2 疎通
俺がこの土地「ウラジ」にたどり着いたのは、3年程前の秋口だった。たどり着いたといっても、それは漂流という形だった。俺は意識を失ったまま、例の漁港の海面に浮いていた。そこでミゼールが俺をすくい上げ、保護したのだ。
この土地の海水は秋口でも既に冷たく、長く入っておれば凍死の危険性もある。そんな中俺は、奇跡的に意識を取り戻した。
ミゼールはそんな俺を冬眠する爬虫類みたいな男と喩えた。俺にもわかる言葉が話せたミゼールは俺にいくつかの質問をした。名前。年齢。性別。出身地。職業。家族構成。対人関係。しかし、俺はその時何一つ思い出せなかった。どうやら、漂流によって脳が無酸素状態に置かれ、その記憶領域が損傷したのかもしれない。性別が男なのは、身体的特徴から探れたが、それ以外は黒い覆いを被されたように、思い出すことが出来なかった。
だがウラジで暮らすうちに、いくつかの記憶や素性が習慣として取り戻されてきた。俺はこの土地の人々に比べると、かなり穏便な性格だった。暴力という手段を用いたことは一度も無かった。
また、ちょっとしたことで頭に血は上らなかった。たとえ罵倒されても、彼らはそうしなければやりきれない哀れな心をもっているのだとあしらっていた。それをある日ミゼールに言うと、そんな考え方が出来る人間はこの土地、この国にはいないと驚かれた。
そんな俺は、機会があれば思考法とも言える知恵を人々に授けた。始めは若輩異人の世迷言とされた。しかし活動を続けるうちに、もっともそうらしいと思ってくれる人が増えていった。
俺は名前を思い出せないまま、やがて「神亀導師」と呼ばれるようになったのであった。神亀と呼ばれたのは、俺が極寒の漂流から生還したこと、そして、白色の、丸みを帯びた髪型、紅の瞳、一種のアルビニズムの特徴があったからである。
職業は心理学者か宗教家だったか思い出せないにしろ、その要素を兼ね備えた知恵は、やがて金を取ることも可能になった。
このウラジや隣の町々でも、俺の知恵は人々の役に立ったらしい。俺の知恵を実践して、商売の利益が上がったとか、家庭が円満になったとか、様々なお礼を言われたものだ。俺は、金はあまり必要ないと彼らに言ったものだから、余計に評判は上向いた。ミゼールは俺を助けて良かったと言っていた。
俺はそんな中でも、質素な生活を心がけていた。そうした方がいい。俺の知恵は確かにそう言っていた。
少女の具合はすっかり良くなっていた。俺は彼女が空中浮遊を起こしたことよりも、その回復と解熱の早さの方に驚いていた。一方、ミゼールは先ほどいた地点から大きく後退し、背を壁にへばり付かせ、少女から距離を置いていた。ミゼールがここまで脅威を覚えて身構える姿は初めて見た。
「そんなに警戒する必要があるかミゼール」
「あ、有り得ない。空中浮遊なんて!」
驚嘆するミゼールを、少女は一種の諦めに似た目で見ていた。俺は少女と言葉が通じると分かった以上、質問を始める他なかった。俺はベッドに座る彼女に視線を合わせるためにしゃがんだ。そして質問した。
「具合はどうだ? 少し顔色が良くなったようだ」
「うん」
「言える範囲で良いから、君の事を教えてくれないかな」
俺は一貫して優しい口調で語りかけた。超常現象たる空中浮遊を起こしているとはいえ、少女は少女だ。
「わたし、アタル」
「それが君の名前か?」
アタルと名乗った少女は俺の質問に対して頷いた。アタル。明らかにウラジの者の名ではなかった。
「俺は神亀導師と皆から呼ばれている」
俺はアタルに自己紹介した。ミゼールがそれに続くかと思ったが、その表情は疑念を呈していた。
「おい、導師、そいつの言ってる事が分かるのかよ?」
「ああ。この土地の言葉のはずだぞ。あなたには分からないのか?」
ミゼールは小刻みに2度頷いた。彼女には、アタルの言葉が分かっていないようだった。
その様子を見たアタルは、ミゼールの方を向いた。ミゼールの右口角が引きつった。
「何もそこまで怯える必要ないだろう。俺なんか、その子を抱えてここまで来たんだ」
「そう。おびえるヒツヨウない。ジンキドウシ。あのひとのところ、つれてって」
俺はその要求に応じた。腕を伸ばす彼女に、俺も右手を差し出したが、どのように持ち上げようか悩んだ。そこでアタルは肢体をこまごまと動かし、よじ登るかのようにして俺の右腕に納まった。俺の上腕部が彼女の背もたれとなり、俺の前腕に彼女の腰と脚の後面が接して乗る形となった。子供特有の柔らかな質感が腕に伝わった。
