仲秋:秋の長雨と、名も知れぬ集落での弟勇者の奇跡・下
目的が知れている――失せ人の向かった川べりはそう遠い場所ではない――とはいえ、雨中にあっての行進である。
夕闇から夜闇へと移り変わりつつある頃のこと、ましてやここは森の内にある集落でのことなのだ。その困難なることは言わずと知れたものである。
この状況下で弟君をレスカにだけ任せているわけにはいかぬと、馬車のことをカストロに任せて、私も一団に帯同した。
雨はいっそう強まり、桶をひっくり返したような土砂降りが視界を遮るような有様だった。長く降る雨のせいで足下のぬかるみも特段酷い。
「勇者殿、足下に気をつけなされ!」
「うん、大丈夫だから」
先導するレスカとともに先頭を歩いていた弟君へと殿(しんがり)から声をかける。すぐさま返事が返ってきた。
その声はそう大きなものでもないのに、激しい雨音の中で不思議と浮き立って聞こえた。それも、聞いた者を力づけるような不思議な力強さを秘めた声だった。
ふと、私は、第三司教区で宣教を任されていた弟君のことを思い出していた。
壇上にあって、堂々と述べていた様は、普段のような童子らしい姿からは想像できないほどに勇者らしいものであった。その姿を見上げる聴衆は、ただ静かにその宣教に聞き入っていた。そこには神妙な空気がたゆたっていた。
勇者の勇者たる所以(ゆえん)なのだろうか。その挙措が、話す言葉が、その場にいる人々を力づける。思えば兄君も同じく、言葉で人々を説得する力を持っていた。
何気ない会話さえ漏れ聞こえてくる。対するレスカの言葉は雨音と歩を進める音に遮られている。だが、弟君の受け答えだけは不思議とはっきりと聞こえた。
「――」
「そっか。それは悪いことをしたな」
「――」
「うん。必ず無事に帰すよ」
すでに日が落ちきった後だ。深緑で暗く沈んだ中、おそらく生活用に使われているのだろう細い道を進みながら、一団には不思議な活力が宿っていた。
ぬかるみに足を取られぬよう気は許せず、体を打つ雨に体温を奪われ、この豪雨の中で外出した者への不安は尽きぬ。そんな状況にもかかわらず、その足取りは重くはなかったのだ。
かがりを掲げて進む一団は、程なくして川べりへとたどり着いた。
普段は生活水を得て、洗濯なども行われていた広場などがあったのだろう。だが、その場も川の流れに飲まれて川幅をただ広くしていただけだった。
殿の私がそんな状況をとらえたとき、「ウソだろう」という呻き声が周囲から漏れて出た。
指さす姿も見られる。私はその先を見た。
目先がかすむほどの豪雨の中、その先に――川を挟んだ向こう岸に、人影が見えた。切り立った崖下にわずかにだけ残った川べりで、僧侶が一人立ちすくんでいた。
「なぜあんなところに」
思わず絶句する。だが、そんな場合でないと私は人々をかき分けてレスカの元へと駆け寄った。
「レスカ。あちらに渡る手段は」
「ない。架橋は流れている」
「なら、迂回して渡れはせぬか。崖上から降りて助けられぬか」
「迂回先とて同様であろう。そも、そのような時間はあるまい」
平静きわまるレスカに、私はカッとなる自分を抑えられなかった。
向こう岸を見つめたままのレスカの肩を力任せに引いてこちらを振り向かせ、怒鳴りつける。
「なら、どうする!」
「邪魔立てするな。それだけよ」
目を閉じていたらしいレスカは、薄目を開けて私を見上げた。
わずらわしげに私の手を払って続ける。
「拙僧は祈ることしかできぬ。その邪魔立てをするでない」
「祈るだと? 祈ってどうなると言うのだ!」
「勇者の進む道の一助となろう」
一瞬、意味が分からずにいた。だが、すぐさま、気づく。
傍らにいたはずの弟君が、いないではないか。
ハッとなって周りを見回すも、いない。いない。周囲で立ち並ぶのは村の人々。見る先は一様に向こう岸である。
私も再び、そちらを見やって、その瞬間、ぞわりと肌が泡立つような感覚が起こった。雨で冷えきっていたはずの体に、一際冷たく凍えるような怖気が走っていた。
弟君が一人、激流となった川の傍らに立っていたのだ。
「――何をするつもりか」
駆け出しかけた私をとどめたのは、レスカだった。
肩を押さえ込む力は強く、私はその力にあらがいながら叫んだ。
「お前こそ、なんのつもりだ! 弟君を、弟君をどうするつもりなのだ!」
「あの方は助けるとおっしゃった。拙僧はその道を介添えするのみよ」
「あんな、あんな子供に、無理難題を押しつけるのか……!」
向こう岸は圧倒的な水流に削られ、その地面はもはや、人一人が立っているのがやっとの状況。渡る術もない。レスカにはああ言って詰め寄ったが、しかし――命運尽きたとしか言えない。この状況で、できることなどあろうか。あるはずがない。
救えなかったという罪を弟君に背負わせるのか。
いや、それどころの話ではない。あの激流に入っていくなど、自死にも等しい行いではないか。なぜ止めないのだ!
