうした物言いが増えるだろうとカストロは予見している。
実際、それぞれの都市をほとんど素通りしている勇者パーティの顔ぶれなど、後からいくらでも捏造できるのだ。その後処理は存外容易である。
ましてや、勇者パーティを動かしていた兄君が去り、消えた後の今ならば、なおさら物事は容易だろう。そんな風に考える者は、何も王権派には限らない。
しかし。
舐められたものだと、カストロは思う。
「旅仲間に手を出すなどと、愚かしい」
無論、口に出して言うなどと迂闊なことはしない。
カストロはいつものように愛想の良い顔で領主宅へと帰りながら、口の中で蔑みを込めてつぶやいた。
それは、ドノスティアに昨晩から降り続けている初雪のように、地面に落ちるまでもなく消えたのだった。