1 目覚
多分11時過ぎ。工事の音はますます大きくなっていた。電動ドリルで石製の物体に穴を開ける音だ。その轟音と高周波の振動に頭蓋内が揺り動かされた。何を言うよりもまず、不快の一言であった。
だが、その音よりも、その音がもたらされるに至る経緯こそが不快の本質であった。その工事は、隣人の老夫婦の住居を一部改築するものだった。工事の1週間前、妻の方が特に何を言うこともなく、改装の承諾書にサインするようそれを提示した。俺は仕方なくサインした。もしこの世に法や倫理が皆無であれば、破り捨ててドアを勢いよく閉めたことだろう。しかし、そんな対応をすれば、俺はたちまち社会的不調和の因子と見なされてしまう。俺はそう見なされて平気なほど、力というものがない。
ただ、物質主義者ではない俺が求めていたのは、お詫びの品以上に、両手を体の前面で合わせた、正対しての一礼と、騒音が数日間生じることに対する言葉での詫びである。そういった美しい礼節や言葉が、人生の先輩によってもたらされない土地に俺は住んでいる。
そして、そういった美しい言葉、美しい心を人々に伝えることが、「神亀導師」と呼ばれた俺の仕事だった。
俺は漁港から急いで自室まで戻ってきた。久々の疾走は、胸腔に1枚、鉄板を潜り込ませたような苦悶をもたらした。その間の約10分間、腕脚の無い少女は俺の腕の中で発熱し、絶え絶えに呼吸していた。少女は、力仕事を得意としない俺にとっても軽かった。
帰路は誰にも会わなかった。誰かが俺を見ていた可能性はあるが、急いでいたからそんなことも気にならなかった。
「頼む。良くなってくれ」
抱えていた少女を、俺は自分のベッドに安置し、薄い布団を掛けた。その場所しか無かったのだ。シラミやダニは湧いていないだろし、不潔ではないとは思うが、病人と見える彼女に対して、そのベッドはあまりに堅く、冷たく、貧相だった。それでも、あの遺構、廃墟よりははるかにマシで、彼女の呼吸は少し落ち着いた。表情も安らかなものになって、その寝顔は俺自身にも安らかな気持ちを起こさせた。
「……ヤツは信用ならん。俺が何とかしなくては」
独語癖がひどいことを知り合いに指摘されてはいたものの、俺はこうして発声によって自らを戒めていた。俺に出来ることはただ安息を提供することであり、彼女が自らの自然治癒力で回復へと向かうことを祈るだけだった。
ところで、信用ならんヤツとはこの土地のとある医者のことを示している。俺はかつて、その医者と大喧嘩とも言える議論をしたことがある。導師と医者。どちらが正しいかまだ決着がついていない。
彼女の安眠を見届け、自室を後にし、俺はキッチンで湯を沸かした。鉄のケトルが水の沸騰によって騒ぎを起こすまで、俺は座面が一文字に裂けたパイプ椅子に座って現実を整理した。
彼女はこの寒空の季節に、何故あんなところにいたのだろうか。薄い布切れのようなワンピース1枚で寝転がっていたら、普通の人間なら風邪を引くどころか、さらに具合を悪くして、命の危険だってある。さらに、少女はこの国の人ではなかった。はるか遠く、海洋を隔てた向こう側。俺が夢に見たあの天才少女のいた国の人種に近かった。どうやってここに来たのか。彼女の身に、何が起きたのか。
それから、廃墟での鉄の棚の不可解な倒れ方や、俺の体が重力に反し浮き上がったことも何だったのか。その日、俺の周りでは不思議な事が一気に起こった。
やがて、ケトルが甲高く叫び、蒸気を吹き上げた。それと同時に、玄関の方でドアの開閉音がした。同居人の帰宅だった。
「おーい。いるかー?」
俺は慌てた。こんなに慌てたのはいつぶりだったか。もし、ケトルを握っていたら湯を溢して火傷していただろう。
