第一章 二人の物語 1
第一章 二人の物語
その男の子は金槌だった。
彼はある島国の、海辺の街で生まれ育った。街の子供たちは遊びと称して海に行き、そして彼の友達は皆泳ぐ。
だけど彼は一人、それを見守ることくらいしか出来ないでいた。
ある時、男の子の友達の一人が言った。
泳げない奴は、海の神様に見捨てられて、波に攫われてしまうのだ、と。
他愛のない、小さな悪口に過ぎなかったその言葉は、彼をその気にさせるには十分だった。
その日から毎日、彼は浜辺にある海の女神メイリエンの神殿に参拝し、毎日女神像と海を交互に拝み倒した。
――どうか、僕を泳げるようにしてください。僕を攫わないでください。
その子は決して、自分で泳ぐ、とは言い張らなかった。
そんな男の子もいつしか成人し、船乗りとしての第一歩を踏み出していた。
大人になる過程で、いつしか彼は自分自身の力で泳げるようになっていた。だけども彼は、それでも海を眺めては願うのだ。
――どうか、俺を攫わないでください。
海を愛する女神は、それをどんな風に眺めていたのだろうか。
ただ、彼が海の上で不幸に見舞われる事は無かった。嵐は彼の乗る船を避け、大波は彼を元気付けた。
ある時、彼の乗る船は地上で待ち伏せされた。港に停泊した彼らと彼らの乗る船を海賊が襲い、そして乗組員のほとんどが殺された。
なんとか港の片隅まで逃げ延びた彼も、いつかは殺される運命に晒されていた。
海の女神の祝福も、大地へは及ばない。
そこへ、大地の神が囁いた。
――助けて欲しくば私に従え、私に尽くせ。
彼は悩み抜いた末に、命欲しさにその言葉を受け入れた。
彼は信仰を失い、海の女神の加護を失った。
彼は、その言葉を受け入れた自分と、その言葉を囁いた大地の神を――、呪った。
その大地の神の囁きが、海の女神の慈悲によるものであり、大地で力を成さなかった女神の懇願が成したものであった事を彼が知るのは、それから随分と後のことになる。
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「なんたって俺がこんな……」
ぶつぶつぶつ、と呟きながら、険しい山道を登る男が一人。ダスティだ。
彼は結局、岩肌と森が交互に続く、このアーロン山へと脚を進めていた。
「なーにが俺が一番近いだ? いつだって厄介ごとは俺に振ってきてるじゃねぇか。この前なんざ国二つも超えて、待っていたのはくだらない喧嘩の仲裁だぞ? なんで、俺が、そんな細かい仕事を国二つも移動してやらにゃならんのだ。明らかに厄介ごとは俺に来てんだろうが」
特に聞いている相手がいるわけでもないのに、ダスティの愚痴は止まらない。だが彼は分かっているのだ。彼ら人間達に与えられる神託がどのような物であれ、それらに揺り動かされ、なくてもいい恩恵に苦しむのは当事者たる人間達なのだと言うことを。
だからこそ、神々が起こす行動には注意を持って当たらねばならない。それに人が関わるのだとしたら、神の思い通りに、ではなく、人々が真に救われる道を探さねばならない。
ダスティはその想いから、これまでに神々の神託を受けると同時に神々への背信ともとれる行動を取って来ていた。しかし、おそらくは、それすらも神々の思惑の内なのだと、薄々は感づいていた。
「くそっ」
また、利用されるのだろうか。そう思うと苛立ちが募り、つい意味も無く足元の手頃な石ころに当たってしまう。
蹴られた石ころはただ弧を描き、数歩先の茂みへと潜りこみ、
「いたい」
ゴン、という鈍い音と共に聞こえたその声は、女のもののように聞こえた。どうも、茂みに誰かがいたらしい。
ダスティは即座に腰の剣を構えたが、すぐに気を取り直し、半眼で茂みへ近づいた。
茂みを無造作に弄ると、すぐに何かをつかみ取れた。それをひっぱると、ぼろぼろの絹を纏った金髪の少女が現れた。広範囲に及ぶ山岳地において女を捜し、守れといわれた矢先、"偶然"にも女を見つけることができる。
ふぅ、ため息と共にダスティは天を見上げた。
「……また、ヤツらに踊らされてんな」
神々の神託を受けると、こういった偶然はよくある。手間が省けたことが喜ばしい反面、自身の行動を操作されているようでどこかひっかかる。
白地に赤と金で花柄の刺繍を施されたワンピースのドレスは、汚れが目立つが絹製の高級品に見える。背中まで伸ばされた金色の髪も、整った顔立ちも、全て砂埃でくすんでいたが、どこか素性の良さを感じさせた。気絶しているのか、目を閉じ、顔は疲労のためか青ざめているが、年齢は十五、六といったところだろうと予測できた。
果たして、探していた"神託の女"は彼女なのだろうか。
いや、彼女なのだろう。ひとまずは気絶した彼女を介抱する為に、彼女を背に背負うと、ダスティは明後日の方向に歩き出した。
彼は、こちらに介抱に適した泉がある事を感じ取っていた。