化け物でも見るような思いで私はレスカを見やった。理解できない。先刻、勇者殿と談笑していた者とは思われぬ無情だ。共に旅するパーティの一人とは思われぬ無情だ。
「子供、子供か」
だが、レスカもまた、私を理解できないような様子で、初めて見る人臭い表情を見せた。
苦笑いを浮かべたのだ。
「拙僧には、貴女のことが理解できぬよ」
私を押さえつけていた手を離して、そっと指さした。
「見やれ。あれが勇者よ」
ハッとなって振り返れば。川べりに弟君は居ない。
弟君は、激流の上を渡っていた。
「……あれは」
私は思わず絶句した。そして、絞り出すように、問いを紡いだ。
「あれは、なんだ?」
「なんでも問うな。拙僧も知らぬことぐらいある」
「あれが、お前たちの言う、『理』の力というものではないのか?」
「違う」
揺るがぬ地面を歩くように、ただ静かに弟君は向こう岸まで歩いていった。
孤立していた僧侶を助け起こし、抱きかかえて、再び川を渡っていく。
このような不可解な振る舞いを「理」の力と言うのではないかと思ったが、しかしレスカはハッキリと否んだ。
「勇者は『理』で計れぬ。『理』の外におられるが故に、このような奇跡を起こすのだ」
そう言って、レスカはほっと一つ息を吐いた。
つい呆気に取られて見とれたほど柔和な表情で、ひどく安心しているかのように見えた。
「拙僧では救えぬ者を救うてくださった。ありがたきことよ」
一つ深く拝んでから、不意にレスカは私をにらみつけた。
「ほれ、何をしておるか」
「な、なんだ」
「川渡りは弟君にしかできぬ。だが、雨に濡れ困憊したあの者を助けることは我々にもできよう。薄らぼんやりして怠けているでない、痴れ者が」
「し、しれ……」
あまりの暴言に絶句しつつも、すでに歩き始めたレスカに、私は黙り込んでついて行くしかできなかった。
こちらの岸に戻った弟君は、どよめくような村人の歓声を浴びながら、助け出した僧侶の少女を抱擁して慰めていた。
粗野な衣服の中で、少女が胸に抱えた一輪の花が浮き立って見える。朱色の可憐な花だ。
そんな花を抱えた少女を慰める弟君もまた夜闇の中でも浮き上がって見えて、伝え聞く勇者の言い伝えのように、それはどこか幻想的な一幕でさえあった。
夜のことだ。勇者パーティが起こした奇跡を讃えて、村を上げて催してくれた盛大な歓待も終わった後のことである。
床に就いてから、私は今度のことを思い返していた。
炬火一つであっても貴重な辺境の集落であり、王都に送る報告を書き出すこともできない。だから、少し、考えていただけだ。
(私は、弟君を見損なっていたのか)
川渡りは奇跡と言っていい所行だった。
だが、それだけではない。何より、あの豪雨の中で、弟君は少しも濡れていなかったのだ。
正面こそ、僧侶の少女を抱き抱えていたためかその濡れた衣服の水が移っていたようだが、背中は乾ききっていた。肌着までずぶ濡れであった私やレスカとは違って、雨などなかったかのような風情であった。
私には、教会の言う「理」などわからない。便利な力を使える者がいるらしいと、その程度の理解だ。それもこの旅で実際に見るまでは、眉唾に思っていたほどだ。
では、なおさら、その「理」の外にいるという勇者の力など、わかるはずもない。
「理」について詳しく問おうにも、レスカは外出している。ちょうど今頃は、知己と久闊を叙しているところだろう。
(……まあ、いいか)
つと、私は考えを断ち切った。
勇者パーティは逗留のために、この集落にあっては一際大きな建物である僧院へと案内されていた。そんな僧院であっても、客間は一つのみであり、私もカストロも弟君と同室して休んでいた。
