3 決心
俺があの夢のテレビでみた、天才少女の記憶力も、アタルと同じような超能力の一種だったのだろうか。そう言えば俺も幼い頃に、世界中の国々の名を記憶し、答えては大人たちの賞賛を得たことがあった。だが長い月日が経ち、もう国々の名はほとんど覚えていない。覚えていたとしても今となってはその国も無くなったり、変わったりしてしまっている。俺の世界に対する記憶とは、もはや過去の遺物でしかなかった。
だが、俺が覚えている限りの、導師として人々に話していることだけは、未来のためにあると信じている。そんな俺はこの土地の未来に成れたのだ。俺はこの土地で必要とされる存在だったから本当に良かった。もし、3年前漂流した場所がウラジでなければ俺は死んでいただろう。
とは言え、未だに不安である。俺の知恵がこの土地の隅々に行き渡り、もう全ての人がそれを信じるにしろ信じないにしろ、俺を必要としなくなったとする。その時のことを考えると眼前が真っ黒になり、立っていられなくなる心地に襲われた。
ミゼールはもし俺が導師として金を稼ぐことができていなければ、身を売らせていたと言っていた。だが、身を売ることが人のためになるなら、構わないかもしれないとも思っていた。俺はただ、俺が何者でもなくなって、忘れ去られることを怖れていた。他の人々だけでない。俺自身が俺を忘れ去ることが怖かった。
俺はアタルをベッドの上に座らせた。彼女はミゼールの言うように、どこかの人形を連想させる様子でその場に座った。相変わらずマグカップは浮いている。非常に器用な、見えない手で掴むようにして、アタルは無味無臭の湯を飲んでいる。非常に奇怪な光景だが、彼女にとってはそれが当たり前のようだから、別段騒ぎ立てないことにした。
俺とミゼールもテーブルから丸い木椅子を取り出した。俺は脚を下ろして、ミゼールは胡坐をかいてアタルの前に座った。
「君はこんな状況にあって心細いだろうに。君は俺達に何か説明してくれるようだが、もう少し落ち着いてからで良いんだよ。思えば俺も、君にいきなり色んなことを聞こうとし過ぎた」
「おゆをのんだからもう、ダイジョブ。それにイッコクのゆうよはない」
「時間がねえのか?」
「それじゃあ、いちからセツメイするよ」
アタルはミゼールの質問に答えることなく、話を始めようとした。マグカップが緩やかに降下し、ベッドの上に安置された。
「わたしはアタル。ジュウシゾクのごにんめ。ジュウシゾクはニンゲンににている。でも、どこかちがうから、ニンゲンとタイリツすることになった。そのタイリツはだんだんはげしいものになっている」
「ジュウシゾク。君はどこかの民族なのか? 君の見た目は西洋か北方の民族に見える」
「ジュウシとか言う地名があるのかよ?」
俺とミゼールが同時に質問した。アタルの視線が俺とミゼールの顔を往復し、答えを考えて再び話し始めた。
「ジュウシというのはすうじの『じゅう』に『はじまる』といういみ。だからジュウニンいる。そして、ミンゾクのなまえじゃなくて、どちらかというとシュゾクのなまえ」
「種族」
俺とミゼールが同時にそう呟いた。俺には民族と種族にどのような意味の違いがあるかはっきりわからなかった。
「人間に似ているってことはよお。まるでアタルやそのジュウシゾクは人間じゃねえみたいな言い方だな」
「そう。ちがう。ジュウシゾクはニンゲンとはちがう。わたしはそれでもいっしょだとおもう。でもジュウシゾクのなかには、じぶんたちがニンゲンよりカクウエだとするものもいる」
「格上か。もし、そんなことを直接言われたら人間は怒るだろう。そしてもう対立が起きているということは、既に互いが嫌悪している状況なのか」
「けんお。どちらかというと、おたがいをおそれている」
アタルの声がそこで沈んだ。一度下を見て、再び顔を上げて話を続けた。
「ニンゲンはジュウシゾクのちからをおそれて、ジュウシゾクはニンゲンのちからをおそれている。そのおそれは、おたがいがちがうものだとおもっているからうまれている」
「ほお、小さいのに、よく考えているな」
ミゼールは感心した様子で腕を組んだ。
俺はそこで目を瞑った。かつてこの土地で授けた知恵の一つを思い出していた。そして、再びアタルの話について質問した。
「ジュウシゾクの力というのは、つまり、君のような空中浮遊の念力かい?」
「わたしのちからはほんのいちぶ。シュンカンイドウやチョウサイセイがとくいなものもいれば、もっとほかにもいろんなちからをジュウシゾクはもっている」
「ジュウシゾクは、オレ達みたいな人間には無い力をもっているわけか。そりゃあっちこっちで物が浮いてたら怖いかもな。おっと、気を悪くするな。これは一般論だ」
俺はなおも目を瞑っていた。意を決し、力強く一つの言葉を、目を見開くと同時に言った。
「違いなど無い」
アタルとミゼールの視線が俺の方を向いていた。俺は改めてかつてこの土地で力説したことを繰り返した。
「全ての生命は平等に尊い。違いというのは役割や見た目であって、根本は同じなんだ。それを一つずつ説明していると、君の時間が無くなってしまうけれど」
アタルは首を傾げたが、その意味を捉えたのか頷いてくれた。
「対立が激しくなるといったね。それは多くの人間やジュウシゾクが傷つくことかい?」
「わからないけど、きっとそうなる。みんなきずつく。わたしはひとまずにげてきた。あなたたちにあうためここまできた。タイリツを、とめたい」
俺は口を噤んで大きく息を吸った。目を瞑り、ゆっくり息をはいて覚悟を決めて旅立つつもりで呟いた。
「救わねば」
ようやくこの時がやって来た。俺はこの時を待っていた。俺が忘れ去られる存在にならずに済むときがやって来たのだ。救う。それがたとえ修羅の道であったとしても、俺が生きている意味の証明であった。
続く……
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