また、彼女は眠っていた時よりも数10キロ分は軽かった。意識を失った人間は、そうでないときよりも重いということを思い出した。
俺はそのままミゼールに近づいた。彼女はますます壁に吸着。初めて見る彼女のそんな有様に、俺は笑いを堪えていた。
「これで」
アタルがそう呟くと、身を乗り出して右上腕の先端をミゼールの額に当てた。ミゼールは反射的に目を瞑り、歯を食いしばった。
その後、ミゼールはゆっくりと目を開き、呆気にとられたような表情になった。アタルが無害な存在だと認識したようだった。
「わたしはアタル。フクザツなジジョウがあってここにきた」
「来ただって? 何故。どこから。あれ? オレ」
ミゼールがアタルの言葉を理解している。また、その話し方が先ほどに比べやや流暢なものになっていることに気が付いた。
俺はここで1つのとんでもない仮説を思いついた。アタルの言葉を理解するには、彼女に肌と肌で触れる必要がある。俺が彼女の言葉を完全に理解できるようになったのは、彼女の体温を知るために、額に手を当てたことがきっかけだろう。そうとしか考えられなかった。異国の少女と、本来言葉が通じるはずはないのだから。
「ほんとうにフクザツなりゆう。わたしはそれをだれかにつたえなきゃならなくて、ここまできた」
「アタル。自らの意思で来たのか。俺はてっきり、捨てられた子供かと思ってしまった。だが、伝えるためとは言っても、いったいどうやってここまで来たんだ?」
興味が尽きなかった。小さな体からは想像も付かない、深い何かをアタルは持っていた。
「まってね」
アタルは目を瞑った。小さな口をわずかに動かし、目を開いて、ようやく聞こえる声で話し始めた。
「えっと、カンタンにいうと、シュンカンイドウをおこして、あのタテモノまできたの。でもわたしはそれがフトクイで、ジュンビなしにやったから、うでとあしがなくなっちゃったの」
アタルは、普通なら耐えがたい苦痛と喪失感を味わうであろう四肢の欠損を、実に簡単に言って述べた。その言い方には全く説得力がなかった。それに、彼女の言ったシュンカンイドウとは何か。瞬間の移動のことか。その影響で前腕と下腿がなくなるとはどういうことか。彼女は俺達にわかるようにと言ったが、俺には想像し得なかった。
俺がその言葉の数々の意味を考えていると、ミゼールは先ほどの焦燥が嘘だったかのように、心配そうな様子でアタルに尋ねた。
「お、おい。大丈夫かよ。でも、オレが見る限り、腕も脚も見事に切断端が処置されているぜ。誰か医者に見てもらったのか?」
「いえ、わたしがなおした。それがいちばんくろうした」
「君が治しただって?」
これはもうワケが分からない。空中浮遊。急速な解熱・回復。接触後に意思疎通が可能。瞬間移動。欠損部の自力治癒。俺は先ほどまでアタルを哀れな少女と思っていたが、だんだん不気味に思えてきた。俺はもしかすると、とんでもない存在を招きいれたのかもしれないと思い始めた。神亀導師と呼ばれた俺は、本当に夢幻世界の住人を連れてきたのかもしれないとさえ思っていた。
「ちょっとまって、いちからセツメイしたほうがよさそう。でないと、あれもこれもとシツモンされて、はなしがすすまないしセイリがつかない。だから、とりあえず、のどがかわいた。そのおゆをチョウダイ」
彼女は左腕でテーブルの上のマグカップを指した。指した、という表現は、指のない彼女に当てはまるだろうか。示し、要求した。そちらの方が良いだろう。
「ああ、構わない。俺はそれらを君のために持ってきたんだ。飲んでもらおうと思ってね。今取って上げよう」
「そのヒツヨウはない。きもちだけでうれしい」
俺がアタルを抱えたままテーブルへ行こうとすると、湯を湛えたマグカップが向こうから浮いてやって来た。それはアタルの口元に空中で静止し、彼女はカップに口をつけ飲み始めた。
「こういうことがとくいなの。だからあんまりうでとあしはヒツヨウないの」
湯を口に含む程度飲んだアタルは、自分の趣味を明かすくらいの気軽な口調で説明した。
念力。俺の頭に突如そのような言葉が浮かんだ。彼女は紛れも無く超能力を持っていた。
続く
次回 3 決心