同室を遠慮する私やカストロを笑って誘った弟君も、今はもう夢の中。
考えに耽りながら視線を移せば、いつものようにあどけない顔ですやすやと眠る弟君の姿が目に入った。
すると、なんだかどうでもよくなったのだ。
(弟君は弟君だ。どんな力があるにせよ)
勇者を支える付け人の仕事には、なんら変わることなどない。
むしろ下手な詮索をして不快に思わせることがないように気をつけるべきであって(かつての勇者には、力ばかり求められることに嫌気が差し、王国と袂を分かった人もいるのだ)、力のことなど気にすべきではないのだ。
下らぬことを考えるのはやめて、私も眠ることにした。
あの日――兄君を追い出したあの日から、私は不寝番の任を解かれていた。半病人の弟君一人であればどうとでもなると、王権派はそう判じているようだった。密使の蔑むような口振りが、怒りと共に思い出される。
今度のことを思えば、その考えに疑問もないでもないが、せっかく寝ていいと言ってくれているのだ。寝ればよい。
これで夜更かしでもして体を壊してしまえば、またレスカに痴れ者と蔑まれることだろう。
もう一度だけ弟君を見やってから、私は眠りについたのだった。
【秋の夜長と僧侶の嘆息】
大人らの説教の言葉もものともせず、興奮した様子で勇者の奇跡を語り続けていた少女。
そんな彼女も夜も更ける頃にはうつらうつらとしてすっかり目も閉じかけている。
レスカは少女を寝かしつけてやりながら、ふと夕刻の奇跡を思い返した。
――久方ぶりに帰った故地で最初に聞かされたのは、雨中にあって僧侶が一人、行方をくらませているという事実だった。
雨中の行進にあって、レスカは弟勇者に告げた。
「あの子は、弟君の訪問を予見していたようです。歓待に花を用意したいと言って、村衆を困らせたと聞きました」
「そっか。それは悪いことをしたな」
そう言って、弟君は少し困ったように目を細めた。
勇者の訪れを予見するような敬虔な僧侶が危機に遭っていることに心を痛めているのだろうと、レスカはそう思った。
「この頃に、崖に花を咲かせるところがありまする」
その場所へ行ったことはわかっていた。レスカ自身が、別離の折りに教えたとっておきの花なのだから。
押し花が毎年送られてくるのを楽しみにしていたのだから。
「愚かな、愚かなことです。ですが、あの子の思いを拙僧は、一人の僧として救ってやりたい」
こちらを見やるだけで、弟勇者は言葉を促した。
だからレスカは、ためらいながらも、願うことができた。
「私の、縁者、なのです。ですから、どうか……」
弟君の返事は簡潔だった。
「うん。必ず無事に帰すよ」
力強くうなずいた弟勇者のことを、レスカは思う。
その声には神韻があり、神気は烽火と変わらぬほどに煌めいて鋭く天へと昇った。召喚された頃とは比べようがないほどの毅然。
そのとき確かに、運命は定まった。道筋はあまたあれど、勇者が助けると言って助けられぬことなどありえぬのだ。
「理」に沿って生きるのが人の道ならば、勇者の道には逆に「理」の方が寄り添う。その様は、目が眩まんほどの輝かしさだ。
レスカの故郷は、レスカを輩出するほどに信仰が篤い。この子も遠方から来るあの輝きを見出したのだろう。
レスカはふと、兄勇者のことを思った。
あの人は一人で旅立った。付け人の手助けさえ断って、ただのお一人で。今の弟君と変わらぬ神気を召喚の折から漂わせているあの人が、多少のことでどうなるとも思えぬが。
しかしそれでも、レスカはほうと吐息を落とし、独りごちた。
「ご無事でいてくださればよいのだけれど」
そんな恨みがましい嘆息に反応したかのように、少女がむずがって寝言を漏らした。
レスカは微苦笑を浮かべてその頭を撫でてやったのだった。