冬至:世界の危機と、兄弟勇者・上
【あらすじ】
勇者パーティは公都ビルボへと向かう大陸公路から外れ、西へと向かう。
その先に何があるのかは知らぬままに、付け人らは弟勇者に付き従い、そしてついに半島の付け根を裂いて広がる大地溝帯へと到ったのだった。
それが旅の終わりだとも知らぬまま。
勇者パーティは西へと進む。だが、大陸公路から外れて進むというのは、並大抵のことではない。
小勢での旅路であるから、人里へとつながる類の間道さえあればそれは決して能(あた)わぬことではない。
だが、この西行は人里離れた地に足を踏み入れるものだった。そんな場所では当然、馬車が使えない。車を取り外し騎馬で進むも、ついにはそれも適わなくなった。野には険路すら見えなくなって、自ずと馬は足を止めていた。
私と相乗りしていた弟君は、共に旅を進めてきた馬に優しく声を掛けていた。できればここで待っていておくれ、と。応えるように、馬は小さくいなないた。
そこからは、辛うじて見える獣道を選び、進んでいく。
歩を進めるにつれ、ようやく、少しずつであるが、レスカの言っていたことがわかってきた。
――勇者パーティはいま、確かに、決して近づいてはならない場所に向かっている。
少しずつ少しずつ緑が消えていくのだ。
冬にあっても緑豊かなはずの北部にあって、暗い色をした下草や葉を落とした木々ですらも姿を見せなくなり、地面が露出されていく。その地面も、ところどころに亀裂が見える。脆く、いまにも崩れてしまいそうな、そんな地面へと姿を変えていく。
そうして目前が開かれていけば、自然、先々が見えてくる。丘だ。顔を上げて見やれば、小高い丘が見える。
息一つ切らさずに先導していた弟君は、皆に声を掛けた。
「あそこまで行こうか」
ようやく目的地らしい。私は、脇に支えているレスカへと、励ましの声を掛けた。
レスカはもうずっと前から、顔を青くしたまま、一言も口にしない。腰の皮袋を手渡し、水を飲むよう促したが、手で力弱く押し返されただけだった。
カストロもまた、顔を険しくしたまま丘を見上げていた。彼もまた、一言も口にしない。
それでも、勇者パーティは進む。足取りは重くとも、丘へと向かう。
額を伝う汗を拭ってから、気がついた。
あまりに暑くはないだろうか。息づかいが荒くなるほど、苦しい暑さだ。熱いと言ってもいいかもしれない。
弟君が温泉なるものを掘り起こした、あの場にあった熱さを思わせる熱が、この場を埋めていた。
やがて、たどり着く。
丘から先は緩やかに下り坂があり、その先には断崖が垣間見える。
あちらとこちらを線引きする大陸に入った亀裂、大地溝帯。
「なんとか間に合ったか」
ほっと一息をつく弟君。
同じく、一息をつくような思いで、私はこぎれいな場所にレスカを寝かせた。息も絶え絶えの彼女に、無理を押し通して、水を飲ませる。
隣でへたり込むように座り込んだカストロを横目に見てから、弟君を再び見やる。
黒一色の空の下で弟君は、断崖を見下ろしていた。
その背の先に見える空にはない。不思議と、星も遠かった。
今宵は新月。
そして、今日はちょうど、冬が底を突く冬至の日だった。
しばらく、切れた息だけが場を埋めるような時間が続いた。
「すまぬな」
やがてぽつりと、レスカがこぼした。
私は首を横に振って、彼女の謝りを受け流した。
「気にするな。これで、体力には自信があるからな」
「いまさら何を言う。知っておるわ」
力無く笑いながら、レスカは身を起こした。その姿はひどくやつれて見えたが、気丈にも背筋を伸ばして座っている。
「だが、すまぬ。やはり、西の腥風(せいふう)は生半なものではない。身にひどく堪えおったわ」
「腥風?」
「いかにも。地獄の釜は蓋を開けておる」
恐るべきことよ、とレスカは嘆息した。
その会話に、カストロが加わった。
「自分にはいまひとつわからぬのですが、この地に何があるというのです?」
「何を、と言うてもな」
先日私が問いただしたときのように、レスカは困った顔をした。
「見ての通りである、としか言えぬ。ほれ、見よ、あの断崖を」
指さす先は闇であり、かすかに弟君の後ろ姿が見えるだけである。
それなのに。
確かにその先に、逆巻いて吹き上げるような、腥(なまぐさ)い風の一陣が見えたような気がした。
「あれが、獄門よ。地獄へのな」
その厳粛な言い様に、私とカストロは押し黙り、断崖を見つめた。
