第一章 二人の物語 5
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アーロン山を超えた北の街道に位置する商業都市ルクセルントは、古来、ヴァルターとブルレックを繋ぐ商業路として賑わってきた。
それはブルレック陥落、マティアス王戦死の噂が流れている現在でも、その客足の多さと商店の賑わいは変わらない。
夜も更けて、そうした賑わいを避けるように動く影が、二つ。
街の地下を縦横無尽に通る地下水路を抜けて出たそれらは、街の住人に築かれぬよう物陰に潜みながら辺りを見回していた。
「あれがいいな」
言ってダスティが見ている方向には、一軒の家がある。その家の特徴を挙げるとすれば、暖かい暖炉や蝋燭の明かりが灯された他の家々と違い、その家だけ暗く、人気がまったく感じられない事だろうか。
そそくさとその家の扉の前までやってきた彼は、ドアを押し、開かない事を確認し、懐のポーチから何やら金属の道具を取り出した。
ロックピック。錠前を強引に開錠する為の棒状の道具だ。
それを使って当然のように扉をこじ開けにかかったダスティの後ろで、アンヌフローラは蔑みを露わにした半眼でそれを見下ろしていた。
「覗きの次は泥棒ですか。随分とせせこましい生き方を為さって居られるんですね」
「お前、命の恩人にそういう事言うか」
「別に、貴方のような方に助けて欲しいなんて言ってません!」
「叫ぶのは自由だが、誰かに居場所が知れて困るのはお前だぞ」
「……っ!」
もう二日も前になる魔獣と覗きの一件から、二人の仲は冷えに冷えている。
それでも、アンヌフローラには他に頼る術も無く、しぶしぶと言った様子でダスティに着いて来ており、ダスティはそんなアンヌフローラとの関係の改善を放棄し、どこか投げ遣りげに状況をやり過ごしていた。
「……一体、今度は何をしようと言うんですか?」
「お前、神に会った事はあるか?」
「さっきからお前お前って、私の名前はアンヌフローラです!」
アンヌフローラの怒りが爆発した。
しかしダスティは気にもせず、一旦開錠を諦めると、気だるげに言う。
「言いにくい。アニーで言いか?」
「あ、あ、あ、アニー!?」
「そ。アニーちゃん」
「アニー、ちゃん!?」
相手が取り乱すのを見て、ダスティは皮肉に満ちた笑みを残して、再び開錠作業を再開した。
「で、あるのか」
かちゃかちゃと錠前をいじりながら、ダスティは言葉を続けた。
「何がです?」
「神に会った事は?」
「あ、ありませんよ。そんなたいそれたこと」
「そうか」
「それが今の貴方のおこないと、何の関係があるんです?」
「神々は、案外俺らの近くで暮らしている。これはそういう話さ」
がちゃり。錠前がダスティの行いに屈した音がした。
扉を開けると、屋内から"明かりが漏れ出した"。
「やっ! ちょっと! どこ触ってるんですか!」
ダスティは嫌がるアニーを無造作に屋内へと押し込み、そして、静かに扉を閉めた。
「リーン。こんな時はあんたに会えると思ってたよ」
ダスティは言うと、蝋燭と思しき、淡い明かりで満たされた室内へと入っていく。
アンヌフローラはその後ろから、恐る恐る、明かりが漏れ出る室内を覗き込んだ。
「こ、ここは……」
そこには、多くの服が積まれていた。絹、綿、皮革、その他にもありとあらゆる材質の服が無造作に積まれた、手狭な一室。その奥には、一台の機織機械とそれを操っている老婆が居た。
「また厄介ごとかい? ダスティ」
老婆はゆっくりとした動作でダスティを見やり、驚きもせずそう聞いた。
「そうだ。ついでに、着せがえのあるお姫様を連れてきてた」
老婆の感情の無い瞳がアンヌフローラを捉えた。
老婆は立ち上がり、後退るアンヌフローラをただ眺め、しばらく彼女を嘗め回すように見回した後、なにやら部屋の中の服の山に埋もれに掛かった。
それを見たダスティはひとつ頷いた。
「奥に井戸がある。今のうちにそこで身体を綺麗にしとくといい」
「……また覗くんですか」
「…………」
言われてダスティは項垂れた。ややあって腰のベルトから剣を外し、鞘ごとアンヌフローラに投げてよこす。
「俺が怪しい動きをしてたら、その剣で突き刺せよ」
ダスティは投げ遣りにそう告げて、どこか不貞腐れたまま老婆が居た機織機械のそばに腰を下ろした。
「アンタに貰ったこのマント。大分痛んできてるんだけどさ、また新しいの繕ってよ」
「まだ修繕すれば使えるだろう? そこに置いておきな。すぐ直してやるさ」
「ん。いつもすまないな」
アンヌフローラは老婆と親しげに話すダスティをしばらく眺めていたが、やがて思い出したように部屋の奥へと駆け出した。
その足音からは嬉しさが滲み出し、どこか弾んでいた。
目に映ったのは、一面の雲の海。奥と言われ、幾つかの小部屋を越えたアンヌフローラが見た光景は、井戸があり、草花の茂小さな庭。その庭から覗く光景は、遮るものの無い夜空と、雲の海だった。
水浴びに期待していた自分を忘れ、信じられない気持ちであたりを見回すが、自身が出てきた小屋意外には、雲がただ漂うだけなのだ。
いつしか、雲の海に心を奪われ立ち尽くしていたアンヌフローラの後ろで、頼りなさげな足音がしていた。
アンヌフローラが振り返ると、一着のドレスを携えた老婆が現れていた。
「身体は綺麗にしたかい?」
老婆に聞かれるが、アンヌフローラは警戒してか後退り、首を振った。
「そうかい、なら、身体を洗い終えてから着替えるといい」
「あ、あの、貴方は一体……。それに、ここはどこなんですか?」
「ダスティから何も聞いていないのかい?」
「は、はい……」
「ふむ。童はリーン。ただ衣服を織る、神の端くれさ。ここは、童が大城、ただの機織小屋」
服の女神リーン。それを聞いて、アンヌフローラは自分の背筋がピンと伸びるのを感じた。
「服と商売の神、リーンさま!? じゃ、じゃあ! ダスティは貴方さまの従者なのですか!?」
「いいや。ダスティは違う。童などよりももっと高貴な、そう、高貴な御方の従者さ」
「教えてください、リーンさま! わたしはどうすればいいのですか? 国も城も無い王女にどんな価値があると言うのですか?」
「それも、童が答えられる質問ではないだろう……。ダスティに着いて行きなさい。あの若者は捻くれてはいるが、我ら神々よりも根が真面目だ」
「でも、ダスティさんは何も教えてくれません。それにあの人は、その……」
「信用が置けないかい? 何かを隠しているようで」
「そう! そうなんです!」
「いずれ分かる。あの子が何に悩まされているのか。何を隠さねばならないのか」
老婆は言って、アンヌフローラの背中を押した。
「さあ、まずは身体を洗いなさい。それからこのドレスを着るといい。衣服を着こなせば服の神が微笑んでくれる。少なくとも童が信者はそう言うの」
ほっほっ、と何やら楽しそうに老婆は笑い、そして、またも頼りなさげに足音を立て、ふらふらと揺れて老婆は去った。