同居人はいつも日が暮れる頃に帰ってくるものだった。しかし、まだ昼過ぎだろうというのに帰ってきた。それも、あの少女が部屋で寝ているという時に、彼女は帰ってきた。少女の存在に関する言い訳は、湯が処理されてから考えようとしていたのにだ。
「いるじゃねえか。返事しろよ」
「すまない。ミゼール」
俺がミゼールと呼ぶこの同居人は、このように、俺が女性に望む美しい言葉を使用しない。その赤髪は烈火のように、先端が天を向いている。年齢はわからない。彼女の顔面はやや赤茶けていて、皺は少なく若々しい。30代と予測するが、首は幾分年輪を刻んでおり、40代とも捉えられる。目つきは鋭く、眼下の獲物を狙う猛禽類のようだ。彼女は俺とは違って装飾品を首、手首、腰周りに身に付けることを好む。それは宝石ではなく、金属の輪であった。彼女の隣を歩いていると、度々それらがぶつかり合う音がした。一見すると威圧的で、身をたじろがせたくなる彼女だが、俺にとっては命の恩人だった。命だけでなく、生活の恩人でもある。ある日、「お前が骨なら、オレは血だ」と例えたのも彼女だ。
「へっ。今日は早かったんだぜ。12時半には出られた。まあ、それが良いことかどうかでいえば……。良くねえ事だけどな!」
「そうだったのか。ともあれ、お疲れ様でした」
俺は彼女を労った。この労いの言葉を、彼女だけでなく、その土地の人々皆が賛美したものだ。俺の祖国では当然だったはずだが、その土地に、労いの言葉として相応しいものが無かったのだ。
また、俺は時刻がもう12時半以降であることに内心驚いていた。
「というわけで、今月はお前に頑張ってもらわなきゃならんかもな。神亀導師さんよ」
彼女の生業はいわゆる何でも屋だった。具体的な内容は知らないが、察するに、常人が成し得ない、やりたくないと思えるようなことを何でもやるのだろう。彼女はそういうことが出来そうな性格だった。ただ、その何でものうち、1つだけ俺が知っているのは、彼女が俺の、「神亀導師」としての仕事を探してきてくれることだった。
すると再び、前触れ無くドリルが螺旋し、掘削の轟音で室内が揺れた。俺達は身をすくめた。
「うっせえな。ちくしょう」
ミゼールは嫌悪の表情で愚痴を吐き捨てた。俺はそこで思った。こうもやかましくては、あの少女は安眠できまい、と。
「ミゼール」
俺は目の前の彼女に呼びかけた。
「なんだ?」
彼女は顔を平静に戻した。彼女は俺の話にはいつも耳を傾けてくれた。
「もし仮に、新たな同居人がここに来たとする。あなたは、その人を住まわせてやれるか?」
「お?」
ミゼールは眉間に皺を寄せ、口を尖らせた。吉報を喜ぶのか、悪報を憂うのか。どちらとも取れる表情だった。
「そりゃあ、そいつ次第さ。金になるやつなら誰でも。ところで、お前は今までで、一番金になった。そして、浪費をしなかった」
金。彼女は俺とは正反対で、まさに現金な女だった。金次第でやることを選ぶ人間だった。だが、それを上回る人徳と慈悲、そして恩が彼女にはあるから、共に住んでいる。もしこれでただの我欲にまみれた悪人なら、今頃寝首を欠く方法を考えているところだ。
「金か。金にするかどうかはミゼール。あなた次第だ。しかし俺が金にはさせない。何のために保護したやら」
「保護だって? 怪我人なのか? それとも孤児か?」
ミゼールの目つきが真面目なものになった。
「多分、両方だ」
俺は湯の入ったケトルとマグカップを盆に載せ、ミゼールを自室に案内した。
自室のドアを開けると、ベッドでは掛け布団が盛り上がっていた。少女はその下で、ドリルの轟音の中未だに眠り続けていた。俺はそこを指差した。
「恐らくまだ眠っている。ひどい高熱で、その姿も決して尋常ではない。改めて聞く。この子を見世物にしないと誓えるか?」
「あのなあ」
ミゼールが呆れ声を出した。吐息交じりの声だった。