レスカはあの日、言った。何かはわからぬ、何が起こるかもわからぬと。確かにそうだ。だが確かに、そこで何かが起ころうとしている。圧倒的な何かが、あたかも杯からこぼれ落ちんばかりに溢れているかのような、そんな際どさを私も感じ取っていた。
不安を押し隠せずにいる私が眼差す向こう側から、弟君が引き返してきていた。
弟君の顔に、不安の色はうかがわれない。いつもと変わらぬ穏和な顔色だ。童子と言っていい年若な彼の表情一つに、だが、私は心から安心を覚えていた。
「三人とも、大丈夫?」
「なんとか、ですな。とにかく熱くてなりませぬぞ」
代表するように、カストロが答えた。手で扇ぐような素振りすら見せている。
弟君はあははと笑ってから、つと手を打ち合わせた。
「ああ、そうだ。鎧はもう脱いでも大丈夫だよ。ここまで来たらもう、何かに襲われるとか、そういうことはないから」
「……それはいま少し早く言ってほしかったですなあ」
少しだけ恨み言をこぼしてから、カストロはアーメットをいそいそと脱ぎ始める。この中で最も装備を調えているのは彼であり、それゆえによほど暑かったらしい。
軽く謝りながら、弟君は言葉を続けた。
「とりあえず三人はここで待機ってことでお願い。レスカは悪いんだけど、二人を守ってね」
「分かり申した」
「いざとなったら、あれを使い切ってでも守って。僕がしのぎきれればいいんだけど」
ちらりと、後ろを見やってから、弟君は言う。
「たぶん、無理だ。あれは」
思わず固唾を呑む。無理、という言葉に、レスカも目を見開いていた。
「守護は、任されましょう。しかし……」
言葉を濁してから、レスカは問う。
「どう、されたのです。祓って済む話ではありませなんだか」
「もともと、祓って済むのなら、勇者は召喚されないよ」
そう言って、弟君は小さくつぶやく。時間だ、と。
「くれぐれも頼んだよ。とにかく、しのぐから。それで間に合わなかったら」
弟君は笑って、きびすを返す。
最後に、冗談のように、付け加えた。
「まあ、墓碑銘は、三人に任せたよ」
その歩みゆく後ろ姿を、私は呆然と見つめた。
何か、何か私は、勘違いをしていないだろうか。西に向かって、弟君の用立てを済ませ、然る後に公都で祭りを執り行う。そうして、罰されるのは私だけで、それで終わりだと、そう思っていた。
弟君はああ言ってくれたが、咎は避けようがないに違いない。だが、それでも、結局は私の進退だけで終わるものと、そう思っていた。
だが、いま、なんと言った。墓碑銘とは言わなかったか。
――古くから、この世とは違った世から呼び出された勇者には、名前がない。
彼らにあるのは、勇者であるということ、言葉が通じること、あとは性別や年齢程度の人間としてあるべきものだけがあって、他には何もないのだ。
だから、勇者は勇者と呼ばれ、それ以外の何者でもない存在として扱われる。新たに名付けることもしない。
利便を思えば、名付くべきだろう。現に、二人の勇者が現れた現況では、勇者という呼称が二人のどちらを指しているかわからぬ体たらくなのだ。
だが、それでも名付けは忌まれた。それゆえにか、史書においては勇者の名前どころか姿形も、男女の別すら記録されていない始末だ。
それがなにゆえのことかは、わかっていない。
そんな顔無し名無しの勇者らは、伝承においては国を救うような大仕事をして、然る後にまた彼らの世界へと帰って行った。中には、関係を悪くしてしまい、途上で王国との関係を絶った勇者もいた。
だが、それでも勇者は救うべきを救い、去っていったのだ。
勇者は国を救う。弟君の言葉を思い出せば、もしかすると、救っているのは国ではないのかもしれない。だが、何かを確かに救ってから、元の世へと帰還するのだ。
だから、私は、当然、この地で弟君は当たり前のように、救いをもたらしにきたのだと思っていた。
勇者は、あれだけの力を持っている弟君は、当然のように危難を救うのだと。
呆けたままの私の隣で、レスカはゆっくりとつぶやいた。
「勇者は救い主である」
私が振り返ったその先で、レスカは血の気の薄くなった顔をさらに白くさせ、幽鬼かとみまごうばかりに急速に色を失っていく。
「ならば、勇者が現れたのは、救うべき危難にあるということに他ならぬ」
であれば、二人現れたならばなんとする。
二人でなくば、救えぬことがあった。それゆえの、二人の召喚。
