第五章 光は其の者を照らし 4
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彼女、アニーは良く知っている部屋に居た。
透け通りそうなほど白い天井と壁、金と銀と絹で模られたインテリア、石造りのテラスから見えるのは見慣れたカラフルな風景。黄緑色の農場の間に見える朱色の屋根で統制された城下町。
「どうして」
彼女は呟かずには入られなかった。
そこは彼女の住まい、ブルレック城の彼女の部屋で、テラスの外に見える風景は彼女が生まれてからこの方ずっと見下ろして来た故郷の街。
まだそれほど遠くない過去の記憶。最後にこの部屋にいた夜、ここから見える風景は炎に包まれていたはずだ。だがそこにあるのは、火災など無かったかのように存在する明るい街並み。
「ユージェン、ユージェンはおるか!」
唐突に不安に襲われて、彼女は臣下の名を叫んだ。しかし、応答はない。
扉を開けて外に出ようとするが、握ったドアノブはどれだけ力を入れてもピクリともしない。
どうして。また呟きそうになって、ふとこんな事になっている理由に思い当たった。
ああ、これは夢なのだ。
――じゃあ、本当の現実は?
「ダスティ――」
後姿だけが記憶に目立つ一人の青年が頭に浮かんだ。強引で、無礼で、でもその内側から僅かな優しさを覗かせる、理解のし難い男。
「エリック――」
愛を説く時、戦っている時、旅の途中に、いつも誠実で達観した眼差しを浮かべる年上の男。
「フィオちゃん――」
強く、たくましく、同じ女として憧れる大人の女性。
「誰か――」
誰も、そこにはいない。
どうして。彼女は混乱した。いまあるこの現実が夢なのか。それともあの辛く、だが楽しかった冒険の日々が夢だったのか。
前者だとしたらどれほど嬉しく、同時に寂しい事なのか。後者だとしたらどれだ辛く、だが幸せな事だろうか。
テラスに出て、外の景色を眺めていると、突然に突風が吹き寄せた。
違った。彼女は吸い寄せられていた。テラスの入り口の柱にしがみ付き、吸い寄せられる方向――部屋の中を見ると、びくともしなかったはずの扉が開いており、その奥から光り輝く何かが覗いていた。
「誰!?」
咄嗟に叫ぶが、返事はない。
その光は部屋の中の物には一切干渉せず、ただ彼女だけを吸い込もうとしているようだった。その証拠に、この激しい突風の中、部屋の家具や置物の類は微動だにしていない。
そして、徐々に吸い寄せる力が強くなっていき、ついには彼女は掴まっていた柱から手を滑らせ、輝く物体に吸い寄せられてしまった。
だがしかし、その光に触れた瞬間に、吸い込む力は消えうせた。
暖かな光に包まれて、頭に響く声を聞いた気がする。男でも女でもない中性的な音質。
彼女はそれを知っていると思えた。だから、その名を口にした。
「ルーディエ」
ハッ、と目を覚ますと同時に耳元で轟音が鳴り響いた。
それが轟音ではなく、いくつもの罵声と金属音であると気がつくのに少しばかり時間がかかった。
凍るように冷たい身体に、暖かい何かが流れ込んでいくのを感じる。血液が身体を巡りだし、目覚めるための準備に入っているのだ。
彼女は、なにやら高級そうな寝袋に包まれて寝かされていた。自分が何故こんな風になっているのかが分からなかった。立ち上がって状況を確かめたかったが、ふらつく体がそれをさせない。
彼女の近くで、幾多の騒音に交じりながら、どこか懐かしい、聞きなれた声が聞こえた。
「パットンよ! 地に刻みし紋様に基づき、奴らを冥府へ案内しろ!」
ダスティ。
ああ、だとしたらこちらが現実なのだ。あの懐かしく暖かな街並みは焼かれ、もう、無いのだ。
それは悲しい事であり、それでもこの旅が現実であることに喜びを感じた。
しみじみと感傷に浸っていて、ふと、あることを思い出した。
パットン。彼がこの神の名を叫ぶとしたら、それは彼らが戦っている、という事だ。
側にあった、まだ購入して間もないセプターを掴み、痺れる体と立ち眩みに耐えながら起き上がる。立ち上がって数歩歩く頃には、体に十分な血液が流れ、なんとか体の自由を保てるようになっていた。
辺りを見回して、彼女は自分がテントの中にいることを理解した。
そして、テントの入り口を開いて、彼女は絶句した。
腕と下半身を鳥に化かした女の魔獣が、空を埋め尽くす勢いで舞っている。彼女が居るテントを守るように囲んでいる黒い兵士達、そしてその兵士達をさらに囲むのは、獅子の体に不気味な尻尾と人の顔を生やした魔獣達。空を飛ぶのはハーピーで、地を這うのはマンティコアだ。
黒色で統一された騎兵と歩兵が円陣を組んで魔獣たちに対抗し、それらに混ざるようにしてダスティ、エリック、フィオの三人が各々に魔獣との激戦を演じていた。
兵士達が各々の仕える神に宣言を立て、力を行使する。エリックを含めた複数の歩兵が矢を空に射る。盾を持った歩兵と並んでダスティとフィオが斬りかかり、その合間をぬって騎兵達が突撃する。
ハーピーの急降下で馬から蹴り落とされる騎兵、マンティコアに圧し掛かり剣を突き刺す歩兵。魔獣達が矢で射られ、槍で突かれて絶命し、幾人もの兵士たちが魔獣の爪や尾にやられては命を落としていた。
この状況が自分の仲間達と、この見知らぬ黒ずくめの者達の危機である事はすぐに分かった。
なんとかしなければ。彼女はそう思った。いつものように足手まといにはなりたくなかった。
だが、彼女に何が出来るのだろう。細く非力な彼女の腕は、武器を持って戦うには力が足りないのだ。
彼女は戦場を目の前にして、ただただ眺めていた。
何かをしなければ。だが何を?
その何かを考えたくとも何も浮かばない。ただ、彼女は無心で行動した。
彼女は両足をしっかり地面に貼り付けて、杖を天高く掲げた。そして――
「ルーディエ!」
その叫びに呼応して、杖の先端部が光り輝いた。