「オレもな、百歩譲って守銭奴かもしれねえ。でもな、鬼畜じゃねえんだからさ。その子とやらがどんな姿かはしらねえよ? でもそんな見世物だなんてお前。いつから被害妄想みたいなことを言うようになったよ」
「それならいい」
俺はベッドへと近づき、木製テーブルに盆を置いた。そして、少女の様子を伺おうとした。
「うるさくてすまないな。ちょっと失礼するよ」
掛け布団をめくり、少女の顔があらわになった。目を瞑って、かすかな寝息を立てている。俺は少女の滑らかな額に手を当てた。熱は少し下がっていた。
「西洋人か。確かに珍しいな。まるでお人形さんみたいじゃねえか。でもよ、お前一体どこでこの子を拾って来た?」
「漁協の廃墟だ。入ってみて偶然この子を見つけた。それから、ミゼール。この子の姿なのだが」
俺はさらにそっと布団をめくった。少女の細い上半身があらわになった。ミゼールは少女の両前腕を認めることが出来なかった。
「欠損児か。捨てられでもしたんだろうな」
「腕だけではない。脚も欠損している」
ここで両者沈黙した。少女のかすかな寝息が聞こえるほど静かになった。やがてミゼールが目を赤くして呟いた。
「かわいそうに」
その声は滅多に聞こえるものではなかった。それは彼女の善人の側面を示す言葉だった。
やがて、彼女は一度鼻をすすり、気を取り直して話し始めた。
「あ。この子、こっからさらに北方の人かもしれないぜ。ちょっと遠出すればちらほら見かけるからよ」
「そうなのか? ともすれば、保護者はわざわざこの土地まで連れて来て放置したのか。しかも、立ち入り禁止の廃墟に……」
その時、俺とミゼールの役割は逆転していた。普段なら俺が哀れみ、ミゼールが怒るというところだが、ミゼールが少女を哀れみ、俺が少女をこのような境遇に陥れた者に対して怒っていた。
「ところでよ、お前、何でケトルとマグを持ってきたんだ? 寝てるその子に飲ませようってのかよ。覚めた頃には冷めるだろ? なんてな」
「ん?」
ミゼールに言われて自分の行動の見当違いに気が付いた。何故俺は少女に湯を飲ませようとするような一式を、盆に乗せて持って来たのか。どうせならば、高熱を冷すための濡れ布巾や、体を拭く蒸し布巾を用意すべきところだった。
「確かにそうだ。俺は湯をその子に飲ませるつもりで持ってきた。でも、そのためにはこの子の安眠を妨げるか、この子が自ら起きる必要がある。なのに、何故俺は」
新たな不思議が追加された。自らの合理的でない行動が不思議であった。
そしてすぐさまその不思議に、新たな不思議が上塗りされた。ミゼールの表情が強張ったのを俺は見た。彼女はテーブルの盆を見てそうなっていた。
「お、おい。導師。お前、なんかしたか?」
俺はミゼールの視線の先を見るために振り返った。盆の上に置かれたケトルが、音を立てて震えだし、やがて、徐々に浮き上がったではないか。
「こ、これは、あの時と」
俺が廃墟での浮遊体験を思い出していると、ケトルは意志を持ったように浮いたまま、わずかに右へ移動し、マグカップの上で一礼した。中に入っていた湯が、ただ重力に従い注がれた。
俺とミゼールは目の前の現象に釘付けとなっていた。俺が息を呑んで、勢いよく首を左に回すと、先ほどまで眠っていた少女が目を覚まし、体を起こしていた。彼女の両腕先は、そのケトルを向いていて、まるで掴んでいるかのようだった。
「君が、やったのか」
少女は俺に視線を合わせ頷いた。少女の瞳は紺碧のガラス玉のように澄み渡り、また、光を反射していた。
「ありがと」
その小さな口からたどたどしい感謝の言葉が放たれた。それは東洋人である俺にも理解できるものだった。
続く……
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