細い声でつぶやくレスカは、目をひん剥き、おこりのようにガタガタと震え始めた。
「まさか。救世ではなかった。そう申されるのか」
「どういうことです、レスカ殿」
レスカの言葉を聞き、さっと顔色を険しいものに変えたカストロが鋭く問う。
いまにも倒れそうな面持ちで、レスカはうめいた。
「ぬかった。拙僧も何もわかっておらなんだ。あのお方はいま、敵わぬものに立ち向かおうとしておられるのだ」
「どういうことなのですか、レスカ殿!」
声を張り上げ、詰め寄るカストロに、レスカは歯の根が合わないままで細く答えた。
「弟君一人では立ち行かぬ。二人でなくば鎮められぬ。いまから起こることはそういうことだ。拙僧は、勇者殿との約定を守れぬのか……」
「まさか。弟君は人柱になるおつもりなのですか?」
足らなんだ、察せられなんだと血を吐くような声音でレスカが言えば、カストロは信じがたいような愕然たる顔で、断崖を見やる。
私はただ、呆然と、カストロと同じ方向を見やる。
闇が深まっていた。先には何もなかった。弟君も、何も。
「やめよ」
気づくと、外套を引かれていた。
振り返れば、きつく歯を食いしばって、それでも手を伸ばしたレスカがいた。
「弟君の温情を無碍(むげ)にするでない」
「なんの、話だ?」
「いいから、止まれ。カストロ殿も早く手伝ってくだされ!」
なんの話か、まったくわからなかった。
だが、もう片側で、カストロが片腕を捕らえていた。私は無造作に、それを振り払った。
「弟君は、貴女も、拙僧も、カストロ殿も、生かしてくださるおつもりなのだ。頼む。行くな。行っても何もできぬのだ」
「だから、何を言っている」
「ローザンヌ殿。貴女はいま、自分が何をしているのか、おわかりでないのか……!」
恐れおののきながら、カストロは再び私の右腕に取り縋って言った。
貴女は断崖へ向かおうとしているのだ、と。
そうか。確かに私の足は、前に進もうとしていた。言われてみれば、確かにそうだ。
だが、それは、なんら不思議なことではないではないか。二人を引きずりながら、私は当然のことを説明した。
「弟君のこと、私は兄君に頼まれたのだ。よろしく頼むと。死地に一人で向かわせることはできまい」
「それは拙僧とて同じこと……! だが、弟君は、拙僧に頼まれたのだ。守れと。すまぬが、行かせるわけにはいかぬ……!」
ふっと、力が抜けた。つんのめり、その場に倒れ込む。その隙に、がっしりと私はカストロに押さえ込まれた。
もしかすると、これが「理」の力というものなのかもしれない。まるで穴でも空いたかのように、体の内から急速に力が抜け落ちていくのが感じられた。
「力尽くでもここからは行かせぬ。すまぬ、だが、貴女のためであり、弟君のためでもあるのだ」
「一人で逝かせることが、弟君のためになるのか?」
兄君が一人で逝ったように、弟君も一人で逝かせるのか。
不意に、止めきれぬほどの笑いが湧き起こった。私は身を震わせて笑った。
「すまぬ。すまぬ。拙僧はわかっているつもりでおった。なんと愚かしいことよ」
「……レスカのせいではあるまい」
笑いを納めて、応える。愚鈍な私は、この期に及んで、レスカに言われるまでわからなかった。
こうして力を使われ、カストロに押さえ込まれるまで、弟君の心遣いを無碍にするような行いを続けていた。
直情径行にも程がある。愚鈍なことだ。笑ってしまう。
「誰のせいでもあるまい。だが」
だが、私は行こう。一人で逝くのはきっと寂しいことだから。付いてきてくれと、あの人は確かに言ったのだ。
私はカストロの拘束から抜け出た。
馬鹿な、とつぶやくカストロの声が聞こえた。そう、私は愚かな女だろう。
なぜ動けるのかと驚愕するレスカの言葉も聞こえた。私は単純だから、どうして動けるのかなんてわかりはしない。
闇へと私は歩みを進めた。
だが、どうしても、進めない。目に見えぬ壁があった。
「……レスカ」
「なんだ」
「この壁は、お前が作ったものか」
「然り」
「なら、いますぐ消せ。さもなくば」
さすがに、言葉を濁した。だが、言葉は伝わった。
思わず息を呑んだレスカをにらみつけ、返答を待つ。
レスカは諦観を露わにして、謝した。
「すまぬ。だが、もう、遅いのだ」
一瞬、耳鳴りがするほどの無音が生まれた。
次の瞬間、空白を埋めるように、雷鳴にも似た耳を聾(ろう)するほどの地響きが大地溝帯に轟いた――。
(下に続く)